2018年05月12日

貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根だ! 2

貧困と犯罪は自己責任・社会責任という区別だけで一元的に観察するのではなく、貧困については生産性をあげる・生産性をさげるという区別で観察し、犯罪については、治安改善・治安悪化という区別で観察することで、脱パラドックス化が図られると考える。
 国民社会全体が豊かになるために、自己責任か社会責任かに関係なく、社会はホームレスの社会復帰を支援することになる。また、国民社会全体の治安を良くするために、自己責任か社会責任かに関係なく、社会は犯罪者の更生を支援することになる。
 にもかかわらず、自己責任だから支援すべきでないとか、社会責任だから支援を受けて当然だとかという議論が、ブロガーのうちでも広がりすぎている。この議論のために、かえって貧困と犯罪の問題が責任の所在という道徳の問題にすり替わっているのである。
 多くのホームレス支援団体の人たちが、一般大衆が自己責任論という物語でホームレスを評価することに対して反発し、貧困の社会責任を強調すればするほど、責任という道徳の問題にとなり、敵をつくることになるのである。いやむしろ、社会的弱者・社会的犠牲者のみを援助すべきであるという単純な道徳を一般大衆も活動家もともに共有しているのである。批判する相手は自己と同じ道徳観であるのに、それに気づいていない。
 社会的弱者・社会的犠牲者であろうがなかろうが、貧困と犯罪は国家が処理しなければならない課題である。責任があるないの問題ではなく、社会政策として貧困と犯罪の問題を処理するシステム論的思考が必要かと思われる。
 社会的弱者・社会的犠牲者のみが援助を受ける道徳的正当性や権利があるとする戦後左翼的な道徳観を活動の動機付けとする活動家は、(自己責任/社会責任)という区別の再生産し続けるのである。
 一般大衆や活動家の弱者保護という通俗道徳とは関係なく、治安を維持するために、社会的弱者・社会的犠牲者でない多くの犯罪者に対しても、更生のために社会的援助を受けさせるべきであり、同様にして、社会の生産性向上のためには、怠け癖の自己責任でホームレスやニートになった人間に対しても、国家が社会復帰を援助すべきなのである。
 逆説的であるが、社会学的には、貧困と犯罪の自己責任論と社会責任論は、社会的弱者保護の道徳観という同一の源をもつのである。
posted by GHQ/HOGO at 07:54| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月11日

貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根だ! 2

貧困と犯罪は自己責任・社会責任という区別だけで一元的に観察するのではなく、貧困については生産性をあげる・生産性をさげるという区別で観察し、犯罪については、治安改善・治安悪化という区別で観察することで、脱パラドックス化が図られると考える。
 国民社会全体が豊かになるために、自己責任か社会責任かに関係なく、社会はホームレスの社会復帰を支援することになる。また、国民社会全体の治安を良くするために、自己責任か社会責任かに関係なく、社会は犯罪者の更生を支援することになる。
 にもかかわらず、自己責任だから支援すべきでないとか、社会責任だから支援を受けて当然だとかという議論が、ブロガーのうちでも広がりすぎている。この議論のために、かえって貧困と犯罪の問題が責任の所在という道徳の問題にすり替わっているのである。
 多くのホームレス支援団体の人たちが、一般大衆が自己責任論という物語でホームレスを評価することに対して反発し、貧困の社会責任を強調すればするほど、責任という道徳の問題にとなり、敵をつくることになるのである。いやむしろ、社会的弱者・社会的犠牲者のみを援助すべきであるという単純な道徳を一般大衆も活動家もともに共有しているのである。批判する相手は自己と同じ道徳観であるのに、それに気づいていない。
 社会的弱者・社会的犠牲者であろうがなかろうが、貧困と犯罪は国家が処理しなければならない課題である。責任があるないの問題ではなく、社会政策として貧困と犯罪の問題を処理するシステム論的思考が必要かと思われる。
 社会的弱者・社会的犠牲者のみが援助を受ける道徳的正当性や権利があるとする戦後左翼的な道徳観を活動の動機付けとする活動家は、(自己責任/社会責任)という区別の再生産し続けるのである。
 一般大衆や活動家の弱者保護という通俗道徳とは関係なく、治安を維持するために、社会的弱者・社会的犠牲者でない多くの犯罪者に対しても、更生のために社会的援助を受けさせるべきであり、同様にして、社会の生産性向上のためには、怠け癖の自己責任でホームレスやニートになった人間に対しても、国家が社会復帰を援助すべきなのである。
 逆説的であるが、社会学的には、貧困と犯罪の自己責任論と社会責任論は、社会的弱者保護の道徳観という同一の源をもつのである。
posted by GHQ/HOGO at 06:44| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根だ! 2

貧困と犯罪は自己責任・社会責任という区別だけで一元的に観察するのではなく、貧困については生産性をあげる・生産性をさげるという区別で観察し、犯罪については、治安改善・治安悪化という区別で観察することで、脱パラドックス化が図られると考える。
 国民社会全体が豊かになるために、自己責任か社会責任かに関係なく、社会はホームレスの社会復帰を支援することになる。また、国民社会全体の治安を良くするために、自己責任か社会責任かに関係なく、社会は犯罪者の更生を支援することになる。
 にもかかわらず、自己責任だから支援すべきでないとか、社会責任だから支援を受けて当然だとかという議論が、ブロガーのうちでも広がりすぎている。この議論のために、かえって貧困と犯罪の問題が責任の所在という道徳の問題にすり替わっているのである。
 多くのホームレス支援団体の人たちが、一般大衆が自己責任論という物語でホームレスを評価することに対して反発し、貧困の社会責任を強調すればするほど、責任という道徳の問題にとなり、敵をつくることになるのである。いやむしろ、社会的弱者・社会的犠牲者のみを援助すべきであるという単純な道徳を一般大衆も活動家もともに共有しているのである。批判する相手は自己と同じ道徳観であるのに、それに気づいていない。
 社会的弱者・社会的犠牲者であろうがなかろうが、貧困と犯罪は国家が処理しなければならない課題である。責任があるないの問題ではなく、社会政策として貧困と犯罪の問題を処理するシステム論的思考が必要かと思われる。
 社会的弱者・社会的犠牲者のみが援助を受ける道徳的正当性や権利があるとする戦後左翼的な道徳観を活動の動機付けとする活動家は、(自己責任/社会責任)という区別の再生産し続けるのである。
 一般大衆や活動家の弱者保護という通俗道徳とは関係なく、治安を維持するために、社会的弱者・社会的犠牲者でない多くの犯罪者に対しても、更生のために社会的援助を受けさせるべきであり、同様にして、社会の生産性向上のためには、怠け癖の自己責任でホームレスやニートになった人間に対しても、国家が社会復帰を援助すべきなのである。
 逆説的であるが、社会学的には、貧困と犯罪の自己責任論と社会責任論は、社会的弱者保護の道徳観という同一の源をもつのである。
posted by GHQ/HOGO at 06:44| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根だ! 2

貧困と犯罪は自己責任・社会責任という区別だけで一元的に観察するのではなく、貧困については生産性をあげる・生産性をさげるという区別で観察し、犯罪については、治安改善・治安悪化という区別で観察することで、脱パラドックス化が図られると考える。
 国民社会全体が豊かになるために、自己責任か社会責任かに関係なく、社会はホームレスの社会復帰を支援することになる。また、国民社会全体の治安を良くするために、自己責任か社会責任かに関係なく、社会は犯罪者の更生を支援することになる。
 にもかかわらず、自己責任だから支援すべきでないとか、社会責任だから支援を受けて当然だとかという議論が、ブロガーのうちでも広がりすぎている。この議論のために、かえって貧困と犯罪の問題が責任の所在という道徳の問題にすり替わっているのである。
 多くのホームレス支援団体の人たちが、一般大衆が自己責任論という物語でホームレスを評価することに対して反発し、貧困の社会責任を強調すればするほど、責任という道徳の問題にとなり、敵をつくることになるのである。いやむしろ、社会的弱者・社会的犠牲者のみを援助すべきであるという単純な道徳を一般大衆も活動家もともに共有しているのである。批判する相手は自己と同じ道徳観であるのに、それに気づいていない。
 社会的弱者・社会的犠牲者であろうがなかろうが、貧困と犯罪は国家が処理しなければならない課題である。責任があるないの問題ではなく、社会政策として貧困と犯罪の問題を処理するシステム論的思考が必要かと思われる。
 社会的弱者・社会的犠牲者のみが援助を受ける道徳的正当性や権利があるとする戦後左翼的な道徳観を活動の動機付けとする活動家は、(自己責任/社会責任)という区別の再生産し続けるのである。
 一般大衆や活動家の弱者保護という通俗道徳とは関係なく、治安を維持するために、社会的弱者・社会的犠牲者でない多くの犯罪者に対しても、更生のために社会的援助を受けさせるべきであり、同様にして、社会の生産性向上のためには、怠け癖の自己責任でホームレスやニートになった人間に対しても、国家が社会復帰を援助すべきなのである。
 逆説的であるが、社会学的には、貧困と犯罪の自己責任論と社会責任論は、社会的弱者保護の道徳観という同一の源をもつのである。
posted by GHQ/HOGO at 06:44| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根だ! 1

 貧困や犯罪が自己責任に帰着する現象であったとしても、ホームレスや犯罪者が貧困や再犯に陥らないように支援することは十分に正当化される。
 しかし、新自由主義者等は、自己責任だから個人で何とかすべきであり、国家や市民からの社会的援助を受けるのは道徳的に間違いであるという発想をとる。反対に、自己責任論神話からホームレスや犯罪者を守るために、社会責任説をとり、ホームレスや犯罪者を社会的弱者・社会的犠牲者として捉え、道徳的正当性を担保しようとする者もいる。これは、知識社会学的には、戦後の左翼思想と同根の道徳観に基づいている。社会的弱者・社会的犠牲者は守るべきであるという道徳観である。
 ところが、皮肉なことに、貧困と犯罪の自己責任説を論破しようとする論客たちは、(自己責任=個人責任/自己責任でない=社会責任)という区別に準拠して議論し、社会責任という項をマークし、自己責任論者を否定しようとすることで、自ずとその反対者と同一の地平にいることになってしまうのである。
 つまり、自己責任論者も社会責任論者も、(自己責任/自己責任でない)という同じ区別に準拠している。マークする項は反対でも、同じ区別に準拠して議論している限り、反対者を逆に再生産してしまうのである。社会責任と自己責任の二項対立図式に準拠している限り、対立的に互いの存在を必要としてしまうのである。このような区別の論理は、あらゆる差別解放運動につきものである。女性の人権を強調するあまり、逆に男女の区別を強化してしまい、差別解放運動が逆に敵をつくりだしてしまうことはよくある。ニセ科学批判者が(科学/ニセ科学)の区別に拘泥するあまり、ニセ科学批判批判者などの敵をつくりだすのと同じである。
 システム論的には、対立二項図式に準拠する全ての社会運動は、自らが敵を作り出し、永久闘争に陥るのである。このような不毛な対立から抜け出すためには、現象を別の区別から観察する他ない。 
posted by GHQ/HOGO at 06:43| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根だ! 1

 貧困や犯罪が自己責任に帰着する現象であったとしても、ホームレスや犯罪者が貧困や再犯に陥らないように支援することは十分に正当化される。
 しかし、新自由主義者等は、自己責任だから個人で何とかすべきであり、国家や市民からの社会的援助を受けるのは道徳的に間違いであるという発想をとる。反対に、自己責任論神話からホームレスや犯罪者を守るために、社会責任説をとり、ホームレスや犯罪者を社会的弱者・社会的犠牲者として捉え、道徳的正当性を担保しようとする者もいる。これは、知識社会学的には、戦後の左翼思想と同根の道徳観に基づいている。社会的弱者・社会的犠牲者は守るべきであるという道徳観である。
 ところが、皮肉なことに、貧困と犯罪の自己責任説を論破しようとする論客たちは、(自己責任=個人責任/自己責任でない=社会責任)という区別に準拠して議論し、社会責任という項をマークし、自己責任論者を否定しようとすることで、自ずとその反対者と同一の地平にいることになってしまうのである。
 つまり、自己責任論者も社会責任論者も、(自己責任/自己責任でない)という同じ区別に準拠している。マークする項は反対でも、同じ区別に準拠して議論している限り、反対者を逆に再生産してしまうのである。社会責任と自己責任の二項対立図式に準拠している限り、対立的に互いの存在を必要としてしまうのである。このような区別の論理は、あらゆる差別解放運動につきものである。女性の人権を強調するあまり、逆に男女の区別を強化してしまい、差別解放運動が逆に敵をつくりだしてしまうことはよくある。ニセ科学批判者が(科学/ニセ科学)の区別に拘泥するあまり、ニセ科学批判批判者などの敵をつくりだすのと同じである。
 システム論的には、対立二項図式に準拠する全ての社会運動は、自らが敵を作り出し、永久闘争に陥るのである。このような不毛な対立から抜け出すためには、現象を別の区別から観察する他ない。 
posted by GHQ/HOGO at 06:43| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月10日

貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根だ! 1

 貧困や犯罪が自己責任に帰着する現象であったとしても、ホームレスや犯罪者が貧困や再犯に陥らないように支援することは十分に正当化される。
 しかし、新自由主義者等は、自己責任だから個人で何とかすべきであり、国家や市民からの社会的援助を受けるのは道徳的に間違いであるという発想をとる。反対に、自己責任論神話からホームレスや犯罪者を守るために、社会責任説をとり、ホームレスや犯罪者を社会的弱者・社会的犠牲者として捉え、道徳的正当性を担保しようとする者もいる。これは、知識社会学的には、戦後の左翼思想と同根の道徳観に基づいている。社会的弱者・社会的犠牲者は守るべきであるという道徳観である。
 ところが、皮肉なことに、貧困と犯罪の自己責任説を論破しようとする論客たちは、(自己責任=個人責任/自己責任でない=社会責任)という区別に準拠して議論し、社会責任という項をマークし、自己責任論者を否定しようとすることで、自ずとその反対者と同一の地平にいることになってしまうのである。
 つまり、自己責任論者も社会責任論者も、(自己責任/自己責任でない)という同じ区別に準拠している。マークする項は反対でも、同じ区別に準拠して議論している限り、反対者を逆に再生産してしまうのである。社会責任と自己責任の二項対立図式に準拠している限り、対立的に互いの存在を必要としてしまうのである。このような区別の論理は、あらゆる差別解放運動につきものである。女性の人権を強調するあまり、逆に男女の区別を強化してしまい、差別解放運動が逆に敵をつくりだしてしまうことはよくある。ニセ科学批判者が(科学/ニセ科学)の区別に拘泥するあまり、ニセ科学批判批判者などの敵をつくりだすのと同じである。
 システム論的には、対立二項図式に準拠する全ての社会運動は、自らが敵を作り出し、永久闘争に陥るのである。このような不毛な対立から抜け出すためには、現象を別の区別から観察する他ない。 
posted by GHQ/HOGO at 07:12| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根だ! 1

 貧困や犯罪が自己責任に帰着する現象であったとしても、ホームレスや犯罪者が貧困や再犯に陥らないように支援することは十分に正当化される。
 しかし、新自由主義者等は、自己責任だから個人で何とかすべきであり、国家や市民からの社会的援助を受けるのは道徳的に間違いであるという発想をとる。反対に、自己責任論神話からホームレスや犯罪者を守るために、社会責任説をとり、ホームレスや犯罪者を社会的弱者・社会的犠牲者として捉え、道徳的正当性を担保しようとする者もいる。これは、知識社会学的には、戦後の左翼思想と同根の道徳観に基づいている。社会的弱者・社会的犠牲者は守るべきであるという道徳観である。
 ところが、皮肉なことに、貧困と犯罪の自己責任説を論破しようとする論客たちは、(自己責任=個人責任/自己責任でない=社会責任)という区別に準拠して議論し、社会責任という項をマークし、自己責任論者を否定しようとすることで、自ずとその反対者と同一の地平にいることになってしまうのである。
 つまり、自己責任論者も社会責任論者も、(自己責任/自己責任でない)という同じ区別に準拠している。マークする項は反対でも、同じ区別に準拠して議論している限り、反対者を逆に再生産してしまうのである。社会責任と自己責任の二項対立図式に準拠している限り、対立的に互いの存在を必要としてしまうのである。このような区別の論理は、あらゆる差別解放運動につきものである。女性の人権を強調するあまり、逆に男女の区別を強化してしまい、差別解放運動が逆に敵をつくりだしてしまうことはよくある。ニセ科学批判者が(科学/ニセ科学)の区別に拘泥するあまり、ニセ科学批判批判者などの敵をつくりだすのと同じである。
 システム論的には、対立二項図式に準拠する全ての社会運動は、自らが敵を作り出し、永久闘争に陥るのである。このような不毛な対立から抜け出すためには、現象を別の区別から観察する他ない。 
posted by GHQ/HOGO at 07:11| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根だ! 1

 貧困や犯罪が自己責任に帰着する現象であったとしても、ホームレスや犯罪者が貧困や再犯に陥らないように支援することは十分に正当化される。
 しかし、新自由主義者等は、自己責任だから個人で何とかすべきであり、国家や市民からの社会的援助を受けるのは道徳的に間違いであるという発想をとる。反対に、自己責任論神話からホームレスや犯罪者を守るために、社会責任説をとり、ホームレスや犯罪者を社会的弱者・社会的犠牲者として捉え、道徳的正当性を担保しようとする者もいる。これは、知識社会学的には、戦後の左翼思想と同根の道徳観に基づいている。社会的弱者・社会的犠牲者は守るべきであるという道徳観である。
 ところが、皮肉なことに、貧困と犯罪の自己責任説を論破しようとする論客たちは、(自己責任=個人責任/自己責任でない=社会責任)という区別に準拠して議論し、社会責任という項をマークし、自己責任論者を否定しようとすることで、自ずとその反対者と同一の地平にいることになってしまうのである。
 つまり、自己責任論者も社会責任論者も、(自己責任/自己責任でない)という同じ区別に準拠している。マークする項は反対でも、同じ区別に準拠して議論している限り、反対者を逆に再生産してしまうのである。社会責任と自己責任の二項対立図式に準拠している限り、対立的に互いの存在を必要としてしまうのである。このような区別の論理は、あらゆる差別解放運動につきものである。女性の人権を強調するあまり、逆に男女の区別を強化してしまい、差別解放運動が逆に敵をつくりだしてしまうことはよくある。ニセ科学批判者が(科学/ニセ科学)の区別に拘泥するあまり、ニセ科学批判批判者などの敵をつくりだすのと同じである。
 システム論的には、対立二項図式に準拠する全ての社会運動は、自らが敵を作り出し、永久闘争に陥るのである。このような不毛な対立から抜け出すためには、現象を別の区別から観察する他ない。 
posted by GHQ/HOGO at 07:11| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月09日

貧困は「人格の欠如」ではなく「金銭の欠乏」である 3

貧困は「人格の欠如」ではなく「金銭の欠乏」である。会ったこともない人々に靴や ぬいぐるみを送るのはやめるべきだ。保護者的統制主義の役人が動かす巨大な業界を撤廃して支援の対象である貧困者たちにその分の給料を渡せばいいだけだ。
 お金の素晴らしいところは、頼まれもしない専門家たちが考えたものではなく、自分で必要だと思ったものを 買えるという点なのである。どれだけの優秀な科学者や起業家や文筆家が、今この瞬間にも、貧しさの中で 弱り果てていることか。貧困を根絶できたとしたら、どれだけの力と才能を世に解き放つことができるか。基礎所得保障にはベンチャーキャピタルのような効果を人々にもたらすはずである。貧困とは非常に金のかかるものだからだ。例えば アメリカで子供の貧困対策にかかっている費用を考えてみれば、年間5千億ドルにも上ると言われている。医療費に 学校教育からの脱落率に 犯罪率の増加を考慮すると、そういう計算になるのである。これは 人間の潜在能力の とてつもない浪費になる。
  しかし 誰もが目をそらす。
基礎所得を保障する金など一体どうやって捻出できるというのか。実はだれもが考えるよりもずっと安上がりなのだ。ドーファンではどうしたかというと、「負の所得税」を導入した。貧困線以下に陥った人には、追加所得が支給されるという仕組みである。このシナリオでは、現代の経済学者が考える最善の予想では、1750億ドルの実費−アメリカの軍事費4分の1、GDP1%に当たる金額で、アメリカの貧困者全員が貧困線から抜け出せる。貧困の撲滅が実現するのだ。
 ちょっとした寄付や後押しをしようという時代は終わった。急進的で斬新なアイデアを打ち出すときが来ているのだ。基礎所得保障は単なる政策よりもずっと意味がある。仕事とは何かという概念を根本から覆すものでもある。そういった意味では 貧困者を解放するだけでなく、誰もが自由になれるのである。
 このところ、仕事に意味や意義を見いだせないという人が少なくとも何百万人もいる。42ヵ国、23万人の会社員を対象とした最近の調査によると、実際に仕事が好きだという人はたったの13%であった。もう1つの調査では、イギリスの会社員の37%が、自分の仕事の存在意義さえ疑っているという結果が出た。『ファイトクラブ』のブラッド・ピットの言葉 「要りもしないガラクタを買うために 嫌いな仕事をしてるヤツが多すぎる」。
 誤解のないように言っておくと、教師とか、ゴミ収集業者とか、介護職の話をしているわけではない。そういう人たちがいなくなったら大変なことになる。不要な仕事とは、立派な経歴を持つ、高給取りのビジネスマンが 「ピア・ツー・ピア」の「業務戦略会議」で、「インターネット社会における付加価値の創造」だの、「革新的な価値共創」だのを「ブレインストーミング」する−「革新的な価値共創」だのを「ブレインストーミング」する− そういう系の仕事なのである。どれだけの才能を浪費していることか。そもそも私たちが子供たちに、「生きるために働け」と教えるからなのだ。Facebookで働く数学の天才が、何年か前に嘆いていた。
「私の世代最高の頭脳が考えることが、よりにもよってウェブ広告のクリックを どうやって増やすか だなんて…」
 歴史から何か学べることがあるとすれば 世の中は変えられるということだ。人が作った社会や経済の構造に不可抗力なんて1つもないはずだ。アイデアは世界を変えられるし、実際 変えている。特に、この数年で 痛烈に明らかになったのは、もう現状にしがみついてはいられないし、新しいアイデアが必要だということなのだ。
 広がり続ける格差や外国人排斥傾向や気候変動などの行方について悲観的に思っている方も多いのではないか。でも、何に対して反対なのかだけではなく、何に賛成なのかも考えるべきだ。キング牧師は「私には悪夢がある」 とは言わなかったではないか。
 彼には夢があったのだ。
 だから、 私が信じる未来では 人の仕事の価値を決めるのは、給料の額ではなく、周りに広げる幸せや周りに与える意義なのだ。私の信じる未来では、教育はありふれた不用な仕事の準備段階ではなく、いい人生の準備段階なのである。私が信じる未来では、貧困と無縁の生活が、特権ではなく、誰にとっても当然なになるはずだ。
 さて、ここからが問題なのだ。研究結果も証拠も揃っているし、実行手段も明らかなのである。そして トマス・モアが基礎所得保障を提唱してから5百年以上になり、ジョージ・オーウェルが貧困の本質を突き止めてから百年以上になる。誰もが世界観を改めねばならないのだ。貧困とは、人格の欠如ではない。貧困とは、金銭の欠乏なのである。
posted by GHQ/HOGO at 07:16| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする