2019年08月24日

生活保護法再改正の「ワナとムチ」 国際社会も警鐘を鳴らす内容に

 2018年6月1日、生活保護法再改正が参院本会議で可決され、成立した。「アメとムチ」ならぬ「ワナとムチ」のような法律だ。「大学進学支援」という極めて少量の「アメ」が薄く引き延ばされて表面を覆っているかのように見えるが、24金で薄くコーティングした鉛の球を「24金の球」と呼ぶ人はいないだろう。
 直前の5月24日、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)はプレスリリースを発表し、日本政府に対話を申し入れた。プレスリリースは、極度の貧困と人権の特別報告者、対外債務と人権の独立専門家、障害者の権利の特別報告者、高齢者の人権の独立専門家の連名となっており、国際社会に重く受け止められていることがわかる。しかし、日本政府は応答していない。外務省に送られたプレスリリースは、現在のところ完全に無視された格好となっている。
 この特別報告者プレスリリースを通じて、日本の生活保護が国際社会の中でどのような役割を担っているのかを概観したい。
 なお、国連特別報告者は国連そのものではないが、国連の看板を背負って調査などの活動を行う専門家たち、「ほぼ国連」だ。意見の相違もあれば、一時的な勘違いもあるが、最初から正解を持っているわけではない。むろん、何らかの正解を押し付けるために活動しているわけでもない。活動目的を一言でまとめれば、「いつでもどこでも誰にでも、人権が守られているように」ということだ。人権はその個人にとっても重要だが、さらに世界規模の重要性を持っている。
 社会保障、特に公的扶助は、世界の発展と安定に対して非常に重要な役割を担っており、先進国には牽引が期待される。難民問題は戦乱や紛争から生まれる。戦乱や紛争は社会の不安定さから生まれる。
 社会を不安定にする大きな要因の1つは、貧困と格差だ。戦乱や紛争によって命からがら逃げ出すしかなかった人々は、近隣諸国の品性の問題として、待ったなしで救済しなくてはならない。しかし、「なんでウチがやらなきゃいけないんだ」というホンネの不平不満は避けられない。
 難民問題を含め根本的な対策は、各国単位でも地域単位でも世界単位でも「近所迷惑」「ご町内の迷惑」の発生を抑えることに尽きる。国連を「国際町内会」と考えれば、納得しやすいだろう。「その町内会はイヤだから、別の地球をつくって移住したい」と望んでも、現在のところは実現不可能だ。
 日本の公的扶助はほぼ生活保護だけである。「それしかない」という状況も問題なのだが、ともあれ生活保護は法律としても保護費としても、「扶ける」「助ける」の2つの「たすける」を組み合わせた「扶助」の名に値する必要がある。今回の国連特別報告者たちによるプレスリリースは、「日本のそのワナとムチ(極薄アメコーティング)、削減される一方の生活保護費は、『公的扶助』なのですか」という問いかけでもある。
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2019年08月23日

セーフティネットを焼野原に

 わたしたちがモラルパニックに心を奪われること自体が、ここ数十年の社会環境の変化に伴う生存条件の悪化を表している。わたしたちが本来やるべきことは、そんな荒廃した寄る辺ない世界を少しでも改善する試みしかないはずである。
 わたしたちが自分たちの不安な身の上を直視することを避け、特定の階層や人物を問題の根本原因であるかのように叩き続ける限り、その炎上騒動のどさくさに紛れて国家は火事場泥棒的な政策を推し進め、自他のセーフティネットを文字通り焼野原にしてしまうだろう。
 最悪の場合、わたしたちを待ち受けているのは、信頼できる仲間が1人もおらず、社会保障もほとんどない暗黒の未来である。
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2019年08月22日

世間体≠ニいう「見えない宗教」

 わたしたちが、生活保護の不正受給のような些末な事象を針小棒大に騒ぎ立てるのは、ヤングのいう2つのカオスに恒常的にさらされ不満や欠乏の感情が増大する中で、「かれら」が「自己犠牲として経験される労働」と「消費者の地位を脅かす金銭的不安」から免除されていると見なすからではないか。
 つまり、特権的なポジションを付与されていると早合点するがゆえに、それに見合う行動の制限とスティグマ(恥辱、汚名)を要求するのである。
 これは、いわばマジョリティとなった社会的つながりの希薄な個人が、自分自身が強いられている規範意識を基準点にするような形で、公的支援を受ける者の道徳的妥当性を吟味するといった、「個人による個人監視」に血道を上げる異様な世界である。
 別言すれば、世間体≠ニいう「見えない宗教」を中心教義に据える「宗教警察」のごとき振る舞いといえる。
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2019年08月21日

「ゲスの勘繰り」の昂進

 残念ながら中間層を自任する人々といわゆる貧困層とされる人々の間に明確なライフスタイルの差はなくなりつつある。
 仕事も家族も不安定化する一方で、コミュニティの衰退は必至であり、消費を通じた自己実現とオンラインの世界への依存が強まっている。
 その文化的な志向性にさほど大きな違いはない。要するに、欲望のレベルで「似たもの同士」であること、表面上の差異が分かりにくいことが、かえって「ゲスの勘繰り」を昂進させることになり、貧困層に対する反発や違和感をもたらすのだ。
 相対的貧困への無理解がまさにそうだ。
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2019年08月20日

「正常ではない」者にカテゴライズ

 振り返ると、平成の30年間はこの2つのカオスが社会の隅々に浸透した時代であった。
 日々やせ我慢をして自己抑制が求められる「過剰同調社会」の住人であるわたしたちは、憲法で保障される生存権の意義や世界的に低い生活保護の捕捉率を理解する以前に、「働かずに給付を得る怠惰な連中」と決め付け、「正常ではない」者にカテゴライズすることで、自分自身のライフスタイルを型にはめている価値体系を守ろうとするのだ。
ヤングは次のように指摘する。
 『彼らと我らという二項対立をかき立てることで、アンダークラスは容易にアイデンティティを確立する拠点になる。そこでは「我ら」とは、正常で、勤勉で、きちんとした存在であり、「彼ら」はこうした本質的資質が欠如した存在である。このような本質主義こそがアンダークラスを同質的でわかりやすく、機能不全な実体として構成し、それを悪魔化する』
 これを日本の状況に置き換えると、(国家の隠された欲求である)「福祉の切り捨て」と(国民の隠された欲求である)「われらの優位性」が一致する危険な地点となるのである。
 つまり、公的扶助が適正に機能することよりも、自尊感情の手当てが優先されるのだ。
 2016年、NHKニュース7で取り上げられた経済的な貧困で進学を断念した高校3年生の女子生徒をめぐり、ネットで炎上が起こったことにそれが如実に表れている。
 本人のTwitterを探し当てた者が人気マンガのグッズを購入したり、1000円以上のランチを食べることを批判し始めたのだ。
 つまり、そこには「アンダークラスは最低限の衣食住以外の出費をするな」という清貧的なライフスタイルの強制を求める主張が根幹にあったのではないか。
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2019年08月19日

「パチンコにつぎ込む中年男性」

 多種多様なバックグラウンドを持つ生活保護受給者に対して単一の偏ったイメージが押し付けられることが、重要なのである。テレビは「パチンコにつぎ込む中年男性」などのステレオタイプ化された受給者像を喧伝し、「制度の問題」ではなく「人の問題」にすり替えて矯正の必要性をほのめかした。片山さつきなどの政治家の言説とテレビの報道姿勢の足並みがそろうのは決して偶然ではない。
 現実としてわずか3%に満たない不正に憤っているというよりかは、ある思想家が「貧困であることは、ますます犯罪とみなされる」と評したように、「生活保護受給者そのものが不正の温床」に感じられるのである。
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2019年08月18日

「損得勘定」に異常なほど敏感

 わたしたちがまず確認しておかなければならないのは、わたしたちが置かれている経済的または心理的な状況だ。先進国の多くで国民が「損得勘定」に異常なほど敏感になっており、富裕層や貧困層などの階層をターゲットに怒りを爆発させることが日常茶飯事になっている。
 これは「自分のライフスタイル」と「他人のライフスタイル」を比較することが大きな関心事となり、そのずれに不満や欠乏の感情を抱きやすくなっているからだ。しかも、比較の対象範囲は上下左右を問わず全方位に拡大している。
 社会学者のジョック・ヤングはこのことについて、「報酬のカオス」と「アイデンティティのカオス」が背景にあると説明する。報酬が個人の能力に応じて公正に配分されているという原則が侵害されることが「報酬のカオス」であり、アイデンティティと社会的価値を保持している感覚が他者に尊重されることが危うくなることが「アイデンティティのカオス」である。この2つのカオスにわたしたちは直面しているという。
 勤勉な大多数の市民は、報酬が支離滅裂な方法で配分されている気配を察知している。こうした報酬配分があまりにも広がったために、社会全体の道理がかなっているとの了解するのは困難である。このような報酬のカオスに対する怒りの矛先は、階級構造の最上部の大金持ちか最底辺層に、つまり労働の対価が明らかに多すぎる人と、働かずに報酬を得ている人に向けられる傾向がある。言い換えれば、あからさまに能力主義の原理を攪乱する者たち、すなわち大金持ちとアンダークラスに敵意が集中するのである。【ジョック・ヤング『後期近代の眩暈―排除から過剰包摂へ』(青土社)】
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2019年08月17日

「生活保護バッシング」繰り返される理由「ゲスの勘繰り」行き着く先は……

 ネット上の「生活保護バッシング」は、なぜ繰り返されるのか。平成は「個人による個人監視」という異様な世界を生み出した。2012年、あるお笑い芸人の母親が生活保護を受けていることが発端となり、国会議員を巻き込む騒動となった。その後もやまないバッシングの連鎖。「ゲスの勘繰り」が行き着く先とは……。
「誰かが得をしている」=「自分が損をしている」という短絡的な思考で、特定の他者に敵意を向ける感受性が今ほど先鋭化している時代はないのではないか。昭和の終わり頃にすでに種がまかれていたとはいえ、数多の「炎上」を引き起こす不安の芽は、平成に入って社会全体を覆い尽くすほどに成長した。
 2012年にある週刊誌の記事がきっかけとなって、お笑い芸人の河本準一の母親が生活保護受給者であることが報じられ、参議院議員の片山さつきが不正受給疑惑の問題へと発展させた。これが呼び水となり、ネットではソーシャルメディアなどで河本個人に対する攻撃的な言動を行なうユーザーが拡大し、テレビを中心に「誤報」を交えた扇情的な報道がなされたことも手伝って、「生活保護バッシング」と称されるものが吹き荒れることになった。以後、生活保護にまつわる問題は、ガソリン級の炎上を誘発しやすい、燃焼性の高い案件として現在に至っている。
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2019年08月16日

生活保護の「最低限度の生活」とは?

 ここ日本は、資本主義経済の一員。計画経済を行っている国とは違う。一定のルールの下、自由に商売をすることができる。ただ、そのまま放置しておくと、富める者とそうでない者との格差は、どんどん広がっていく。また、何かの拍子に、病気やトラブルなどにあって、突如生活に困窮することもあるだろう。
 そこで憲法第25条第1項では、
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
 と規定している。ただし、この規定は、国の責務を宣言したにとどまる。だから、具体的権利として、「生活保護法」が別途作られており、このことで権利として主張することができる。
 ところで憲法は、終戦後GHQがつくったため、生まれながらにして英文がある。 例えば今回の憲法25条の場合は、
  「All people shall have the right to maintain the minimum standards of wholesome and cultured living.」
  「すべての人々には、健康的で文化的生活の最低水準を維持する権利がある」
 さて、ここで問題となってくるのが、生活保護の基準となる「健康で文化的な最低限度の生活」というもの…。 実はこれには有名な「朝日訴訟」というものがある。 朝日茂氏が、兄からちょっとした日用品の仕送りを受けたら、生活扶助の保護が打ち切られたため、争ったものだ。最高裁大法廷は傍論で、生活保護基準の考え方を下記の通り示した。
 『健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴って向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるものである。
 したがって、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委されており、その判断は、当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあっても、直ちに違法の問題を生ずることはない。ただ、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨 目的に反し、法律によって与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない』
 つまり、「最低限度の生活」の判断は、国に広い裁量権の余地があるということだ。
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2019年08月15日

政治の不在が貧困を生み出す

 安倍総理も麻生財務大臣も、黒田日銀総裁も誰も口にしないし、口にしてはならないのだが、金融緩和から需要創出に結びつくと「見込まれる」ルートは、「円安により、日本の実質輸出が増える」だったはずなのだ。無論、日本のような大国が、「円の為替レートを引き下げるために、量的緩和を拡大する」などと、エゴイスティックな政策をやるわけにはいかない。あるいは、やっていることを認めてはならないのだ。
 金融政策拡大の目的は、あくまで「デフレ脱却」であり、結果的に円安になったとしても、それは「副次的な効果」に過ぎないというスタイルだったわけだ。
 2013年春以降、大幅に円安が進んだわけだが、日本政府や日銀は「為替レート引き下げのためにやっているのではない。デフレ脱却が目的で量的緩和を拡大している」と、説明していたわけだ。問題は、円安になった結果、需要が増えたのか、という点になる。
 円安は外国でドルなどの外貨を稼ぐ大企業の「日本円建ての収益」の見た目を押し上げる。とはいえ、これは一度限りの効果なのだ。為替レートを引き下げることの最大の目的は、もちろん外貨建てで日本製品・サービスの価格を押し下げ、価格競争力を向上させ、外国企業との競合に勝つこと。日本企業が円安で外国におけるモノやサービスの販売を増やせば、これは「純輸出の増加」ということで、日本の需要(=GDP)が増える。
 日本の実質輸出は、これほどまでに円安が進んだにも関わらず、いまだにリーマンショック前はもちろんのこと、東日本大震災前をも下回っている。そもそも、「円安になれば、輸出が増える」とは、セイの法則に基づいた単純論なのである。すなわち、世界的に「需要が拡大している」という前提になっているわけだ。
 現在は、世界的に貿易総量が減少している。世界的に需要が拡大していない時期には、「円安になれば、輸出が増える」といった単純論は、少なくともマクロ的には成り立たない。
 安倍政権は、金融緩和を進めると同時に、国内の需要を財政政策で拡大し、輸出入の影響が小さい頑健な日本経済を目指すべきだった。ところが、実際にはデフレ対策については日銀に丸投げし、政府は緊縮財政。需要創出は「期待インフレ」だの「円安による輸出増」など、例の「はず論」頼みとなり、デフレ脱却に失敗した。
 それどころか、中国やユーロの混乱で輸出が「多少」減っただけで、二期連続のマイナス成長が視界に入ってくるほどに、日本経済を脆弱化させてしまった。恐ろしいのは、それにも関わらずいまだに補正予算の議論は始まらず、インフレ目標未達や2年連続のリセッション入りの責任を誰も取ろうとしない点なのだ。現在の日本は、完全に政治不在に陥っている。そして、この政治不在こそが、国民を貧困化させている元凶であるという事実を、いい加減に誰もが理解するべきなのだ。
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2019年08月14日

伝統的家族主義では説明できない運命共同体というフィクションを被せられ、より一層強い衝迫の源泉となる家族

 最後のセーフティネット役割を負わされた家族が、その現実態ではもはや「安全でいられる場」としての役割を果たしにくくなっているがゆえに、運命共同体というフィクションを被せられた家族像が、「そうでなければならない現実」のように思いなされているのではないか。
 自民党家庭支援法案のように右翼的な家族主義を家族像の範型とする政策がこれに無縁でないのはもちろんだが、頑強な信念といってよいほど強力な運命共同体家族の像に現れた家族主義は、伝統的家族主義の枠組みだけでは説明できないように感じる。
 社会的次元を切り落とされた個体の位置に家族がおかれる構図は新自由主義的であり、有責の構造上に家族が立たされることもそうである。運命共同体がフィクションであることは、そういう場に立たされた家族関係が瓦解するというリアルな結果によって実証される。運命共同体であるなどと信じられないからこそ、そうした不安定さの実存が家族紐帯の強度を求める、より一層強い衝迫の源泉となる――このメカニズムを解くことによって、今日の家族主義に特有のすがたが浮かび上がるのではないだろうか。
 成人式の晴れ着のように、一生に一度のイベントを用意することは親、家族の務めとなり、不運な(と認定された)事態でこれが叶わなかった者にはさまざまに支援の手が差しのべられる。卒業式、成人式の晴れ着も入学時のランドセルも、家庭の事情で最初から用意できない者には、それでは、どのような手が差しのべられているか。
 新自由主義的な社会体制・秩序とそこから生い育つ感覚とによって抑えつけられ逼塞している心情は何か、それを明るみに出してゆくやり方はどんなものか――目を向け社会的注意を払うべきは、「福祉国家的エートス」の居所を探り当てようとする多様な試みと努力ではないだろうか。
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2019年08月12日

家族を一体化させた家庭責任の追求、家族の「落ち度」への集中的攻撃

 個体化させた個人を有責の構造上におくバッシングについてだが、個人の「落ち度」に対する集中的攻撃は、家族にも及ぶことが当たり前となり、家族関係を危機にさらし崩壊に導く事例がつたえられている。
 社会的引きこもりやニートにかんする理解でも、家庭環境や親の養育に責任があるとする回答が各種調査で多数を占める。個人責任というより家族を一体化させた家庭責任を追求する意識がきわだって強いように思われる。
 この傾向が歴史的に亢進させられてきたかどうかは検証を要するが、あたかも家族紐帯を運命共同体であるかように考え扱う社会感情が想像以上に強力になっていることは、おそらく事実と言えよう。
 これは少なくとも家族紐帯だけは社会紐帯の内で壊せぬ絆とみなされていることを意味するのだろうか。
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売買契約に伴うトラブルについて

 ペットショップなどが説明した情報の提供を受けて、ペットを購入することとなった場合、ペット販売業者との間で、売買契約を締結することとなる(なお、法律上、売買契約は、口頭でも成立するが、後々のトラブルを避けるためにも、契約書を作成しておくのが望ましい)。
 このとき、購入したペットが先天性の病気に罹患していたり、障害を有していたなどの何らかのトラブルが発生した場合、買主としては、ペット販売業者に対して、@ペットを返還するとともに、売買代金を返金してもらう、A買主に生じた損害(上記の例でいえば、病気の治療のための治療費や介護費等が考えられる)の損害賠償を請求するなどの対応を取ることが考えられる。
 そして、まず、@ペットを返還するとともに、売買代金の返金を求めるためには、買主としては、契約の効力を否定する旨の主張を展開していくこととなるが、その具体的な根拠としては、錯誤を理由とする無効(民法第95条)、詐欺を理由とする取消(民法第96条)、債務不履行又は瑕疵担保責任に基づく契約解除(民法第541条、第570条)、消費者契約法に基づく取消(4条1項1号)などが考えられる。
 このうち、消費者契約法に基づく取消については、販売業者が、契約締結に際して、重要事項(ペットが病気に罹患しているか、障害を有しているかといった点は、当然、重要事項に当たると思われる)について事実と異なることを告げたことにより、買主が販売業者の説明した事実が真実であると誤認した場合に、売買契約を取り消すことができるというものだが、ペットの売買契約においては、ペットの病歴等についての情報を提供する義務が課されているので(法施行規則第8条の2第2項第16号・第17号)、ペットの購入後に、先天性の病気に罹患していたり、障害を有しているなどの事情が発覚した場合には、消費者契約法に基づく取消しが認められる余地は十分あると思われる。
 他方で、Aペット販売業者に対する損害賠償責任を追及する場合には、債務不履行責任又は瑕疵担保責任を根拠に、買主に生じた損害の賠償を求めていくこととなる(民法第415条、第570条:566条)。
 なお、この点については、従来、問題となったペットの売買契約が特定物売買か不特定物売買かという整理の下で論じられてきたところなので、簡単に付言しておく(もっとも、これらの議論については、今般の債権法改正により整理されるところであり、かつ、専門的な内容となるので、読み飛ばしていただいて問題ない)。
 つまり、従前の民法の解釈においては、売買契約の対象となったペットが特定物であるか(すなわち、買主が、「この豆柴がほしい」というように、特定の個体を購入することを希望していたか)、不特定物であるか(すなわち、買主が、「雄の豆柴がほしい」というように、特定の個体ではなく、ある種類のペットを購入することを希望していたか)によって、ペット販売業者に対する請求の根拠やその内容が異なるという解釈が採られてた。そして、前者の特定物売買の場合には、買主は、瑕疵担保責任に基づいて、契約解除または信頼利益の損害賠償を求めることができるにとどまり、後者の不特定物売買の場合には、買主は、債務不履行を根拠として契約解除又は履行利益の損害賠償を求めることができると解されていた。
 しかしながら、平成29年5月6日に成立し、令和2年(2020年)4月1日から施行される改正民法においては、上述の瑕疵担保責任について、売主が契約の目的に適合しないものを引き渡したときは、買主は、契約不適合責任として、目的物の修補や代替物の引き渡しなどの履行の追完の請求、損害賠償請求、契約解除、代金減額請求ができるという規定に整理され(新民法第562条〜第564条)、売買契約の目的物が特定物か不特定物かにかかわらず、履行の追完の請求等ができることになった。
 また、債務不履行責任についても、売買契約の目的物が特定物か不特定物かにかかわらず、販売業者が債務の本旨に従った履行をしないときには、それによって生じた損害の賠償を請求することができることになった(新民法第415条1項、第564条)。
 したがって、新民法の施行後は、これらの新しい規定に基づいて、ペット販売業者に対する請求を行っていくことになる。
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2019年08月11日

徹底した社会的排除の状態におかれる若者たち

 そもそも福祉国家の制度価値が共有されるほど十分な制度枠組みと制度実践のない社会で「福祉国家的エートス」の涵養を問うことに無理があると言われれば、議論はそれで終わりである。
 しかし、福祉国家型の諸施策をふくめ、社会の連帯的なあり方を体制として構築しようとする運動は、それぞれの社会に特有の歴史的・社会的環境に培われた社会紐帯のポテンシャルを無視することはできず無視すべきでもない。
 たとえば、エミリア・ロマーニャ州を中心とするイタリアのスローフード(スローシティ)運動が反ファシズムの伝統を社会文化的に継承していたように、ある社会や地域に歴史的、社会的に堆積してきた種々の関係資源は、総じて、反新自由主義的な社会の構築に有用たりうる。
 正しく新自由主義的と呼ぶべき社会紐帯の切断(無縁社会化)の振る舞いを見逃さず、具体的に対処してゆく必要があるのはそのためだ。「死にたい」とつぶやく若者たち――それは本音ではないとの評言があるが、社会退出のアクティベーションとして十分にリアルで「実行可能」な望みである――のすがたは社会病理として語られるが、それは一面的に過ぎる。現実に起きているのは、推測するに100万人を優に超える若者たちが、現実的にも内面機制の上でも、徹底した社会的排除の状態におかれていることであり、膨大な「死にたい」つぶやきはそのリアルな反映に他ならない。
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ペット販売に対する規制―根拠法令

 ・動物の愛護及び管理に関する法律第21条の4
 「第一種動物取扱業者のうち犬、猫その他の環境省令で定める動物の販売を業として営む者は、当該動物を販売する場合には、あらかじめ、当該動物を購入しようとする者(第一種動物取扱業者を除く。)に対し、当該販売に係る動物の現在の状態を直接見せるとともに、対面(対面によることが困難な場合として環境省令で定める場合には、対面に相当する方法として環境省令で定めるものを含む。)により書面又は電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によつては認識することができない方式で作られる記録であつて、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう)を用いて当該動物の飼養又は保管の方法、生年月日、当該動物に係る繁殖を行つた者の氏名その他の適正な飼養又は保管のために必要な情報として環境省令で定めるものを提供しなければならない」
 そして、ペットの販売業者は、ペットの売買契約を締結するにあたっては、ペットの購入を希望する買主に対して、ペットの飼養または保管の方法、生年月日、ペットの繁殖を行った者の氏名(法第21条の4)や、性成熟時の体の大きさ、平均寿命、飼養施設の構造および規模、適切な給餌および給水の方法などの同法施行規則第8条の2第2項に定める情報を提供しなければならない。
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2019年08月10日

自立という観念自体を変質させる個別化された社会

 誰もが有責の存在として個別化される社会は平等にみえるが、実際には社会的弱者に著しく不利な社会である。人を互いに依存させず、制度に頼らせない自立を要求する社会は、自立的存在を富の私有によって生存に不可欠な諸資源を調達できる者だけに限定し、自立という観念自体を変質させる。そこに「福祉国家的エートス」など育ちようのないことは明白だろう。
 家庭の経済的事情で満足な学校生活が送れない子供に同情を寄せ、制度の支援を当然と感じる心性は、そうした場所におかれた子供や家庭それぞれの個別化された状況(「品行」「言動」…)を問題化する、多分に制度化されステロタイプ化された言説によって壊死させられていく。
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2019年08月09日

社会的次元を抹消した自己責任、「新自由主義的エートス」が貫かれた日本社会

 誰もが何らかの「欠陥」を露呈させた科でバッシングを浴びせられる社会は、「新自由主義的エートス」が貫かれた社会と言えるだろう。
 人が社会的存在であるかぎり、個人が抱えるさまざまな事情は必ず社会的広がりを持つ。
 にもかかわらず、ことがらが「失敗」や「不始末」、「不注意」、「不出来」等々の領域つまり社会的にマイナスと評価される結果であるとき、それらはもっぱら個人の落ち度とみなされ、問題の社会的次元は抹消される。
 自己責任という観念はそうした特異な有責の構造とこれを心情次元で支える個人(人間)観とを指す強力なイデオロギーである。
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2019年08月08日

社会的次元を抹消した自己責任、「新自由主義的エートス」が貫かれた日本社会

 誰もが何らかの「欠陥」を露呈させた科でバッシングを浴びせられる社会は、「新自由主義的エートス」が貫かれた社会と言えるだろう。
 人が社会的存在であるかぎり、個人が抱えるさまざまな事情は必ず社会的広がりを持つ。にもかかわらず、ことがらが「失敗」や「不始末」、「不注意」、「不出来」等々の領域つまり社会的にマイナスと評価される結果であるとき、それらはもっぱら個人の落ち度とみなされ、問題の社会的次元は抹消される。
 自己責任という観念はそうした特異な有責の構造とこれを心情次元で支える個人(人間)観とを指す強力なイデオロギーである。
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2019年08月07日

ルサンチマンでなく「中産階級以上のポジションと心情」「真実性を凌駕する真正性」によるバッシング

 現代における社会心理的反応は、バッシングの構造・動態、対象の差異等に応じてモラル・パニック、ルサンチマンといったカテゴリーで説明されてきた。この点には立ち入れないが、昨今の「大衆リンチ」状況をそれだけでは説明しきれぬように思う。福祉国家的諸制度の恩恵に与れない層が、そのルサンチマンからバッシングを向けるという図式は、制度の貧困・脆弱があきらかなゆえに納得してしまいそうだが、大勢としての事実に反する。「自分がしっかりしていれば制度に頼らずに何とかなるはず」という信念は、中産階級以上のポジションと心情の体系でこそ強固なのである。
 他者へのバッシングを正当な振る舞いとして許容できる社会心理的反応(スマホやPCで悪意ある投稿をしたことのある者はざっと4人に1人、投稿後の心理で一番多かった回答は、「気が済んだ、すっとした」31.9%、「やらなければよかったと後悔した」13.6%、「何も感じない」27.6%。独立行政法人情報処理推進機構「2014年度 情報セキュリティの倫理に対する意識調査」)は、何が適切で正しいかを真正性 authenticity という次元で解釈し了解する認知モデルが浸透した結果だと筆者は考えている。「私にとって正しいと思えること」の根拠を与える真正性は、「そう思う(信じる)私」の立場(居場所)を直接支える力を持ち、その意味で真実性を凌駕する。このメカニズムの詳しい検討もここではなし得ないが、気軽にバッシングを向けてしまえる相互的心性の領域がそうして開けたのである。
posted by GHQ/HOGO at 05:55| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月06日

真実性の次元に支えられた認知モデルの衰弱が広がる背景

 正しい認識を得る(真実性の次元)ことで何が問題かを知るという認知モデルが通用していない点に注意しよう。
 知る機会が保障されていない環境の問題を指摘すべきはもちろんである。良く考慮された啓発活動を制度化することで認知モデルを働きやすくすることも必要だろう。
 ただ、ここで考えたいのは、真実性の次元に支えられた認知モデルの衰弱という現象であり、そうした現象が広がる背景である。
 一度、「こんな不正受給が…」と伝えられるとあっという間にバッシングが広がる。生活保護のみならず、耳目に触れる事件が起きる度ごとに、いまでは見慣れた情景である。加害者としてであれ被害者としてであれ、メディアにつたえられた瞬間から、さらしと激しいバッシングとが集中する。その様は、「誤爆」を含む集団リンチの無法状態が現出しているといって過言ではない。
 ニュースの俎上に上されることがもう、当事者の欠陥(有罪)を証明しているかの如き取扱いである。逆に言えば、「美談」は徹底して美談でなければならず、それに疑問を呈するのは人非人の所業ということになる。
posted by GHQ/HOGO at 04:44| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする