2019年08月04日

福祉国家的な制度(国民皆保険、公教育の平等主義)への共有感覚の乏しさ


 日本の現状をみよう。まがりなりにも制度として定着してきた国民皆保険――もちろん、貧困化がもたらす無保険状態の存在を無視すべきではない――は、米国での医療保険の惨状を知った日本の人々が多少の誇りと感じても不思議ではない対象だろう。学校教育システムの平等主義的な設計もまた、その実態はともかく、階級的制度文化の桎梏から抜けきれないしくみや新自由主義的競争がスタンダードの教育体制に比し、好ましい制度的価値とみなされてよいはずである。
 だが、残念ながら、おもてなしの「美風」にたいする自画自賛はあっても、福祉国家的な制度の価値を認める共有感覚は乏しいように思う。当たり前の制度は当たり前であるがゆえに、「そういうものだ」と常識的にとらえられ、取り立てて賞揚すべき価値として意識されないのかもしれない。「公立小学校ならどこも同じようで、その何が大事なのか」というわけである。
 しかし、「そういうものだ」という感覚が真の意味でコモン・センスであるなら、たとえば公教育の平等主義を変質させ解体する制度改変にたいして鋭く反応し異議を発することも当然のはずである。ごく一部のエリート教育を非難するかどうかではない。もはや同じ高校、高校生とは言えぬほど進んだ格差教育とこれを正統化する政策・制度の進行が常識外れの、座視できない事態と受けとめられるかどうか――それが問題なのである。「福祉国家的エートス」と呼ぶのは、社会が共有すべき制度価値にたいするそのようなコモン・センスに他ならない。そう考えると、現代日本の「福祉国家的エートス」はあまりに脆弱なのではないか。それは一体なぜなのか。
 生活保護基準の切り下げ政策を扇動するかのように繰り返される生活保護バッシングが生活保護にかんするポピュラーな認知に少なからぬ影響を及ぼしてきたことは否めない。読む者の胸を悪くするような極論を吐くネット上の言説が多数でないのは無論であるし、むしろ炎上を意図してのそれらの暴言に多数の人々が乗せられてしまうわけでもない。しかし、それでも、生活保護という言葉を聞いて最初に「不正受給」を連想する認知のあり方は、たとえば大学生レベルの社会像では特異ではなく少数でもないだろう。生活保護の現実をつたえようとするとき、まず、「不正受給」と言われることの中味や、文字通りの不正受給がどれほどの比率かを説明しなければならない状況は異常ではないのか。そもそも、「生保(なまぽ)」という言葉で、何か後ろ暗い生活の印象を与えるような印象操作が無造作に行き渡っている。
 生活保護という制度とその役割についても、生活保護受給世帯の現実についても、事実にもとづく丁寧――安倍政権の常套句としての「丁寧」ではない――で明白な説明を届けようとする努力はもちろんある。読んでさえもらえれば、聞いてもらえるなら、生活保護バッシングのフェイクなど反駁の余地なく撃退できるはずなのだが、ことがらはそれほど単純ではない。少年犯罪が総体として減少しているにもかかわらず認知上では少年犯罪の凶悪化、増加が信じられているのと同様に、ポピュラーな認知次元では、「不正受給問題」が生活保護制度の中心課題であるかのように受けとられている。
posted by GHQ/HOGO at 18:26| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: