2019年06月25日

貧困とは“溜め”が失われた状態

 貧困問題を考えるためには、筆者は“溜め(ため)”という視点を導入する必要がある、と言っている。“溜め”とは、人々の置かれている条件のことであり、イス取りゲームの比ゆを引き継げば、ゲーム参加者の体力のようなものである。
 さまざまなものが“溜め”としての機能を持っている。お金があるのは金銭的な“溜め”があるということだ。頼れる親がいる、仕事を紹介してくれる、転がり込める友人がいるのは、人間関係の“溜め”だ。また「生きてりゃそのうちいいことあるさ」と思えるなら、その人には精神的な“溜め”がある。“溜め”とは、このように金銭、人間関係、精神状態にまたがる複合的な概念であり、その“溜め”を総体として失うのが「貧困」だと筆者は考えている。
 たとえば、失業というトラブルに見舞われた正規労働者と非正規労働者2人のうち、どちらが「より条件のいい就職先」というイスに着けるかを考えてみる。正規労働者は、就労中にためたお金があって、それで失業保険の支給まで食いつなぐことができ、失業保険受給中はある程度の生活基盤を確保しながら、じっくりと次の仕事を探すことができる。かつての同僚たちの中に条件のいい仕事を紹介してくれる人がいるかもしれない。他方、低賃金で働いていた非正規労働者は、失業保険が開始されるまでの3ヵ月を食いつなぐお金を持っておらず、そもそも受給資格そのものがないかもしれない。貯蓄も少なく、直ちに次の仕事に就かなければ、家賃も払えない、食べるものもない、という状態に追い込まれやすい。このとき、2人は職探しというスタート時点において、同じ体力でイス取りゲームに臨んでいると言えるだろうか。
 また、公的支出に占める教育費の割合が経済協力開発機構(OECD)28ヵ国中28位という状態の中で、子供1人を大学卒業させるのにかかる費用は1人当たり2370万円と言われている。では、そのお金を用意できない親の子は、学費・生活費に加えて年間数十万円に及ぶ塾費用を用意できる家庭の子と比べてどうか。その体力差をカバーできないのは、ひとえに自己責任の問題なのだろうか。ゲーム参加者の体力を問うことなく、どうしてゲームの公平性を担保することができるだろうか。
 “溜め”という概念は、その体力がお金だけではなく、人間関係の資源を含めて多様な範囲に及んでいることを示している。国会議員はしばしば「食えないのは自助努力が足りないから」と自己責任論を振りかざす。しかし自助努力だけの勝負ならば、なぜ自民党国会議員の半数以上が二世議員なのか。それは、その人たちの言に反して、人間関係の“溜め”がいかに重要かを立証している。国会議員こそ、自助努力だけでは済まない現状を強調すべきなのだ。
 「貧困」はしたがって、たんにお金がない「貧乏」とは区別されるべきだ。貧乏でも家族や地域との豊かな人間関係をもって幸せに暮らしている人はいるし、それゆえに貧乏は笑い飛ばせるかもしれない。しかし、基礎的なもろもろの“溜め”を奪われた貧困状態にありながらも幸せだという人は定義上ありえないし、また笑えるものではない。だからこそ、貧困は「あってはならない」ものなのであり、古来政治の重要な役割の1つは貧困をなくすことにある。貧困問題に取り組まない政治家は、それゆえ、自ら政治家としての資格を捨てているに等しい。
posted by GHQ/HOGO at 07:33| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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