2019年05月15日

社会保障で国民と在留外国人を区別するもの?

 日本国民と在留外国人たる在日韓国人の社会保障上における法的地位を平等に扱えという訴訟があった。しかし、最高裁は、社会保障はあくまで国家を前提として国家が積極的な福祉的給付を行うことであるから、国家の構成員である自国民と在留外国人は区別せざるを得ないと判断した。
 これは地球の上に国境があり、誰もがどこかの国家に帰属し、その国籍を有するという近代社会における論理的な帰結である。また、本来、社会保障というのは、「国民の共同連帯」によって成り立つものでもある。この塩見訴訟の判決でも最高裁は国民年金制度について次のように述べている。
 「国民年金制度は、憲法25条2項の規定の趣旨を実現するため、老齢、障害又は死亡によって国民生活の安定が損なわれることを国民の共同連帯によって防止することを目的とし、保険方式により被保険者の拠出した保険料を基として年金給付を行うことを基本として創設されたものである」
 ここでいう「国民の共同連帯」は単に同じ地域に住んでいるということから生じるものではない。あえていえば、防衛共同体ないし運命共同体としての国家の構成員として他の者と連帯し、相互扶助を行うということから生じると考えるべきだ。防衛共同体ないし運命共同体としての国家の構成員とは、「その国のために死に得る存在」であるということであり、その国に「国防の義務」を負う存在であるということでもある。そして防衛共同体ないし運命共同体としての国家の構成員であることの指標が国籍ということなのである。
 ようするに国籍を有するということからその国家への共同防衛の義務が生じ、その共同連帯の対価として社会保障の権利が保障されると考えるべきなのである。そのことは我が国においても近代的社会保障が明治8年の軍人に対する年金制度に始まり、それが徐々にその対象を軍人から民間人へと広げていったことからも分かる。
 同じ地域に住みながらも国籍によって自国民には国防の義務が生じ、在留外国人にはその国への国防の義務が生じないのと同様に、社会保障においても自国民と在留外国人は区別されなければならないのである。それはその在留外国人の生活の本拠が我が国にだけあるだとか、母国語はできず、日本語しかできないとか、交友関係が日本人だけだとかといった個々の事情とは何の関係もないことである。近代社会における国籍が異なることから生じる論理必然の帰結なのである。
 在日韓国・朝鮮人のことを「外国籍を持ちながら外国人意識が稀薄であるという国籍ボケ」と断じたのは首都大学東京教授の鄭大均氏だが(『在日韓国人の終焉』文春新書)、この訴訟も「国籍ボケ」以外の何ものでもない。国籍が何を意味するのか、国籍が異なることからどのようなことが生じるのかということについての理解がまるでなされていない。
 このことはなにもこの女性に限られたことではない。本国への帰属意識を強烈に持つ一部の者を除く圧倒的多数の在日韓国・朝鮮人もそうだし、当の日本国民にしても「日本国籍を持ちながら日本人意識が稀薄であるという国籍ボケ」に陥っている。生活に困窮する外国人に慈しみの心をもって生活保護や年金などの生活扶助が必要と考えるのは日本の優しい国民性の現われだが、在留外国人を日本国民と同様に考え、両者の区別を「国籍差別」や「民族差別」と理解する日本国民も多い。しかし、それこそが「国籍ボケ」というべきものである。
posted by GHQ/HOGO at 06:24| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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