2019年03月13日

個人差や社会背景を考えない「自己責任論」

 自己責任論も問題になる。自分の生活を成り立たせるのは自分の責任だ、働いて稼いで自活するのが社会の基本だ、働く能力がないならともかく、働けるのに食っていけないのは自己責任であって、救済する必要はない――そういう主張である。これも昔からあるが、1990年代後半から新自由主義と呼ばれる競争至上主義の経済思想が力を持つにつれ、広がった。そして新自由主義的な政策を推進した小泉純一郎政権時代の2004年、イラクで日本人3人が武装勢力の人質になった事件をきっかけに、「自己責任」という言葉が日本社会で多用されるようになった。
 しかし人間は、持って生まれた資質、たとえば知的能力や身体能力に明らかに差がある。どんな地域のどんな家庭に生まれ育ったか、どんな教育や訓練を受けられたかといった環境条件によっても、人の能力や性質は違ってくる。親が亡くなる、病気になる、事故や災害に遭う、勤め先が倒産するといった運のよしあしも影響する。
 そういう違いを無視して、すべてを本人の努力しだいとみなし、うまくいかないのはすべて、本人の努力不足や道徳の欠落のせいのように言うのが自己責任論である。人間社会の現実とかけ離れている。貧困に陥った原因として、人によっては自己責任の部分があるかもしれないが、それ以外の原因も合わさっているだろう。逆に、経済的な成功者のほうは、たしかに努力した人が多いかもしれないが、そのときどきの環境や時代情勢、たまたまの幸運もあったはず。
 そして貧困には、社会構造、産業の動向、景気、雇用情勢、制度・政策といった社会的要因があります。性別・年齢による扱いの格差もあります。たとえば、失業問題を本人のせいに帰するのは、むちゃでしょう。また、経済・社会の状況が厳しいとき、その影響は万遍なく全員に及ぶのではなく、力の弱い人々から先に不利な状況に追い込まれる。
 そういう社会的要因を含めて経済格差、貧困をどう解決していくかが、現代の大きな課題なのだ。ところが、他人を責めて、切り捨てるだけの自己責任論は、人間の生きる権利を無視しているうえ、社会的な問題の改善・解決につながらない。個人の生活態度に問題のある人がいるときも、どうやって改善に結びつけるかを工夫する必要があるのに、オレたちは知らん、どうにでもなれ、というのでは、何の役にも立たない。はなはだ非建設的な議論ではないだろうか。
posted by GHQ/HOGO at 08:09| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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