2018年04月05日

日本に貧困の子供なんて本当にいるのか?

 「今も目の前に下校途中の小学生の集団がいるけど、とてもじゃないけど6人に1人も貧困状態の子供がいるようには思えない。何かの間違いじゃないか」
 しかし、「貧困」という言葉の定義について説明をすると、みんな急に納得することになる。
 貧困には二種類の定義がある。1つは「絶対的貧困」。これは、生命を維持するために最低限必要な衣食住が満ち足りていない状態のことを指す。例えば、途上国で飢餓で苦しんでいる子供や、ストリートチルドレン等はこれにあたる。
 もう1つの定義は、「相対的貧困」。これは、その地域や社会において「普通」とされる生活を享受することができない状態のこと。この場合、「貧困」であるか否かは、その人が生きている社会の「普通の生活」との比較によって相対的に判断される。「貧困」の基準が、その人が生きている国、地域、時代等によって、変化することが「絶対的貧困」との一番の違いである。
 「日本の貧困率」は、日本の「相対的貧困率」を指す。日本で相対的貧困状態といわれる所得のレベルは、「4人世帯の可処分所得が250万未満」くらいだとイメージして欲しい(OECDの基準を適用)。貧困の定義を説明したところ、ある方から次のような感想をいただいたことがある。
「なるほど。それなら日本の貧困率が15.7%というのもまだ納得できる気がする」
「つまり、相対的貧困とは絶対的貧困よりもマシな状態のことを指すんだね」
  私は、「それは違う」と言いたい。そんなにこの問題は単純ではないん。
「相対的貧困」は、ときに「絶対的貧困」と同レベルのダメージを人に与えるます。
 これまでに出会った高校生の話だが、彼は幼いときに両親が離婚し、母親のもとで育てられてきた。母親は十分な所得を得るだけの職に就くことができず、かなり厳しい経済状況の中で育ってきた。そんな彼は小学校低学年の頃、クラスメートと放課後にみんなで遊ぶ約束をすることが、とても辛かったそうだ。楽しい時間のはずなのに、どうしてなのか。クラスの友だちと遊ぶ約束をするとき、「この日はスイミング、この日は・・・」といった具合にみんなで放課後の予定を調整する。彼は経済的な理由で習い事に行くことができなかった。いつも仲間の中で「自分1人だけ」放課後の予定が真っ白だった。「自分1人だけ、みんなと違う」ということは、彼にとって、とても辛い経験だっ。日本の相対的貧困状態にある子供たちが、心の中で繰り返す言葉がある。
 「何で、ぼくだけ」
 1つひとつの出来事はほんの小さなことかもしれない。しかしながら、日本の相対的貧困家庭で暮らす子供たちは、生きていく中で、この言葉を何度も何度も繰り返す。
 ある知人のNGO関係の方は、途上国の孤児院で絶対的貧困状態にある子供たちの支援活動をしている。その方が、最近日本で相対的貧困状態にある子供と会ったときの感想が相対的貧困の持つ破壊力の大きさを物語っている。次のような感想だ。
「日本の貧困状態の子供たちのほうが、精神的な落ち込みが大きかった」
「周りのみんなにとっては当たり前の生活が自分だけ享受できない」という状態は、子供たちに破壊的なダメージを与える。そして、「何で、僕だけ」 を繰り返した子供たちは、もうその言葉を言わなくなる。その代わりに、ある言葉を繰り返すようになる。それは次のような言葉だ。
 「どうせ、僕なんて」
 貧困家庭の子どもたちの支援にかかわる中で、「どうせ、僕なんて」を繰り返すようになってしまった子供たちを支えることの難しさと直面している。さまざまな機会を失い続け、「あきらめ感」を持ってしまった子供たちに対しては、単純な「機会保障」だけでは歯が立たない状況になってしまっている。
 関西や東北で「学校外教育バウチャー」の提供を行う私たちチャンス・フォー・チルドレンは、「教育機会の平等」を目標に掲げて活動している。子供たちを川上で支え、あきらめてしまう子供を生まない社会の「仕組み」を作ることが貧困の連鎖を断ち切るうえで重要であることは言うまでもないことだ。これによって多くの子供たちを救うことができると信じたい。
 しかし、一方で、すでにあきらめてしまった子供たちを放っておくわけにはいかない。彼らを支えるには、「仕組み」だけではなく、やはり「地域」「コミュニティ」といった現場の力が絶対的に必要なのだ。貧困の連鎖を断ち切るためには、「仕組み」と「現場」をいかに連携させていくかという点が、今後何よりも大切になるのではないか。
posted by GHQ/HOGO at 13:12| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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