2017年10月21日

生活保護という政治ゲーム

 生活保護費のなかの生活扶助費を3年間で平均6.5%、最大で10%削減されることになった。そこで、生活保護者らによって保護費減額の決定に対する不服申立として都道府県知事へ審査請求が行われている。この不服申立は全国で1万人規模になるともいわれており、大きな問題に発展している。もちろん処分を下した都道府県知事も厚生労働省の基準に従って決定しただけだからどうしようもないということにされかねない。おそらく結局審査請求は破棄されることになるだろう。その後は厚生労働大臣に再審査請求するか、処分の取消を求めて裁判所に提訴するのが法が求める段取りなのである。
 今に始まった議論ではないが、生活保護者に対する批判の中には誹謗的な批判があり、ある自治体では相談に行った住民に風俗店で働くように促した例があるという話も聞く。別に風俗店で働くことがイケナイコトとは思わないが、受給を認めてもらうためには自立のためのあらゆる可能性を検討しなければならないのだ。
 現在生活保護関連の予算は4兆円前後あるとされており、もちろんこれらは国民の税金から拠出されているわけだから普通に働いている労働者からは批判があってもしかないかもしれない。しかし、不正受給の問題は別にして、ほとんどの受給者は法律に基づいて受給しているわけだから、ゲームのルールに則っている限り何の問題もないハズなのだ。これを「既得権益」だと批判するのは簡単だが、そもそも税金という権威的な資源の分配は性質上そのほとんどが「既得権益」なのだ。そのパイを奪うために自己の権利を主張して恩恵に与ろうとするのが、政治が支配する世界で生きる知恵なのかもしれない。憲法で認められた「生存権」を主張し、自らのプライバシーを自治体に明け渡して保護を得ることが自分の生活とってプラスになると判断したから保護を受けているまでなのだ。
 保護費引き下げはまさにこの「既得権益」を脅かすものだから、対抗しようと行動するのは当たり前なのだ。憲法の定める「健康で文化的な最低限度の生活」というのはあまりに規定が漠然としているために、どの程度の保護が適当なのか統一した結論が出るわけがない。なので、延々と「既得権益」をめぐる議論はおさまることはない。みんな自分が大事なので自分の既得権益には甘いが、他人の既得権益には厳しいのだ。
 ちなみに、この日本を維持していくために必要な費用(租税・保険料)の合計を人口全体で割ると1人約100万円となる。1人当たりの国税と地方税合計で約55万円、保険料の合計で45万円。国民所得に対して約40%だから非常に大きな既得権益の塊なのである。しかし、稼ぎの4割を実際に払っている人はごく一部。実際に100万円以上おさめている一家の大黒柱の人も、配偶者や子供の分まで含めるとこの基準をクリアしている人は一部ではないか。世帯当たりの平均所得が530万円なので、奥さんと子供2人の家庭で400万円以上負担できるのは限られた家族だけなのだ。生活保護者からすると、程度の差はあれ大多数が何かしらの「既得権益」に乗っかっているわけだから、自分たちだけ批判される覚えはないと考えていてもおかしくはない。このように1人当たりの社会的コストの大部分高所得者を押し付けられる社会では、そもそも普通の人は相当有利なので十分「既得権益」側なのである。この「既得権益」を正当化するために現在の「1人一票」の民主主義制度が発明されたいっても過言ではないのではないか。お金持ちもそうでない人も等しく一票で、大多数の人がお金持ちではないわけだから、多くの人が都合の良いルールや税制度をつくるだけで納税額以上のリターンが期待できるのである。
 もちろん、「お金持ちじゃない人」というざっくりとした括りの下にはもっと細かい利益の形をもつ人やグループがいる。「特定の産業に従事している人」や「所得が少なくて貧しい人」、「何かしらのハンディキャップを背負った人」などの無限といっていいほどの種類の人間たちの欲望があり、それぞれが都合良く思い思いの主張をして、それが選挙の際の一票に反映されるのだ。「政治家」の役割の1つは国民を代表して行政が集めた「税金」を適正に使っているかをチェックすることだが、そもそも「政治家」も1つの職業集団で既得権益をもっているのだからよりゲームが複雑になってくる。いくら高潔な考えや理想を持って政治をしていても、落選してしまえば理想を実現することはできないわけだから、十分に自分を当選させられるだけの有権者がいる特定の「既得権益」を持つグループの利益を代表するのは有効な戦略なのだ。「政治家」の実力とはいかに自分を議会に通してくれる有権者の「付託」に報えて、限りある国家予算からできるだけ多くの金を引っ張ってくるかにかかっているのである。正面切ってカネくれと騒いでるだけでは見え方が悪いので、きちんともっともらしい理屈を捻り出したり、安易にバレないような方法で利益を移転させることが政治手腕で、政治家としての「節度」であるわけだ。
 こうして、減税や国家運営のための経費を削減する政策が実行されることはほとんどないし、誤魔化しきれない分は国債として将来世代に負担を押し付けるのである。これは政治家の善悪の問題というより、民主主義制度を維持するためのコストということになる。一方で「政治家」を議会に送れるほど大量の有権者集団を集めることができない「利益」しか持ち合わせていない有権者にとってはこんなゲームに参加しても何の意味もないわけだから、投票なんかに行かずに遊びにいったり、別のコトする方が合理的ということになる。市民として政治に参加することが大切なのは確かに学校で教わったかもしれないが、有限の人生で自分とは関係ないことにいちいち関わっている時間はそうないし、そもそもそういう人たちにとって「既得権益」の奪い合いの議論自体が茶番劇もはなはだしいのだ。
 生活保護の根拠は憲法にも規定のある強力な「権利」である。そしてもちろんその費用は「税金」から拠出される。そこで、最低限度の生活にも困っていないし、多額の税金を納ているわけでもない人たちにはこのゲームはどのように映るのだろうか。
posted by GHQ/HOGO at 07:52| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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