2017年01月18日

不正受給防止対策と餓死 「オニギリ食いたい」52 歳男性、餓死

2007 年7月11日、北九州市で 52 歳の男性が「オニギリ食いたい」と日記に残し餓死した姿で発見されたという報道は多くの人々に衝撃を与えた。この事件が国民にとって生 活保護行政の現実を知り、在り方を考えるきっかけとなったことは言うまでもない。
元タクシー運転手の男性は糖尿病やアルコール性肝障害のために事件の1年ほど前に仕事を辞め、生活保護を申請していた。2006 年の12月には生活保護が開始されたものの、 その2ヵ月後には病院で「就労指導可」と判断され、ケースワーカーに積極的な求職活動を促された。その後、4月2日に「自立して頑張る」との申し出があり、4月10日付で保 護を辞退するとの辞退届が提出され、男性の保護は廃止された。しかし男性が亡くなる2,3ヵ月前の日記にはこう記されている。
 4月5日「体がきつい、苦しい、だるい。どうにかして」
5 月 25 日「小倉北の職員、これで満足か。人を信じることを知っているのか。3月、家で聞いた言葉忘れんど。市民のために仕事せんか。法律はかざりか。書かされ、印まで押させ、自立指どう(導)したんか」
男性は生活保護を打ち切られて以降、肝硬変なども患っていることを周辺住民にもらしており、病状は回復傾向にはなかったことがうかがえる。ときには道端に生えている野びるなど、食用の草なども食べて飢えをしのいでいたという。「オニギリ食いたい」の日記は6月5日に記され、それ以降日記が更新されることはなかった。こうした報道に対して北九州当局は「(辞退届は)男性が自主的に出したもので市の対忚 に問題はない」と主張。「生活保護制度を活用して短期間のうちに自立できたモデルケースだった」と自信に満ちた記者会見を行い、市長までもが「市の対忚に問題はなかった」と発言した。これらの発言は、北九州市で水際作戦が日常化していた何よりの証拠である。 男性の日記からも辞退届は自らの意思で提出されたものではなく、強制的に書かれたことが明白である。たとえ辞退届の提出があったとしても、収入の実態を調査せずに生活保護を廃止するのは生活保護法に違反する行為である。北九州市で生活保護にからむ餓 死・自殺事件は 2005 年〜2007 年の 3 年間の間で4件も起こっている。2007 年 6 月には 小倉北区に住む61歳の男性がアパートのベランダで首を吊って自殺しているのが発見された。男性は病気を患い入院している間は生活保護を受給していたが、退院後ケースワーカーから「働かん者は死ねばいいんだ」という暴言や執拗な就労指導にあい保護が廃止された(保護廃止理由は北九州市が公表を拒否しているため不明)。 その後も申請を試みるものの何度も断られ自ら命を絶つ結果に至った。
そもそも生活保護は自立を助長するためのものである。「自立して頑張る」ために生活保護が必要な手段として利用されるべきなのであり、生活保護を受けないことが真の自立では決してない。
 北九州の4件の餓死・自殺事件の中には、申請書すらもらえずに死に至ったケースもある。こうした「申請拒絶」は全国的に問題とされており、何も北九州市に限ったことではない。それにも関わらず「ヤミの北九州方式」などと問題視されるのは北九州市が生活保護行政にあってはならない「数値目標」とノルマを設定し、正当業務として認めていたためである。元北九州市の職員であり、ケースワーカーとしても働いていた経験がある藤藪貴治氏は、市の職員時代「生活保護費は絶対に300億円を超えてはならない」という「300 億円ルール」の存在を同僚から耳にしていたと著書で述べている。また福祉事務所の職員1人当たり、「申請書の交付は月5枚まで」、「廃止は年 5件」などとノルマ化したり、2005年度の門司福祉事務所運営方針では年間申請件数を184件と具体的に限定していた。上記のルールの下では6人目の申請者はたとえ要件を満たしていても申請拒否され、実際はまだ保護が必要な状況でも「辞退届の強要」が行われて廃止に追い込まれるということになる。改めて言うが、「申請拒絶」と「辞退届の強要」は生活保護法に違反した行為である。いつ、誰が、どのような貧困状況に陥り生活保護を必要とするかわからない中で予算やノルマのほうが人の命よりも優先されてしまっていたのだ。 ほかにも歴代市長が全福祉事務所長に1ヵ月の廃止件数を競わせ人事査定をしていたという。福祉の世界にあってはならない競争原理が持ち込まれていたのだ。もちろん、生活困窮者にどれだけ生活保護をきちんと受けさせたかという競争ではなく、生活保護をより受けさせず、より多く受給廃止したほうが勝利とされる競争である。まさに「福祉」が人を殺す場面が日常化していたのだ。 こうして北九州市は独自の生活保護切り捨てシステ作り上げ、徹底して行った結果1967 年から40年間で保護受給者は一気に5分の1 まで激減した。
 40 年前の北九州市は 炭鉱の閉山などにより失業者が大幅に増え、生活保護受給者は全国平の約4倍半にものぼっていた時期でもあった。それに対して旧自治省は「保護費の削減」を求め、北九州市は旧厚生労働省から天下り官僚を受け入れ、保護費削減の対策に乗り出しのだ。その結果が保護受給者の減少につながったのだ。国は1980年代には北九州市を「適正化(123 号通知に基づいて生活保護の審査が行われている)」の「モデル福祉事務所」として高く評価、全国の福祉事務所幹部の研修先にまでしていたという。一見するとこうした実態の責任は現場の北九州市の職員だけにあるように思われがちである。しかし、過去に遡ってみれば ヤミの北九州方式を作りだし、システム化し、推奨して全国に広めていったのは天下り官僚、つまり国である点を考えると、これは国主導で行われた「棄民政策」と言っても過言ではないのである。
posted by GHQ/HOGO at 07:46| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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