引き取り手がない遺体の扱いは、生活保護法などで市町村による埋葬を定める一方、死体解剖保存法では大学への提供、解剖も認めており、市の対応は違法ではないが、識者や弁護士から「法の不備で遺体の扱いに差がある。本人同意のない身体の提供は倫理的に問題」との声が出ている。
富山市などによると、男性は4月22日、市内のアパート自室で死亡しているのが見つかった。県警は事件性がないと判断し、警察署に一時安置。市の依頼を受けた大学が24日に引き取った。
市社会福祉課は「受け入れ先が見つかった以上、(市の)仕事は効率的、経済的にすべきだと判断した」としている。遺族に生活保護法に基づき葬祭扶助が出るという説明はしなかったという。
日本歯科大は「これまでも複数回引き受けたが、今後はやめることを検討している」とした。これは、臓器移植を進めるか否か、と同じベクトルの、価値観の問題と言える。遺体をモノと考えるか、さっきまでは生きていた人間として尊重するかどうか。火葬するということは、本人の意思とあまり関係なく、文化的背景にもとづいて、日本では火葬されるのだが、その場合は、遺体をいつまでも「大切に」扱っていたら火葬し損ねてしまう。しかし解剖用に遺体を使用する献体については、これは誰もが献体するという文化的な了解があるわけではない
だから火葬と同列で考えてはいけない。むしろ、死後、「利用可能な臓器」を「再利用する」、移植治療をどう考えるかという問題と同じであるように思われる。献体は、すぐに火葬・葬儀となるわけではなく、その間にかなり長い時間的スパンを経て存在し、解剖の用に供されるのである。利用されるのである。本来なら死後数日を経ずして荼毘に付されるべき死体を、そのようにはせずして、他の用途に用いて後に、火葬するのである。死から火葬までの間に、それが再利用される部分があるのである。
移植治療はどうか。心臓死、脳死のいずれでも、臓器等の提供のために、死から火葬までの間に、再利用の場面が組み込まれてくる。目下、臓器移植法案の改正案A案(実質新法といっていい)が衆議院を通過し、今後の動向が注目されるところではあるが、臓器の利用を承諾するか否か、やはり故人の意思は全く顧みられないわけではないのである。献体もやはり故人の意思は尊重されてしかるべきであろう。万人に等しく強制されるものではないはずだ。今回の件について、遺族が引き取りを拒んだ場合、それが直接に、献体に許可が出されたかのような扱いを、亡くなった生活保護男性は受けたのである。この世にあるときも、あの世に行ったときも、社会からのあまり温かくはない対応をされたということになる。「今後はやめることにしている」というのは、法律上は責任がなくとも、やはり道義的、倫理的責任を感じているからにほからならないのだ。