2020年01月04日

生活保護の受給者は、本当に「ラクをしている」のか?

 生活保護の受給額削減が決定。セーフティーネットが充実している国こそ、人々はチャレンジするようになり、消費も活性化していくものだと思うが、日本はその逆を行っている。かいつまんで言うと、生活保護は国民1人ひとりにとってのセーフティーネットであり、保険である。日本国憲法においても、国民は「健康で文化的な最低限度の生活」を送ることが保障されているのだから、そこはあまりケチるべきではない。
これに対しては、「その通りだ」と賛意を示してくださる方もいれば、「今までがもらいすぎなのだから、下げられて当然」という意見もあった。実際に生活保護を受給している人々からの悲痛なリプライを読むにつけ、彼らが「もらいすぎ」だと断罪する気にはなれないが、しかし、批判をする人々の意見にも耳を傾けるべきものがある。
 「あいつらは仕事もしないで、苦労もせずにカネをもらっている」
 働けども、働けども、生活がラクにならない人々の心にこうしたネガティブな感情が芽生えることは、とても自然なことだ。その感情を真っ向から否定する気ちになれない。ただ、そうした感情を、そのまま生活保護叩きへと向けることには、「ちょっと待ってほしい」のである。
 そもそも、生活保護受給者の人々は、本当に「ラクしている」のだろうか。もし、彼らの生活が本当に苦労のないものであるなら、生活保護叩きをしている人々もこぞって仕事を辞め、みずからが生活保護の申請をしているはずだ。だが、ほとんどの人はそれをしない。なぜか。それは、日本ではまだまだ生活保護を受給することがスティグマ(負の烙印)とされているからだ。
 本来、生活保護の受給は、恥じるべきことではない。体を壊したり、精神を病んだりして仕事ができなくなる可能性など、誰にも等しくあるからだ。だから、そうした状況に陥ってしまった場合は、恥じることなく生活保護を申請できる社会にしていくべきだ。
 だが、いまの日本では、そのスティグマを恐れて、多くの方が「ギリギリまで」頑張ってしまう。生活保護を受給することは一般社会からの「転落」と捉えられてしまい、それによって大いに自尊心を傷つけられてしまう可能性があるからだ。
 だから、「生活保護の受給者はラクをしている」という考え方に賛同できない。あらゆる出費を切り詰めて、切り詰めて、それでもどうにもならなくなったときに、仕方なく受給の申請をしている方がほとんどだ。もちろん、一部にはそうした努力さえすることなく、安易に生活保護に頼っている方もいるかもしれない。しかし、だからと言って、受給者全体を指して、「あいつらはラクしている」と批判するには無理があるのではないか。
 もう1つ、散見された批判のなかには、「あいつらも頑張れば働けるくせに」というものがあった。これも気持はわからないではないが、ある意味、危険な考え方なのだ。それは、相手が自分と同じ健康状況、精神状況であることを前提としているからだ。だが、「あなた」と「彼ら」は違う。健康状況も、精神状態も、さらには能力も。
 立場を変えてみよう。必死に働けども、経済的に苦しい思いをしている人に、高所得者が「もっと給料の高い仕事に就けばいいのに。努力が足りないんじゃない」という言葉をかけたとしたら、はたして前者はどう思うだろうか。おそらく、怒り心頭。「それができたら苦労しねえよ」とでも吐き捨てたくなるだろう。
 勤勉なことで知られる日本国民。ほとんどの人が、与えられた環境のなかで最大限に努力している。その時点での健康状態、精神状態、能力などを踏まえた上で、できるかぎりの努力をしている。しかし、所与の状況が異なるのだから、努力の結果が異なってくるのも当然だ。だから、高所得の人、そうでない人、働くことができない人が出てきて当然だと思うのだ。
 結局は"感情"の問題なのだろう。「おまえの言っていることは理解できなくもないが、それでも生活保護を受けているやつらが、どうしてもムカつくんだよ」という方もいらっしゃるだろう。もう、それは仕方がないことだ。感情だからだ。
 でも、最後にいくら生活保護叩きをして、彼らの受給額を下げさせることに成功しても、結局は誰をしないのである。1円の得にもならない。だったら、「生活保護ふざけんな」と叫ぶのではなく、「全員の賃金を上げろ」と主張するほうがよっぽど建設的だし、国民の利益につながるのではないか。
posted by GHQ/HOGO at 09:41| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする