2019年12月31日

機能しないセイフティーネット

 生活保護は、他の制度がうまく機能していれば、それほど国の支出は増えない。失業率が低く、賃金が一定水準を維持し、社会保険がうまく機能している場合は、生活保護の費用はそれほどかからない。不況が長く続く場合でも、社会保険が余裕を持って運営されていれば、生活保護が必要になる前に多くの人を救済できる。したがって、生活保護を受ける人が多いということは、本来喜ぶべきことではない。よい生活保護制度を備えながら、それを必要とする人が少ないことが望ましい。反対に問題なのは、普遍的な制度が不十分で、生活保護を必要としている人が多いのに、生活保護がセイフティーネットの機能を十分に果たせず、保護を受ける人が少ないことである。セイフティーネットとは、人々の生きる権利を保障する最後の安全網である。
 最近の日本の政府は、望ましくない政策を選択してきているように思う。長引く不況で、働く人々の所得は全体として減る一方である。企業は非正規雇用を増やし、正規労働者の賃金も抑えてきた。働いても最低限度の生活が維持できない人々が増えるようになった。こうしたときにこそ、重要な役割を果たすのが社会保険であるが、これまでの社会保険は正規労働者をモデルに作られているので、非正規労働者をうまく救済することができない。弱体化した社会保険をしっかりと支えるには、政府がこれまで以上に支援しなければならないのに、政府は逆に社会保障予算を削減きた。だから普遍的な社会保障制度の網の目からこぼれ落ちる人々、すなわち生活保護を必要とする人々はし続けて確実に増えているはずである。
 生活保護の申請を辞退させられ「オニギリ腹一杯食いたい」と日記に残して餓死する人(2007年北九州市)が出たり、生活苦から自殺する人が絶えない現状(自殺者は10年連続で3万人超)は、生活保護がセイフティーネットの機能を果たせていないことの現れであるといえる。
posted by GHQ/HOGO at 06:27| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月30日

機能しないセイフティーネット

 生活保護は、他の制度がうまく機能していれば、それほど国の支出は増えない。失業率が低く、賃金が一定水準を維持し、社会保険がうまく機能している場合は、生活保護の費用はそれほどかからない。不況が長く続く場合でも、社会保険が余裕を持って運営されていれば、生活保護が必要になる前に多くの人を救済できる。したがって、生活保護を受ける人が多いということは、本来喜ぶべきことではない。よい生活保護制度を備えながら、それを必要とする人が少ないことが望ましい。反対に問題なのは、普遍的な制度が不十分で、生活保護を必要としている人が多いのに、生活保護がセイフティーネットの機能を十分に果たせず、保護を受ける人が少ないことである。セイフティーネットとは、人々の生きる権利を保障する最後の安全網である。
 最近の日本の政府は、望ましくない政策を選択してきているように思う。長引く不況で、働く人々の所得は全体として減る一方である。企業は非正規雇用を増やし、正規労働者の賃金も抑えてきた。働いても最低限度の生活が維持できない人々が増えるようになった。こうしたときにこそ、重要な役割を果たすのが社会保険であるが、これまでの社会保険は正規労働者をモデルに作られているので、非正規労働者をうまく救済することができない。弱体化した社会保険をしっかりと支えるには、政府がこれまで以上に支援しなければならないのに、政府は逆に社会保障予算を削減し続けてきた。だから普遍的な社会保障制度の網の目からこぼれ落ちる人々、すなわち生活保護を必要とする人々は確実に増えているはずである。
 生活保護の申請を辞退させられ「オニギリ腹一杯食いたい」と日記に残して餓死する人(2007年北九州市)が出たり、生活苦から自殺する人が絶えない現状(自殺者は10年連続で3万人超)は、生活保護がセイフティーネットの機能を果たせていないことの現れであるといえる。
posted by GHQ/HOGO at 06:17| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月29日

生活保護―問題は濫給ではなく漏給

 生活保護の額はある程度余裕のあるものでなければならないし、必要な人には確実に支払われなければならないものである。そのため、生活保護はさまざまな不正や犯罪の土壌となりやすい。生活保護の受給者に借金をさせて毎月そこからピンハネをさせる業者がいたり、医師を脅して医療費や通院交通費をせしめる者もいる。こうしたことが報道されると、多くの人は、生活扶助の基準が高すぎるとか、通院のための交通費の扶助に限度を設けるべきだなどと思いがちであるが、犯罪や不正と、生活保護の水準や扶助のあり方とは、決して混同すべきではない。こうした制度には、犯罪や不正はつきものである。それが起こらないように努力することは大切なことであるが、だからといって、保護水準を下げて必要な人が最低生活を維持できなくなるようなことがあってはならない。
 実際、問題は濫給ではなく漏給の方である。生活保護を受けられるのに受けていない人が多いからである。受給できるはずの人々のうち、実際にどの程度の人が受けているかを示す数字を生活保護の捕捉率というが、日本の捕捉率は超低率である。いくつかの研究によると、受けるべき人の1割とかせいぜい2割の人しか生活保護を受けていないことが明らかにされている。
posted by GHQ/HOGO at 07:56| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月28日

生活保護の問題点―避けては通れないミーンズテスト(資力調査)

 生活保護を受けるには、その人の実際の収入が国が定める最低生活水準にどの程度不足しているのかを詳しく調べる必要がある。年金があればその額は扶助基準の額から差し引いて、不足する分だけ支払われる。パートの賃金収入があれば、就労に伴う若干の控除(必要経費)を残しあとは扶助額から差し引かれる。それは、生活保護の保障が、最低生活までの保障に限られるからである。
 差し引かれるのは所得だけではない。貯蓄があれば、生活保護を受ける前にそれを生活維持に活用することが求められる。一般の人が持っていないようなぜいたくな品も、処分する必要がある。さらには、まずは親類の援助を受けるように促される。生活保護は、このように本人の生活困難の事情を細かく調査することを避けて通れない。公的扶助制度に伴うこうした調査のことを「ミーンズテスト」というが、これが公的扶助の実際の受給を難しくしている最大の原因である。実際、こうした屈辱的なミーンズテストをきらって申請しない人は多く、生活保護が受けられるのに受けていない人が多数存在している。
posted by GHQ/HOGO at 07:21| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月27日

腐敗した政府−その所有物と貧困

今から30年前、モンゴルは政治的には民主主義体制へ、経済的には自由市場経済への道を選び、不可逆的な目的として憲法に定めた。その理由は、民主主義が根付き、自由市場経済を構築した国の生活水準は短期間で劇的に向上してきたという歴史を鑑みてのことからだ。しかし、自ら選んだこの道を進むことなくさまよっている。
 政府は寡頭制になり、経済が停滞し、国民の生活水準は向上するどころか、低下している。人々は為す術もなく地方から都市へ、都市から海外へ流出し、その流れは止まらない。国民全体の半数は首都ウランバートルに、6%が海外に居住している。
 民主主義体制が確立されない原因は、民主制度の礎となる三権(立法、行政、司法)それぞれの機関が組織的に強化されてないことに直接関係している。クレジットカードなぜ三権分立が機能しないかというと、これらの機関の組織構造が常に変わり、人材は能力ではなく政党の党首により近い人物あること、政党への寄付金の多寡で選ばれているからだ。政党は行政機関のポストを売却し、公共事業入札で便宜を図るなどして資金を調達している。こういったことに党員たちは慣れてしまった。だから、政府の腐敗はあらゆる階層に侵食している。
 政府による企業の国有化の拡大、食糧やエネルギー、住宅の価格統制、非公開で行われる土地売買取引が常態化するにつれ自由市場経済の道から遠く離れていく。さらに政府によるソフトローンの交付、根拠なき税率の引き下げ、国民への現金給付があればあるほど自由競争は消えていく。
 政府の干渉が増えるほどに腐敗は拡大し、民間企業が縮小している。これが経済の自然な発展を行き詰まらせ、失業と貧困を生み出している。
posted by GHQ/HOGO at 06:40| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月25日

支援型サービスと準市場

 福祉国家の未来を展望するにあたって、スウェーデン型であれアメリカ型であれ、諸外国のモデルをそのまま導入するのは不可能である。日本型福祉国家のこれまでのかたちを振り返って、その消極面を根本から是正し、その積極面を継承し発展させていく方向での転換が構想されるべきであろう。
 こうした方向に向けた改革について、再分配(社会保障)のサービス給付と現金給付、そして当初分配(雇用保障)について簡単に述べるならば、以下のようになるだろう。
 第1に、保育(就学前教育)、介護、就労支援など支援型サービスが強化されなければならない。男性稼ぎ主の安定雇用に代わり、老若男女の就労と社会参加を支えるのは、こうした支援型のサービスである。人々の就労と社会参加を妨げている要因は、家族のケア、自身の心身の弱まり、経済困窮などが複雑に絡まり合っている。
 したがって、こうしたサービスについては、行政が画一的な手法で提供しても効果はない。そこで支援型サービスは、準市場quasi marketの方法で供給されることになる。準市場とは、非営利や営利の多様な民間団体が参入し、基本的には公的な財源で(わずかな自己負担あるいは無償で)サービスが供給される仕組みである。
 介護保険制度や措置から契約に移行した子供子育て新制度などは、準市場に近い仕組みであるが、自己負担分が過大である。さまざまなサービスの最適な組み合わせが、人々の絡み合った困難を解きほぐすのに必要なのである。
 福祉国家の未来においては、母子世帯、就労支援、困窮、障害といったサービスの垣根が取り払われ、ほんとうに1つのワンストップサービスの窓口で、さまざまなサービスを組み合わせたオーダーメイドの支援計画が作成されるようになる必要がある。
 第2に、所得保障については代替型から補完型への転換をすすめる必要がある。代替型の所得保障とは、生活保護の生活扶助や雇用保険の給付のように、何らかの事情で失われた所得を、その何割かの水準でまるごと代替する仕組みである。これは人々が失業や病気などで雇用を失う際に社会保障の対象となる従来の所得保障の考え方であった。
 これに対して、補完型の所得保障とは、就労し続けているが就労時間が短かったり、給与水準が十分でなかったりする場合、あるいは家族の扶養などの必要がある場合に、所得を補完する仕組みのことである。補完型の保障は、より多くの人々が就労を目指す一方で、所得面での見返りが大きい安定した雇用が縮小している時代に有効な保障である。
 既存の制度では児童手当などの家族手当が挙げられる。さらに、就労や子育てを条件に税額控除をおこない、低所得で控除しきれない部分を現金給付する給付付き税額控除は、これからの補完型所得保障の柱となりうる。
 第3に、かつての日本型福祉国家で大きな役割を果たしていた当初分配の仕組みを、新しい形で蘇らせることである。加えて重要なのは、当初分配の基礎となる雇用のかたちそのものを転換していくことである。
 長時間労働で会社の要請に応える旧来の日本の働き方は、男性稼ぎ主雇用に適合的であっても、新しい日本型福祉国家の土台としてはふさわしくない。老若男女の多様な働き方を受け入れる職場が不可欠となる。
 現在、中小企業の多くが人手不足に悩んでいる。その一方で、地域では仕事に就けず排除されていく人々が増大する。この矛盾した状況を打開し、支援型のサービスや補完型の所得保障を活かしていくためには、能力面でも条件面でも、より多様な人々が力を発揮できる雇用の場が不可欠である。
 現在一部の企業では、専門的職務の業務から単純な仕事を切り出し、これを就労困難な事情を抱える人々に割り当てて、職場の効率を高めつつ包摂力を高めようとする試みがなされている。無限定の献身を前提とした男性稼ぎ主雇用から包摂型のダイバーシティ・マネジメントへの転換は、日本型福祉国家の復活の条件でもある。
posted by GHQ/HOGO at 06:51| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月24日

旧来型の当初分配を超える

 第1に、当初分配による雇用保障は、その対象を基本的には男性稼ぎ主に限定してきたということである。これからの雇用保障は、広く老若男女を対象としていく必要がある。そのためにも、保育や生涯教育など、雇用保障と社会保障とのより密接な連携が必要になる。
 第2に、公共事業を分配する「土建国家」という言い方が象徴するように、当初分配は行政の裁量、政権党の利益誘導政治と一体不可分であった。これに対し、新たに老若男女の雇用保障を実現する仕組みは、地域と社会の客観的ニーズに対応しつつすすめられなければならない。
 2009年に政権に就いた民主党もまた、マニフェストで「コンクリートから人へ」を掲げて、当初分配を再分配に置き換えることを主張した。併せて社会保障では、子供子育ての優先度を引き上げることを掲げた。だが、公共事業などの当初分配については、自民党政治の名残として縮小していく発想が強かった。
 本来ならば、旧い当初分配から、第六次産業化や再生可能エネルギー関連などの事業による新しい当初分配への転換が強く打ち出されるべきであった。あるいは生活保護という再分配の対象から、就労可能な受給者が就労できる事業の創出も検討されてしかるべきであった。
posted by GHQ/HOGO at 04:54| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月23日

当初分配と再分配の新しい組み合わせへ

 日本型福祉国家が当初分配を軸にして、雇用保障を強めてきたことそれ自体は評価されてよい。
 ハッカーが当初分配を問題にするのは、かつてのイギリス労働党の「第三の道」論などへの反省に基づく。「第三の道」は、業界保護などの当初分配はグローバルな市場経済においては維持できないという点で新自由主義に接近しつつ、他方で再分配を単なる弱者保護から就労支援を軸とした社会的包摂型のものに転換していこうとした。だがハッカーによれば、当初分配を放棄すれば格差は際限なく拡がり、再分配でカバーしようとしても難しいのである。これは、今日の日本の状況と重なる。
 問題は当初分配そのものというより、当初分配の在り方とその再分配との関係である。日本型福祉国家が雇用保障を重視してきたのは間違いではなかったが、ここには決定的な問題点があったのだ。
posted by GHQ/HOGO at 05:53| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月22日

当初分配を重視した日本型福祉国家


 なぜこれまでの日本は小さな福祉国家であったにもかかわらず、当初所得を安定させることができたのであろうか。それは、再分配(リ・ディストリビューション)に代わって、当初分配(プレ・ディストリビューション)の仕組みができていたからである。
 当初分配とは、イエール大学の政治学者ジェイコブ・ハッカーの表現で、当初所得を決める仕組みのことである。当初所得とは、市場のメカニズムで自然に決まるものではない。日本ではこれまで長期的雇用慣行、地方の当初所得を安定させる公共事業や業界保護など、この当初分配の仕組みが男性稼ぎ主の雇用を安定させた。そして男性稼ぎ主は、その勤労所得で妻と子供を養い、国はこのようなかたちを支援するために、税制や年金制度で専業主婦を優遇した。
 日本の再分配が高齢者向け支出に偏っていたのは、現役世代に対しては当初分配が生活保障の根幹となったからである。ところが、1990年代の半ばから、経済の脱工業化やグローバル化を契機として、男性稼ぎ主の安定雇用の基盤が崩れ始めた。
 95年に日経連はレポート「新時代の日本的経営」を発表し、全社員を長期的雇用慣行や企業内福利厚生の対象とするのを止め、雇用保障を一部の社員に絞り込んでいくことを提起した。2000年には、公共事業支出のGDP比もピーク時の半分ほどとなり、また、中小企業の業界保護の制度も規制緩和がすすんだ。非正規雇用は1995年には1000万人を突破、2013年には38.2%が非正規雇用となった。
posted by GHQ/HOGO at 09:13| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月21日

再分配前の平等度が高かった日本

 1990年代までは、日本の社会保障支出はアメリカをも下回っていたが、むしろ貧困率は抑制され、ジニ係数でみた格差もより小さかった。皮肉なことに、社会保障支出が増大するなかで、格差と貧困が拡がっていることになる。
 かつて日本のジニ係数は、社会保障支出が抑制されていたために再分配の前と後の改善度(再分配率)は低かったが、当初所得の段階で格差が小さかったために、大きな格差とはならなかった。今日、社会保障支出の増大で、再分配の前と後でのジニ係数の改善度は上昇している。にもかかわらず、再分配前の格差が、低所得層の拡大でそれを上回る速度で拡がっているために、ジニ係数はかつてに比べて上昇しているのである。
 算定の基礎が違うので表と単純に比較はできないが、厚生労働省の所得再分配調査では、1999年に0.472であった当初所得のジニ係数は、2010年には0.554にまで上昇した。この間、再分配率は19.2%から31.5%まで拡大したが、再分配後のジニ係数は0.381から0.379と若干の改善に留まり、しかもこの数年では上昇しているのである。
posted by GHQ/HOGO at 06:57| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月20日

「退職後の高齢者」へ偏る支出構造

 その理由は、日本の社会保障支出が年金や高齢者医療など高齢者向けの支出に偏ってきたこと、そして急速に進む高齢化が、こうした支出構造と連動して社会保障支出を押し上げているからである。たとえば日本では高齢者向けの現金給付がGDP比で8.8%で、OECD平均の6.9%を大きく上回る。高齢者向けの支出といっても、正確にはかつて安定し仕事に就き社会保険に加入していた「退職後の高齢者」への支出(年金の公的負担や医療費)であるので、受給資格を欠いた高齢者の貧困もすすむのであるが。
 その一方で現役世代について言えば、雇用が不安定化し非正規雇用が拡大するにもかかわらず、保育サービスや公共職業訓練など現役世代向けの支援が弱いために、経済的困窮に陥る人々が増えている。保育など家族向けのサービス・現金給付のGDP比は、日本では1.4%で、OECD平均の2.2%に及ばない。現役世代は、高齢者向けの社会保障支出の負担ばかりを負うことになっているのである。
 社会保障支出を拡大しても、貧困や格差が拡がっているとすれば、日本型福祉国家の未来は暗いのだろうか。もちろん楽観は許されない。だが、もはや万事休すというわけでもない。日本型福祉国家のかたちを振り返ると、西欧の福祉国家とは異なって雇用保障を優先するという特徴があった。そしてこの特質を、21世紀の新しい環境のもとで蘇らせることも可能なのである。
posted by GHQ/HOGO at 06:19| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月19日

東アジアでは突出した福祉国家の日本

 日本は、少なくとも社会保障支出の規模から言えば、非西欧世界における初めての本格的な福祉国家となりつつある。経済協力開発機構(OECD)の統計では、2011年にGDP比で見た社会保障支出は23.1%に達し、イギリスの22.7%をも超えた。「ゆりかごから墓場まで」面倒をみる福祉国家のモデルとしてイギリスを仰ぎ見てきた世代からすると、隔世の感があろう。日本の支出水準は、オランダの23.5%とほぼ同じである。同じ東アジアで日本の次に社会保障支出の規模が大きい韓国が10%に留まっていることを考えると、日本は東アジアでは突出した福祉国家となっていることが分かる。
 だが、社会保障支出の規模が大きいということは、必ずしも福祉国家として貧困問題や人口減少への対応に成功していることを意味しない。日本では近年、現役世代の女性の貧困率が上昇し、12.6%に達している。オランダでは、女性の貧困率は4.6%である。母子世帯において貧困が拡がったために、子供の貧困率も上昇し、ユニセフの統計では14.9%となっている。オランダの子供の貧困率は5.9%である。
 さらに、今日の福祉国家の重要な課題である人口問題への対応においても、人口の減少を食い止めることができずにいる。2014年春には民間の政策提言機関が、2040年までに半数の自治体が人口減で持続困難になる可能性があるというレポートを発表して衝撃を呼んだ。社会保障支出が拡大するなかで、現役世代に貧困や格差が拡がっているのである。これはなぜなのであろうか。
posted by GHQ/HOGO at 06:09| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月18日

実際は、生活保護費を「ぜいたく品」に使う人は少ない:研究結果

 最近の実証研究が示すところでは、実際のところ生活保護費をタバコやアルコールなど「ぜいたく品」「嗜好品」の購入に使う人は少ない。
 例えば世界銀行のデイビット・エバンス、スタンフォード大学のアンナ・ポポバ両氏が19の計量研究をメタ分析したところ、公的扶助など現金給付において、「ぜいたく品」「嗜好品」の購入増は認められず、むしろ購入減(支出を減らす)ことが認められた。
 なお「メタ分析」とは、統計的分析のなされた複数の研究を収集し、統計学的知見を活かして統合したり比較する研究法のこと。
 生活保護に関するデマは古今東西、幅広く見られるものであり、例えば80年代のアメリカ大統領・レーガンは州知事時代から「ウェルフェアクイーン(公的扶助受給の黒人マザー)がキャデラック(高級車)を乗り回しているぞ!」との怪気炎をあげていた。
 実際問題として、そんな”マザー”が存在しなかったことは、言うに及ばない。が、当時から現在に至るまで、この言葉は一種のスローガンとなってアメリカ社会に定着し浸透している。
posted by GHQ/HOGO at 05:48| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月17日

不公平感と制度

 もともと戦中期において生じた「苦しんでいる同胞を助けてあげよう!」なる感情がもとになって生まれたのが現在の社会扶助なり公的扶助なのだから、制度を悪用なり本来の適正な使い方をしない人が出てくると、不公平感を生み、社会扶助システムそのものが不可能になることは十分に考えられる。
 現実、「不公平感」をバカにすることはおろそかにできず、それを蔑ろにすることは制度そのものを破滅させるケースが多い。
 『近代国家において革命が生じるのは、警察権力の不当な乱用と課税権力の濫用である』とはよく言ったもので、税金の使い道に対する不公平感が元でシステムがひっくり返ってしまうのは、フランス革命など各種革命、ユーゴスラヴィア内戦など各種戦争・内戦、独裁政権の転覆など枚挙にいとまがない。
 なお、最近読んだ『独裁者のためのハンドブック』という本においても語られるのは、結局、「金の切れ目が縁の切れ目」ということだった。独裁者は権力維持のために「仲間」への金集めに苦心する。
 革命まで大規模なものでなくても、日本含め先進国に共通してみられる「都市と地方への格差を抑えるための国税 (地方交付税交付金) 使用に対する都市市民の不満」や、「定期的に発生する公務員叩き」の背景に不公平感があるのは確かだろう。
posted by GHQ/HOGO at 05:44| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月16日

現金給付の(直感的にわかる)欠点、2つ

 一般的な感覚としては次のような点で現金給付が嫌われ、現物給付が支持されることが多い。次の2点が主な理由としてあげられる。
 @ 生活保護をパチンコに使うことは人々の支持を得るのか
 これは生活保護に対する批判としてよく言われることだが、例えば生活保護費のお金でパチンコ通いや競馬通いは認められるのか。
 一方で「そんなの、お金を何に使おうが本人の勝手でしょ」という声があり、確かにその通りだと個人的には思うけれど、現実問題として生活保護費の使い道に寛容になれない人は多く存在し、その場合は民主主義の制度上、現金給付制度の継続が困難になる。
 ただ、これはそもそもにして藁人形論法、すなわち「貧困者に対する差別意識が原因のデマ」である可能性もある。詳しくは後で解説するが、「生活保護をもらってもパチンコや競馬などの遊興費やぜいたく品の購入品に用いることはそれほど多くない」ということが多くの実証研究で明らかになっている。
 A 制度を悪用する人間が出てくること
 例えば現金を給付する場合、もらったお金は何にでも使うことは可能だから、お金を目当てに「当たり屋」のような人が出てくることは否めない。すなわちお金を目当てとして、わざとケガをする人が出てくるかもしれない。
posted by GHQ/HOGO at 06:43| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月15日

生活保護制度の悪用が取りざたされているが‥‥

 生活保護を受けるような貧しい人々に対し、現金を給付するのか、それとも現物給付(サービスそのもの)をするのか、どちらが望ましいのかという話がある。そもそも「現物給付」と「現金給付」は、次のように分別される。
・現金給付:そのまま現金を渡すこと。現金の使い道はもらった人が自由に決めてよい
・現物給付:診療や検査、投薬、入院など「医療サービス」や「食料」など、サービスそのものを渡すこと。
 アメリカで広く採用され、日本でも大阪において社会実験が行われた「フードスタンプ」や「バウチャー」は、金銭に近い存在ながら大まかな範囲で使途を限定しているので、現金給付と現物給付の折衷案と言える。
 感覚的には現物給付(サービスそのもの)のほうが良さそうに感じるし、実際、洋の東西を問わず政治的には現物給付のほうが人気がある。
 同様に政治家は人気稼業だから、人びとの意見に流されやすく、一時は時代の寵児として首相待望論も多く聞かれた橋下徹氏、そして氏が率いた大阪維新の会も、当然のように現物給付を主張していた。
 「ミクロ経済学」というものがある。経済学というと「お金儲けのための学問」というイメージがあるが、実際はそうではなく、現実の資源状況(お金なりなんなり)の下において人々の幸福(効用と呼ばれる)を、どのようにすれば最大にできるのかを数学を用いて考える学問だ。
「限りある資源について、どのように分配すれば皆が幸せになるのかを、数学を用いて出来る限り厳密に考える分野」と言いかえてもいい。だから「限りある財源の中で、現金給付か現物給付のどちらを採用すれば良いのか」など、現実社会を分析する道具として、コレはうってつけのものとなる。
 そしてミクロ経済学のオーソドックスな分析に従えば、「現金給付(現金配布)」が支持される。ここにおいては、現金給付にすることで、人々(例えば生活保護受給者)の幸福は最大限しつつも、国費を抑えることが可能となることが導かれる。すなわちサービスそのものを渡すより、現金をそのまま渡した方が、効果的かつ効率性に優れているのだ。
・ミクロ経済学による分析では、「現物給付(現金配布)」が支持され、現金をそのまま渡した方が、効果的かつ効率性に優ると結論付けられる
 ・ただミクロ経済学の分析ではとらえられない「穴」があるのも確かである
 しかしながら、ミクロ経済学の分析にも穴がないわけではない。物事には効率性以外の側面があるからだ。
posted by GHQ/HOGO at 08:19| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月14日

格差社会の縮小こそが貧困対策

 世界の絶対的貧困問題にしても、また日本の子供や高齢者世帯の貧困問題にしても、解決方法はそう簡単なことではない。政府が積極的に格差社会の縮小に乗り出し、アメリカのような極端な自由主義を改め、富裕層から税金をたくさん徴収してそれを貧困層に配分する必要がある。
 アメリカの共和党政権や日本の自民党政権などの保守系政党が最も嫌う政策だが、現在のような状況がいつまでも続けば、フランスのイエローベスト運動に見るような、一般の民衆が立ち上がる時代になっていくのは避けられないかもしれない。
 民衆の抗議行動を軍事で押さえつけるには限界がある。アメリカのトランプ大統領が誕生した段階で、格差社会が縮小しなければ、 ポピュリズムや保守党政権の政策が間違っていることを示すことになる。
 「貧困撲滅のための国際デー(10月17日)」に合わせて声明などを出している「国際労働機関(ILO)」なども、さまざまな活動を実施しているが、異常気象や国際紛争などによって、時々刻々と新しい貧困層が誕生しているのも現実だ。
 2016年時点で、世界全体では3億2700万人が働いていながらも極度の貧困に陥っている、と言われる。
 最近になって、現在の資本主義には限界がきている、とする指摘が多くなってきた。確かに、これまでの資本主義社会は限界に近づいているかもしれない。大きな時代の流れの中で、格差をどう捉えていくのかを考える必要があるのかもしれない。
posted by GHQ/HOGO at 08:49| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月13日

日本の所得格差は先進国中ワースト8位?

 日本の貧困問題はどうなっているのだろうか。日本の貧困問題とは相対的貧困であり、言い換えれば格差社会の表れであることをきちんと把握するべきだろう。格差社会についてはさまざまなデータがあり、世界の超富裕層8人と下位36億人の資産額が同じといったデータ(NGO団体「オックスファム」調査)には驚くばかりだが、日本の所得格差も実は深刻なレベルに達している。
 たとえば、ユニセフの調査によると日本の所得格差のレベルはOECD加盟41ヵ国中、格差が大きい順に8位という報告がされている。先進国の中でワースト8になる。これはユニセフがまとめた報告書「子供たちのための公平性」によって指摘されたもので、底辺に置かれた子供が平均的な子供から比べてどの程度を取り残されているかを示したもの。いわゆる「底辺の格差」と呼ばれるもので、所得や学習到達度、主観的な健康状態、生活満足度などに関して、平均的な子どもと比較した数値である。
 同報告書によると、世界全体で見て1985年から2012年にかけての子供の相対的所得は拡大しており、中間層の所得は上昇したものの、底辺では逆に減少している、という指摘がされている。
 とりわけ、先進国で暮らしている子供の貧困は徐々に拡大しており、2002〜2014年の12年間で、すべての先進国の子供の、貧困の格差は拡大していることが示されている。
 世界第3位の経済大国である日本が、ワースト8に入っていることは恥ずべきことだが、日本の場合、メディアが積極的に報道しようとしないために、政府も本気で改善に力を入れようとする姿勢が見えない。問題の深刻さは、経済再生=アベノミクスの陰でクローズアップされていない。
 もっとも、現在世界中で起きている極右勢力の台頭やポピュリズムの動きも、貧困や格差社会がその根底に流れており、貧困や格差の問題を政治の問題にすり替えようとする動きが大衆迎合主義などにつながっていると言っていい。
 深刻なのは、子供だけではない。厚生労働省の国民生活基礎調査によると、日本の貧困率は1人親世帯の貧困率が50.8%なのだが高齢者世帯の貧困状態も深刻になりつつある。65歳以上の高齢者のいる世帯の貧困率は27.0%に達しており、4世帯に1世帯以上が、現役世代の収入の半分以下の収入で暮らしていることになる。
 しかも、単身世帯での貧困率はさらに深刻で男性単身世帯で36.4%、女性の単身世帯では実に56.2%が貧困層と定義づけられている。65歳以上の女性の1人暮らしは、2人に1人以上が貧困の状態というわけだ。
 家計調査年報(2017年)によると、無職の高齢者世帯が得ている収入の平均は月額で12万2000円、年換算で147万円となっている。その一方で、高齢者世帯(2人以上世帯のうちの勤労世帯)の平均貯蓄額は70歳以上で2385万円、60代で2382万円と、現役世代に比べて圧倒的に高く、40代の2倍以上となっている。
 つまり高齢世帯ほど貧富の格差があるということだ。公的年金制度の存続が大きなカギとなるが、高齢世帯の貧富の格差は今後大きな社会問題になるかもしれない。
posted by GHQ/HOGO at 05:54| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月12日

貧困率が初めて10%を下回る見通しに

 絶対的貧困層を撲滅するために掲げられているのが「持続可能な開発のための2030アジェンダ」だ。2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発目標(SDG’s)」で掲げている17の目標の1つに、この貧困撲滅が定義されている。
 ちなみに、 世界銀行は2015年10月に国際貧困ラインを1日1.25ドルから1.90ドルに改定している。この背景には、2015年の世界の貧困率が初めて10%を下回る見通しになったからだ。
 2015年現在の統計によれば、貧困層の多くはサハラ砂漠より以南の「サブサハラ・アフリカ地域」に集中しており、ここにインドなどの南アジア地域を加えると、85%以上がこの2つの地域に集まっていると言われている。とりわけサブサハラ・アフリカの貧困率は、41%が貧困ライン以下となっており、世界の中での格差が大きいことがわかる。いまだに世界には数多くの絶対的貧困層がいることを示していると言っていいだろう。
 世界銀行の調査によると、世界の貧困層は1990年には18億9500万人だったのだが、2015年には7億3600万人に大きく減少している。この四半世紀の間に、貧困層の数をざっと11億人以上減らすことに成功したことになる。
 この25年間で、世界は確実に貧困層を減らしてきたと言っていいが、世界銀行は絶対的貧困の比率を、世界全体で3%まで減らすことを目標にしている。
 一方、相対的貧困については「OECD(経済協力開発機構)」のデータがベースになっている。最近のデータがないためにはっきりしたことは言えないが、2011年の時点の中国の相対的貧困率は28.8%に達している。13億人の約3割、5億人弱が貧困層となっていたわけだが、いまやこの数字は大きく改善していると考えるのが自然だろう。ケ小平が進めた開放政策以降、中国では6億人程度が貧困から救われたと言われている。
 中国に次いで貧困層の多い国は、やはり人口の多いインドということになるのかもしれないが、貧困率のデータではインドは世界第5位になっている。ちなみに、貧困率の高い国はデータでは次のような結果になっている(2016年現在、OECD調べ、調査年は各国によって異なり2011年〜2015年、出所:グローバルノート)。
 1. 中国……28.80%
 2. 南アフリカ……26.60%
 3. コスタリカ……20.90%
 4. ブラジル……20.00%
 5. インド……19.70%
 6. アメリカ……17.80%
 7. イスラエル……17.70%
 8. トルコ……17.20%
 ちなみに、こうした貧困のデータは164カ国を対象とした世帯調査に基づいており、各国の政府によって3〜5年ごとに実施されているが、データの収集や分析は国によって大きく異なるため、なかなか最新の数値が出てこない。
 いずれにしても、この四半世紀で貧困層を救済するという点では、人類は大きな前進を遂げたと言っていいだろう。
posted by GHQ/HOGO at 06:39| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月11日

先進国の中で最悪のレベルに近い日本の貧困率

 日本では貧困率のデータは3年ごとに調査されている。最新の数字は2015年に発表された15.6%。ひとり親世帯の貧困率では50.8%となっており、先進国の中では最悪のレベルに近い。
 最新情報となる2018年の調査で改善されているかどうかが注目されるが、現実問題として賃金が増えていない状況では大幅に改善しているとも思えない。「有効求人倍率」は大きく改善して、業界や職種によっては人手不足が深刻だが、相変わらず正規社員と非正規社員との間には給与面での大きな溝がある。
 今年の4月から実施された「働き方改革」いわゆる「同一労働同一賃金制度」が、どの程度賃金体系に影響を与えるのか。その結果を見守るしかないだろう。
 とはいえ、安倍政権になって以来、年金の給付額や生活保護の給付金の減額が実施されており、日本の貧困問題は悪化して大きな格差になっていると考えるのが自然だろう。
 そもそも日本の貧困率はバブル崩壊以来、継続して悪化を続けており、たとえば貧困率算定のベースとなっている「可処分所得」の推移をみてみると、日本ではこの20年間ひたすら下がり続けている。
 日本の1人当たり可処分所得は年間245万円(中央値=平均値、2015年現在)だが、この平均値の半分しか所得のない世帯を貧困層と呼んでいる。日本では、この貧困率の算定基準となる可処分所得の金額が、1997年からの20年間で52万円も下落した。失われた20年と呼ばれるが、日本の貧困率の状況が厳しさを増している証拠ともいえる。
 一方で、日本以外の状況を見ると違う風景が広がっている。世界中の貧困層は減少し続けており、とりわけ、この20年間で中国の貧困層の多くが、先進国の中流階級並みの仲間入りを果たし、この20年程度の間に6億人が貧困から解放されたとも言われている。
 日本と世界の貧困をテーマに、時代の流れを考えてみよう。
 一口に貧困と言っても、国や地域によってその事情は大きく異なる。周知のように「貧困」には大きく分けて2種類あり、必要最低限の生活水準が満たされていない「絶対的貧困」と大多数の平均に比べて貧しい「相対的貧困」がある。
 日本で言うところの貧困とは、言うまでもなく相対的貧困層だが、経済的な問題だけではなく、「教育の機会や就業の機会が得られない」「病院や住居など生活に必要な公共サービスを受けられない」といった形でさまざまな貧困が存在している。
 絶対的貧困については、世界銀行が定めている「国際貧困ライン」があり1日1.90ドル未満で暮らす人々を絶対的な貧困層と定義している。現在、世界中で取り組んでいる貧困撲滅の対象は、この1.90アメリカドル未満で暮らす貧困層と考えていいだろう。
 1.90ドルといえば、日本円にして210円程度、月額にして6300円程度の生活費ということになる。さすがに日本では絶対的貧困は存在しないと考えるのが自然だが、世界ではまだまだ数多くの絶対的貧困層が存在している。
posted by GHQ/HOGO at 07:02| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月10日

福祉は自分なりに定義しよう!

 介護士が働いているのは高齢者福祉の分野。だがこの福祉という言葉、なかなかの曲者だ。何となく分かったつもりではいるが、いざ説明するとなると言葉に詰まってしまうこと方も多いのではないだろうか。そんな福祉について、今一度考えてみよう。
 まずは福祉を辞書で調べてみよう。多くの辞書で最初に出てくるのは、「幸福」「幸せ」という意味なのだ。素敵な意味なのだが福祉=幸福というのは、普段使っている「福祉」の意味とは少しずれているのではないか。
 そこで二番目の意味が出てくる。「公的扶助やサービスによる生活の安定、充足」。こちらはまさに日常的に使用している福祉の意味と合致するのではないか。現在では後者の意味で使われることがスタンダードであり、社会福祉といえばこちらを指している
  福祉の語源は明治維新時の外来語の流入によるものではなく、漢語に由来していると考えられる。だがそのときは「福祉=幸福」と、前者のみを意味していた。実際「福」も「祉」もどちらも幸せを表す語なのだ。
 では、現在のように「公的扶助やサービスによる生活の安定、充足」のニュアンスが強まったのはいつからなのか。その時期を正確に特定するのは困難だろうが、英語との関わりは見逃してはならな。英語で福祉に当たる単語は、wellfare。この単語が初めて登場したのは100年以上前に遡れる。単語をばらしていくと、wellとfareに分割することができる。wellは物事が上手くいくことを示す副詞、fareのほうは、何かをするという動詞。簡単にまとめると、英語のwelfare は「うまくやっていくこと」と定義づけられる。この単語に隣接する単語としてwell-being「良い状態」があり、これはパーソンセンタードケアなどが目標とされる状態でもある。
 結局のところ、福祉という言葉をどう定義すれば良いのか。現在主に使われている「公的扶助やサービスによる生活の安定、充足」という意味で十分とも考えられるし、一方で本来の語源に近い「幸福」というニュアンスも捨て難いという人もいるはず。福祉という言葉はその両方の意味を含んでおり、どちらかに決めることは難しいものである。また社会福祉の究極の目的が社会全体の幸福度の向上であると定義するならば、前者の意味のほうがよりしっくりとくるかもしれない。
  大事なことは福祉を定義づけることではなく、自分自身で「福祉とはなにか」と考えてみることではないか。もしも介護士として働いているのであれば、高齢者福祉に少なからず貢献しているはず。では高齢者福祉って何なのか。介護士の働きはどのように社会の役に立っているのか。その答えはもひょっとたら十人十色かもしれない。あなたにとっての福祉とはどのようなことだろうか。一度考えてみると自分なりの定義が見つかるかもしれない。
posted by GHQ/HOGO at 06:08| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月09日

貧困を克服するには?

 日本の貧困率が高いのは、「経済のグローバル化」といった日本の外にある「いたしかたがない」要因によるものでは決してない。日本の貧困率の高さは、日本自身の身から出た財政状況によるものなのだ。だから、腹を据えて、負担を引き受けるしかないのだ。国民が一丸となって負担を分け合い、一番必要な人々に再分配できるように、政治に求めていくか。それとも、あきらめて、貧困と格差のはびこる社会を受け入れ、自分の保身だけに走るのか。それが今、国民につきつけられている問いなのである。
posted by GHQ/HOGO at 08:05| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月08日

不平等が市民参加に及ぼす影響

 所得格差は、制度や政治的アクターが異なる所得水準にどのように対応しているかという点で民主主義を歪めるだけでなく、市民参加に作用するソーシャルキャピタルの発展に、大きな影響を与える可能性がある。
 民主主義は、単なる投票行動だけでなく、市民が地域社会へ積極的に参加することを必要とする。ソーシャルキャピタルの基盤となる考え方は、社会関係の親密なネットワークに埋め込まれた市民的美徳(civic virtue)こそが最も効果がある、というものだ。アメリカの市民社会は、アメリカ人が自発的に組織に参加して、結合的な生活を送ることで形づくられている。そして、これらの組織を通じて、彼らは地域社会が抱える問題に関与していく。
 所得格差と市民参加の関係に関する研究で、レビン・ウォルドマンは、2008年において異なる所得水準にある世帯の個人が、市民参加の度合が異なることを明らかにした。そこでは、市民参加について6つの尺度が考慮されている。政治についての日常的会話、新聞を読むこと(政治についての知識と関心を話すことが意図されている)、抗議活動への関与、政治的会合への参加、公的機関への訪問、市民団体への参加である。
 年間10万ドル以上を稼ぐ世帯は、すべての基準で年間3万ドル未満を稼ぐ世帯よりも参加率が高いことが明らかとなった。所得分布の最上位層は、必ずしも年間3万ドルから9万9999ドルまでの世帯よりも高い結果になるわけではないが、年間3万ドルから5万9999ドルの世帯は、年間3万ドル未満の世帯よりも政治参加の傾向が非常に高まる。
 3万ドル以上の所得がある世帯の個人は、市民参加は劇的に高まると言える。これらの違いは、中流階級に加わることが市民参加の度合いを押し上げることを示唆している。加えてロジスティック回帰分析の結果として、より高い所得の人々は市民参加に加わる可能性が高まり、最低賃金以下の人々はその可能性が最も低いことも明らかになった。
 所得の不平等が市民参加に悪影響を与えること以外にも、それは政治的アノミー(無規範)に結びつく可能性がある。世帯間の所得格差が拡大するにつれて、中央値未満の世帯は社会的規範から距離を置くことになる。同時に所得分布の最上位にいる人々も、彼ら以外の人々との大きなギャップを感じていく。
 分布の最下層にいる世帯は、ますます社会のメインストリームから離され、そのことで疎外を感じていくだろう。多くの資産を持つ人々は、彼らを価値のない異質なものと見なすかもしれない。このことは、政府の機能と潜在的役割に対する市民の見方にも影響を与えるだろう(Haveman, Sandefeur, Wolfe, and Voyer 2004)。貧しい人々は、政治参加の傾向をますます低下させるため、より大きな社会的疎外を経験する。こうして、彼らは共通の利益からますます離れていくだろう。
 しかし結局ところ、社会的孤立から生まれる疎外感は、彼らが共通の政治的プロジェクトに参加しても何の利益も生み出さないという結論になりがちなため、政治参加を生み出すことは殆ど無い。資源が不均等に分配されている場合、富裕層と低所得層の双方が、互いに同じ運命を共有していると感じなくなる。こうして彼らは、異なる背景を持つ人々を信頼しなくなってしまう。
 不平等性が高い場合、人々はその運命を自ら決定することに楽観的でなくなる。不平等の増大は、信頼の欠如
不平等の増大により、民主主義への深刻な脅威が生まれていることは明らかだ。民主主義の脆弱性に左右されるため、不平等が民主主義に対してどのくらい破壊的であるかを確実に予測することはできない。しかしアメリカでは、選挙による代表者がもはや全ての人々を平等に代表しておらず、民主主義の明らかな侵食が見られる。
 資産を持つ人々、中でも政治運動に関わる人々の声が、ますます反映されていく。一方で持たざる人々は、ますます政治から締め出されていることに気が付いている。脆弱な民主主義国家では、政府の応答性は不安定だ。そしてアメリカでさえ、様々な社会的抗議運動でこうした兆候が見られる。
 2016年の選挙結果は必ずしも所得格差の拡大に対する反応ではないが、明らかにそれは、所得格差の拡大という症状が生まれている経済情勢に対しての反応であった。
 具体的に言えば、賃金の上昇と雇用の創出をもたらすことができなかった政界のエリートに対して、明らかに有権者は反撃を加えた。有権者は、少なくとも修辞的には、国境の開放や自由貿易に反対する候補者を選び、政界エリートが推進するグローバリズムに対決姿勢を見せた。
 そのグローバリズムこそが、スキルを持った上位の高収入労働者と専門性を持たない底辺の低収入労働者を分断する経済を生み出している。
 ドナルド・トランプの選出が、権威主義への欲求を表していると結論付けることは言いすぎかもしれない。しかし彼の批判者はそのように見ており、もし有権者が経済状況に対する権威主義的な解決策としてトランプを選んだのでなければ、それは近年の拡大する不平等の源泉となっている経済状況に対する明確な答えになっている。
posted by GHQ/HOGO at 07:29| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月07日

なぜ不平等は民主主義に危険なのか?

 アセモグルとロビンソンによれば、社会的動揺はしばしば不平等の結果にある。そして、エリートと市民の間の不平等が深刻な社会では、社会的変化が生じやすい。社会がより均等になるほど、大衆が民主化を要求する可能性は低くなる。
 深刻な社会の不平等は民主化を要求するため、革命の脅威へと結びつく。そのためエリートは、彼ら自身の利益のために、参政権を拡大することで民主的移行を起こそうとする。この移行は、革命の脅威を抑えて現状を効果的に維持したまま、最終的にエリートの権力基盤を維持することに繋がる。
 しかしエリートは、革命の脅威を逃れるために必要な程度にしか民主化を進めない。大衆の圧力を弱めて、彼らの能力を弱体化させることで、民衆の力を効果的に削ぐことができるためだ。
 民主化とは、公正な手続を通じて声を上げることだ。しかし民主化は、結果の平等を達成することを目的とした資源の再配分を通じて、より大きな平等を達成することを意味すると言えるだろう。
 このように再配分への圧力を抑制することから、経済的平等は民主主義を効果的に促進する。それらは大衆革命の副産物として生まれるかもしれないし、権威主義体制を生み出すこともある。
 民主主義制度における富の不平等な分配は、大衆による再配分の要求と極限まで増大する税金をもたらしていく。だが政治体制が税率についての”民主的な投票”に応答していない場合、何が起こるのだろうか。
 真に民主的な体制は、大衆の利益のために裕福なエリートを引きずり下ろすのではなく、再分配を目的として高い税率を設定するだろう。民主主義では、誰もが中位投票者定理として知られている理論に従って、税率への投票を決定していく。社会における平均所得と中央値の差が拡大することは、不平等の拡大を示している。その格差が大きいほど再分配を求める声は大きくなり、税率が効率的に決定されることとなる。
 しかしながら個人のレベルで考えたとき、富と所得の不均等な分配は、個人が民主的プロセスに参加する能力に悪影響を与える可能性がある。富と所得を持たざる人々が、それらを持つ人々と同じように政治・政策当局にアクセスすることができない結果、手続的不平等が生じていくからだ。
 富の集中が高まるにつれて、エリートは政治や何らかのイデオロギー的な目標を達成するために富を使うことができる、より有利な立場に置かれていく。所得分布の上位に位置する富裕層は、しばしば無節制な権力を有しており、再分配を制限するだけでなく、より多くのリソースを持つ人に有利な形でゲームのルールを形成していく。立法機関が裕福ではない有権者よりも裕福な有権者に対して応答的であることは、さまざまな研究によって明らかになっている。
 不平等、なかでも極端な貧困は、最終的にわれわれから、ある種の自由であるケイパビリティーを奪うことになる。所得分布の底辺にいる個人が貧しいと言えるほど、貧困は個人のケイパビリティを奪っていく。したがってケイパビリティの観点からは、「自身が価値あると判断できる人生を送っているという実質的な自由」をその人が持っているということが、個人の優位性を判断する上で大きな問題である。
 こうした自由は、個人の自律を基礎付けている。より多くのリソースを持つ人は、自らの目標や目的を追求することができるが、それがわずかな人は、自らの目標や目標を追求する能力が限られていることがあるのだ。
 個人の目的や目標を追求する能力は、異なる理由からも民主主義にとって重要である。特にその正統性と権力が人々の同意に由来するような民主主義は、個人が十分に理性的である、すなわち公共の場で討論し、責任ある方法で能力を行使できるという前提を置いている。もし、彼らが合理的な方法で討論できなければ、それが政策議論であろうが代表者の選出であろうが、彼らは実質的に参加していないことになってしまう。
 民主主義は、人々が適切な社会を目指して主体的・能動的に能力を発揮すること(agency)を求めるため、行為主体性(human agency)が守られなければならない。しかしこの行為主体性は、基本的な物質的ニーズが満たされていることを前提としており、富と所得の格差拡大はほとんど想定されていない。
 また民主主義は、人々の間に信頼関係があることを必要とする。しかし所得格差の拡大は、政治的な疎外を経験してシステムが公平でないと感じる底辺の人々を中心として、さまざまな集団の信頼関係を脅かすと言われている。ソーシャルキャピタルは社会を結びつける接着剤であるが、もし個人が経済的・政治的システムを不公平であると感じるならば、その接着剤はうまくいかずに、社会は機能していかないだろう。
 信頼関係のある国民は協調的になる傾向があり、かつ、信頼感を抱いた国民を有する政府は腐敗が少なく、紛争も減り、応答性が高まる傾向が見られる。
posted by GHQ/HOGO at 09:34| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月06日

生活保護を受ける条件は主に4つ!

 生活保護を受けるには、主に4つの条件がある。まずは「援助してくれる身内や親族がいないこと」、「まったく資産がないこと」。「援助してくれる身内や親族がいないこと」を確認するために、申請後役所から三親等以内の親族に連絡が届く。これが嫌で申請ができない人も多いようだ。
 上の2つを満たしたうえで、「収入が最低生活費を満たしていないこと」をクリアし、「病気やけがその他の事情でやむなく働けない」人は生活保護を受けることができる。さらに、働いていても「最低生活費を満たしていないこと」、「援助してくれる身内や親族がいないこと」、「まったく資産がないこと」の条件を満たしている人は生活保護を受けられる可能性がある。
 生活保護は8種類の扶助で構成されているが、主要なものは3種類。
 ○生活扶助・・・衣類や食費、光熱費などの生活するうえでなくてはならない費用に対する給付。
 ○住宅扶助・・・住宅に関わる費用に対する給付。賃貸物件の賃料などを限度額内で毎月支給。また、持ち家でも引っ越し代や修理費などを必要に応じて支給。
 ○教育扶助・・・小学校・中学校に通う義務教育の子供の学習費や教材費、給食費などを子供の人数に応じて給付。
 それぞれの事情に合わせて、上記の扶助や支給の加算が行われる。
 生活保護には「親族に知られる」、「自由に貯金ができない」、「ケースワーカーに日常生活を指導される」などのデメリットもある。行政からの生活指導がとても厳しく、トラブルになるケースも発生している。また、生活保護を受けることで働く意欲をそがれる人が多いことも問題だ。本当に困っている人の助けとして頼もしい生活保護だが、無計画が原因で生活保護しか道が無い…というのは悲しいことかもしれない。生活保護を受けることがないように、将来を見据えたライフプランニングを意識することだ。しかし、…。

posted by GHQ/HOGO at 06:38| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月05日

習近平政権と貧困対策

2015年11月29日付けの中国共産党の機関紙『人民日報』によると、同月27日と28日の両日、習近平総書記は、「脱貧困」に向けた重要会議を開いたということになっている。会議で習総書記は「貧困を解消し、庶民の暮らしを守ることは、社会主義の本質的な要求であり、わが党の重要な使命だ」と演説した。
しかし、これは表面的なことで、発展が遅れぎみな22の省と市の幹部に「脱貧困に取り組む責任書」に署名をさせたのだが、政権の維持だけを狙ったものだ。「責任書」には、脱貧困を最優先の課題とすることや、うわべだけを取り繕って中央の予算支援を無駄にしないことなどを誓わせているが、上辺だけである。
 地方幹部に政策の徹底を書面で署名させるのは異例のことで、外交筋は、「反腐敗」に次ぐ政治的キャンペーンになる」と見たが、そのとおりになっている。貧困や格差の解消は大衆の支持を得やすく、党内で異論を差し挟みにくい点で、反腐敗と共通するものである。
 反腐敗キャンペーンは、習政権の基盤固めにつながったが、「脱貧困」の推進は、ケ小平以来の雄改革開放路線が曲がり角に来ていることをも示している。ケ小平による社会主義の大義に縛られず市場経済を導入するというケ小平によるこの現実的な考え方は、「まず一部の人々を豊かにさせ、その後豊かになった者がほかの人々を引き上げて共同富裕を目指す」という先富論として知られた
 習総書記による「脱貧困」政策は、一部の人々を豊かにさせるという段階から、次の「共同富裕」の段階に入ったという認識であるのだが、あくまでもえにかいたもちにすぎない。「共同富裕」を目指すことが、発展優先の現実路線から、社会主義の理念を優先することに傾くことにつながると考えられるからなのであるが、成功はしないだろう。
posted by GHQ/HOGO at 06:24| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする