2019年08月31日

高齢者世帯の27%が貧困状態

 子供の貧困と並んで深刻なのが、高齢者の貧困だ。65歳以上の「高齢者のいる世帯」の貧困率は27.0%。つまり高齢者世帯の4世帯に1世帯以上が貧困世帯となっている。さらに65歳以上の1人暮らし(単身世帯)の貧困率を見るとさらに深刻さは増す。
 ・男性単身世帯……36.4%
・女性単身世帯……56.2%
 65歳以上といえば、年金生活を送っているのが普通だが、現在の年金給付レベルでは女性が6割近く、男性も4割近い単独世帯が貧困に陥っているのが現実だ。実際に、家計調査年報の2016年度版によると、無職の高齢単身世帯の実収入の平均は月額で12万2000円、年換算で147万円となっている。
 一方、日本の貧困問題は高齢者にとどまらず、いまや全世代の問題になりつつある、というデータもある。
 たとえば、現在40代の可処分所得は60代のそれと同水準になりつつあると言われている。非正規雇用者の増加で40代の平均所得はここ20年で1割減少しており、厚生労働省の「厚生労働白書」や総務省統計局の「全国消費実態調査」などを総合すると、所得の減少傾向は深刻さを増している。
 詳細は省略するが可処分所得で考えると、いまや40代と60代の可処分所得はほぼ同じレベルになっており、30代と70代の可処分所得も近づきつつある。年々、可処分所得が減少し続ける現役世代に対して、豊かな貯蓄を背景に可処分所得を上回る消費支出がリタイア世帯にみられる。
 言い換えれば、今後日本はあらゆる世代の年齢層が貧困にあえぐ時代が来る、と言っても過言ではないのかもしれない。日本の貧困率の高さは、母子家庭と高齢者ばかりがクローズアップされているものの、その実態は「日本国民総貧困化」なのかもしれない。
 まさに「We are the 99%」をスローガンにした「ウォール街を占拠せよ」の抗議運動を象徴するかのような現実が、かつて総中流社会と呼ばれた日本でも、現実のものになりつつある、ということだろう。
 いまや99%に近づきつつある貧困層の問題を解決するには、シングルマザー世帯への救済や高齢者の労働環境整備などが必要になってくるだろう。
 貧困問題は、結局のところ格差社会の問題といえる。大企業、高学歴重視の政策がいずれは社会を混乱させてしまう。貧困問題の解決は、政府が緊急に直面すべき問題なのかもしれない。
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2019年08月30日

親から子へ、子から孫へ

 B 貧困の連鎖
 貧困問題の深刻さは、親から子へ、子から孫へという具合に世代を超えて連鎖していく傾向があることだ。「貧困の連鎖」と呼ばれるものだが、親の経済的困窮が子どもの教育環境や進学状況に大きな影響を及ぼすため、貧困は連鎖しやすい。
 大学既卒者の割合が50%を超え大卒が標準化した現在、大学に行けない世代が生涯賃金などで大きな遅れを取り、結果的に貧困の連鎖につながっている。むろん、業界や企業規模による賃金格差も大きいが、日本は依然として学歴偏重社会と言っていい。
 こうした現実をきちんと把握して対策をとる必要がある。大学進学のために多額の借金を抱えてしまう現在の奨学金制度では、抜本的な改革にはならない。むしろ大学卒業後の行動範囲を狭めてしまう。
 C 累進課税の歪み
 日本の累進課税制度は、一見公平なように見えるが、最も所得の高い勤労世帯と高齢者で所得の低い層とが同じレベルの「税負担率」になっている。税負担率が同じでも、収入が多ければそれだけ家計に及ぼす税負担は軽く済む。低所得の高齢者と金持ちの勤労世帯の税負担率が同じレベルでは、税の累進性は機能していないのと一緒だ。
 今後、消費税率が上昇していくことになるはずだが、母子家庭で貧困にあえぐシングルマザーにとっては消費税だけでも高い税負担になる可能性がある。累進税制をきちんと機能させる税制にシフトすることが早急に求められるわけだ。
 安倍政権が進める働き方改革によって、同一労働同一賃金が実現する可能性が出てきたが、本当にきちんと機能するのか疑問もある。子育てと仕事を両立させるためには、これまでの価値観やルールに縛られていては前に進まない。
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2019年08月29日

1人親世帯の貧困率50.8%!

 貧困問題で注目すべきは2つある。1つは、1人親世帯の貧困率の高さだ。さまざまなメディアでも取り上げられているが、生活保護水準の所得に届かない低所得にあえぐ現状がある。
 もう1つの問題が、高齢者の貧困問題だ。母子家庭の貧困問題が喫緊の課題というなら、高齢者の貧困問題は将来の課題といえる。人口減少、高齢化などによって、政府や年金機構、健保組合などが、現在の給付水準を維持できなくなる可能性が高まっている。
 年金制度の崩壊などによって人口の3分の1を占める高齢者の半数が貧困に陥る可能性もある。人口減少への対応を含めて、早急に考える必要があるだろう。
 いずれにしても、子供の貧困問題は将来の日本に大きな影響をもたらす。7人に1人と言われる子供の貧困問題は教育機会の喪失につながり、将来的に大きな損失になる、と言っていい。どんな背景と原因があるのか。
 ➀ 労働環境の未整備
 子供が貧困にあえぐ最大の原因は、言うまでもなく親の収入の低さである。1人親世帯の貧困率が50%を超えていることでも、それは明白だ。実際に、母子世帯の非正規社員比率は57.0%(2012年、出所:厚生労働省「ひとり親家庭等の現状について」)、父子世帯12.9%と比較しても、その差は歴然だ。
 日本特有の「ワーキングプア」と呼ばれる労働環境の悪さが背景にある。日本では、母親が1人で子育てに奔走しながら仕事を続ける場合、まず正規社員では雇ってもらえない。パートタイマーやアルバイトによって生計を維持していく必要があり、収入はどんなに働いてもたかが知れている。
 シングルマザーに対して冷たい企業が多く、子供がいても正規社員に採用されている人の割合は4割を超えてはいるが、57%が非正規雇用のままだ。保育園や学校などの煩雑な用事にとらわれ、正規社員のようなフルタイムの仕事はなかなかできない。結局のところ、正規社員と非正規社員の賃金の差が、母子家庭の貧困という形になって表れていると言っていいだろう。
 母親がどんなに優秀であっても、働く機会を平等に与えない。それが現在の日本企業の問題と言っていい。
 ➁ 公的支援の怠慢
 OECDの発表によると、GDPに占める教育機関への公的支援の割合は、33ヵ国中日本がワースト2位となっている。貧困にあえぐ子供に対する政府支援が十分でないことを物語る数字だ。最後のセーフティネットとも言われる「生活保護制度」も、過剰な財政赤字のせいで圧迫され、簡単には受け入れられない現実がある。
 母子世帯の生活保護制度による「生活扶助費」は、家族構成や地域によっても異なるが月額13万〜14万円程度。貧困層の1人親世帯の所得は年間122万円、月額10万円ちょっとよりもずっと多い。だったら、貧困層に属する1人親世帯は全員が生活保護を受けたほうがいいと考えがちだが、そう簡単には生活保護が受けられない仕組みになっている。
 子供食堂といったその場しのぎの方法では、いまや抜本的な解決にはなっていない。非正規社員の低所得にあえぐ母子家庭に対して、いますぐ公的な支援が必要になると考えていいだろう。
 母子世帯は、約123万8000世帯(「1人親家庭等の現状について」より)。そのうちの半数が貧困層とすれば62万世帯。母と子で少なくとも120万人が貧困と戦っている。
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2019年08月28日

貧困はもっと深刻?

 貧困率というデータは、厚生労働省の「国民生活基礎調査」として公表されている。日本の貧困率の最新値は15.6%(相対的貧困率、2015年、熊本県を除く、以下同)。 前回調査の2012年の16.1%に対してわずかだが改善している。
 一方、17歳以下の子供を対象とした「子どもの貧困率」は2015年で13.9%。こちらも2012年の16.3%よりも大きく改善している。それでも7人に1人の子供が貧困に陥っている状況だ。1人親世帯(子供がいる現役世代のうちの大人が1人の世帯)の貧困率も54.6%(2012年)から50.8%(2015年)と改善しているものの半数は超えている。
 日本の貧困率の高さは国際的に見ると、米国(16.8%、2015年、資料OECD、以下同)に次いでG7中ワースト2位。さらに、1人親世帯ではOECD加盟国35カ国中ワースト1位になっている。
 貧困率は、収入などから税金や社会保障費などを引いた「等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯員数の平方根で割った数値)」の中央値の半分未満しかない人の割合のこと。等価可処分所得(以下、可処分所得)の中央値は、年間245万円(2015年)。つまり年間122万円未満の可処分所得しかない世帯を相対的貧困層、その割合を貧困率というわけだ。
 年間122万円といえば、月額にして10万円ちょっと。アベノミクスが始まって以来、デフレ脱却はしていないと言いながらもスーパーの食料品などが以前に比べて高くなったことは事実だ。デフレが続いているとはいえ、月額10万円の生活がどんなに苦しいものかはよくわかる。
 ちなみに、貧困率を決める可処分所得の中央値は、ここ数年245万円程度で推移しているが、20年前の1997年には297万円だった。つまりこの20年の間に 可処分所得の中央値が52万円も下がっているということになる。52万円といえば、月額にして約4万3000円。日本が、この間「失われた20年」と呼ばれた経済低迷期であったことが、こんな数字からもわかる。
 実際に、同調査の「貯蓄」についてみると「貯蓄がない世帯」が全体で14.9%。母子世帯に限ってみると37.6%に増える。「生活が苦しい」と答えた人は全体で56.5%、母子世帯では実に82.7%が「生活が苦しい」と答えている
 OECD の「学習到達度調査 PISA 2015」では、勉強机や自室、参考書、コンピュータの保有率など13の学用品を国際比較したデータを出している。13個のうち保有数が5個に満たない生徒を「貧困」とみなす仕組みで、日本の貧困生徒の割合は5.2%。やはり、先進国(G7)の中では最も高いレベルに達している。
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2019年08月27日

生活保護で実質「年収400万円」 これでは働く気になれない?

 吉本芸人の問題発覚でクローズアップされた生活保護については、ネット上などで、さまざまな抜け道の情報が流布されている。一部の若者らには「ナマポ」の隠語で呼ばれ、もらえるものはもらえばいいといった意識も強くなっているようだ。
 「生活保護」に加え、「裏マニュアル」「裏技」などのワードで検索すると、ネット上では、怪しげな情報がたくさん出てくる。
 その多くが、福祉事務所の目をいかにすり抜けるかに重点が置かれている。例えば、医者の診断書をもらうことだ。診断書がもらいやすい、商売気のあるゆるい個人病院を探し、うつ病や腰痛などと訴え続けて書いてもらうことが勧めてある。
 また、役所の管理職を押さえてしまったり、大きい声を出せる友人を同席させたりすることを呼びかけるサイトもあった。福祉事務所が年齢の若さを理由に断ろうとしたら、法的な根拠を示すように圧力をかければいいなどとも書かれている。
 高齢化や不況などの影響もあって、生活保護受給者は、過去最多の200万人を突破した。特に、15〜64歳の働ける世代の受給は、全体から見ると少ないが、5年前の11万世帯から23万世帯へと倍増しているのが目立つ。
 不正受給が発覚したのは0.4%で、マンパワー不足や調査権限の欠如による限界を指摘する声も強い。不正の例として、離婚を偽装するなど悪質化の傾向も言われているようだ。
「ナマポ」などと呼ばれ関心が強いのは、働いたり年金をもらったりするより、収入が多いと見られているからだ。
 厚労省の保護課によると、東京都区部では、33歳、29歳、4歳の3人世帯で、生活扶助が17万円余、住宅扶助が6万円余(上限)が支給される。このほかに葬祭、教育など全部で8種類の扶助があり、場合によっては、母子加算なども付く。しかも、医療費、介護費、住民税、国民年金料、NHK受信料が無料だ。
 都区部なら、住宅扶助の額も高く、母子加算もあるとすると、月に26万円余になるとする。離婚したようにみせかけて不正受給したという横浜市の家族は、様々な扶助を含めるなどすると、働かないのに年収が400万円ほどに達したというのだ。
 ヤフーニュースのコメント欄上位は、生活保護のあり方への疑問が占めた。「生活保護の審査をもっと厳しろ。年金より生活保護のほうが裕福なんて矛盾している。今のままだと税金や年金なんて払いたくない」「保護費の返還だけ?。免除になっていた医療費・介護保険料、その他は…」といった声だ。
 厚生省では、生活保護支給額の引き下げを検討。ただ、それだけだと本当に必要な受給者が困るとの指摘が出ている。政府は、調査権限の強化なども含めた抜本的な対策を行うことを表明している。だが、…。
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2019年08月26日

国連での振る舞い方は町内会のゴミルールから理解できる

 わかりやすい例として、ゴミに関する町内会のルールを考えてみよう。
「ゴミを収集所に出すのは午前7時以後」といったルールは、7時より前に家を出なくてはならない会社員を、しばしば困惑させる。そのようなルールがすでにあると知らずに賃貸住宅に転居してきて、風紀委員のようなご近所さんに厳しくチェックされて不快な思いをしても、多額の初期費用をすぐに用意して転居するわけにはいかない場合が多いだろう。ルールを変えたいと思っても、賃貸住宅の入居者は町内会員にしない町内会もある。参入できたとしても、多数決で敗北する可能性が高い。すると、不平不満を抱えながら次の転居の機会を待つしかない。
 しかし、同じルールの作成に自分自身を含む多様な人々が加わっているとすれば、状況はまったく異なる。「午前7時」という時刻は、望ましい到達目標や当面の落とし所として決められるだろう。人により家庭により、事情がそれぞれ異なることは承知の上で定められるルールに対して、「厳守!」と叫ぶ声は上がりにくい。
 とはいえ、「守らなくてもよいルール」というわけではない。「午前7時」という時刻は、カラスなどによる被害を最小限に食い止めるために定められたはずだ。「午前6時40分が許されるのなら、午前6時30分でも大して変わらないはず。大して変わらない10分を積み上げていけば、前の晩の午後7時でも大丈夫」というわけにはいかない。「午前7時」はゴミ収集車の来る時刻、カラスの活動状況、「みんな」の都合などの要因を考慮して一応決めたラインだ。「みんな」がおおむね守れば、「みんな」が幸せになれるはずだ。
 国連という「国際町内会」には、条約・規約など数多くのルールがある。それらは、トップダウンで勝手に決められたルールではなく、国際「ご町内」のみんな、各国政府・各国NGOなど多数の参加で、時間をかけて決められている。また、それらのルールを取り入れるかどうかは、各国に任せられている。あるルールを受け入れるにあたって、強制力の内容や程度を選択できる場合もある。
 そもそも、「国際町内会」への参加のあり方が国ごとに異なる。「とりあえず加盟だけ」から「費用をたっぷり拠出し、条約をたくさん締結し、前提となる国内法も整備して」までのバリエーションがある。しかし「とりあえず加盟だけ」でも、1948年に定められた「世界人権宣言」に従う約束はすることになる。
 世界人権宣言には、以下のように書かれている(下線部は筆者による)。
「基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認」
「一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意」
「加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約」
「権利および自由に対する共通の理解は、この誓約を完全にするためにもっとも重要」
この対話は成長するチャンス 日本は世界の知恵を集められるか
 国連の特別報告者たちは、世界人権宣言、および日本が締結してきた国際人権規約、女性差別撤廃条約、子供の権利条約、障害者権利条約など多数の条約に基づいて、日本政府に対話を求めている。とはいえ日本は、各条約を「一応、守ります。実施状況の定期審査も受けます」という形で締結しているに過ぎない(例外は子供の権利条約の一部)。
 「やる気」がもう少しあれば、「ちゃんと守ります、違反したら、国民がそちらに通報してくれます」という形で、具体的には「選択議定書」を含めて締結するはずだが、そこまでの「やる気」は見せていない。だから日本は、無視を決め込むことができる。「内政干渉、激おこぷんぷん!」とブチ切れ、対話を拒否することもできる。
 しかし、この対話の機会を逃すのは、日本にとって「損」ではないだろうか。しかも、北朝鮮が対話に応じようとしている歴史的な時期なのだ。北朝鮮と比較して「日本って?」という印象を持たれたら、少なくとも国際社会で「得」はしないだろう。
 もちろん、「わかってます」「やってます」だけであれば、特別報告者たちの鋭いツッコミや調査の前にタジタジするだけだ。しかし、「すみません、わかってませんでした」「申し訳ない、できてませんでした」と認め、どうすれば「わかっている」「できている」に近づけるのか、アドバイスを受けることもできる。
 国家財政の事情を含め、日本の数多くの「わが町の事情」をどのように扱えば、国家の破綻を起こさずに社会保障を充実させられるのか、世界の知恵を集めて解決に向かうこともできるだろう。
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2019年08月25日

「生活保護法改正、待った!」  国連特別報告者リリースの中身

 国連のプレスリリースは、英語版・日本語版ともコンパクトにまとめられており、日本語訳は全文で約1100文字という短さだ。それをさらに要約すると、以下のようになる。
(1)今年10月から実施予定の生活扶助費の段階的な引き下げは見直しを。貧困層、特に障害者、一人親世帯、また高齢者の最低限の社会保障を脅かしてはいけない。
(2)日本のような豊かな先進国で、貧困層が尊厳を持って生きる権利を、意図的に踏みにじっていいのか。
(3)緊縮政策が必要なのはわかりますが、差別撤廃も、基本的な社会的保護の保証も、やめてはいけない。
(4)日本の生活保護基準の決定方式、低所得層と生活保護受給者の消費を比べるという方法は、おかしいのではないか。欠陥のありそうな方法で、貧困に陥る人々を増やしていいいのか。
(5)生活保護法の改正については、ちょっと待て。
 一見した印象では、「ここまでツッコミが入るとは」だった。問題があることは以前から理解されているとはいえ、非常に詳細な理解に基づき本質をえぐった今回のコメントには、正直なところ驚いた。生活保護受給者の暮らしを深く知る開業医は、「一読して、感動のあまり身体が震えた」と語った。社会運動家の結城翼氏らも、このプレスリリースに関する記事を直後に発表している。
 しかし、特別報告者たちの申し入れは、あくまで「この件で日本政府と対話したい」という希望にとどまっている。強権をもって「応答せよ」と迫れるわけではないからだ。このまま日本政府が無視を続けたり、あるいは拒否したりすれば、「マナー違反」として呆れられるかもしれない。しかし、「そんな態度なら日本に何らかのお仕置きを」という成り行きは考えられない。少なくとも、 道路交通法違反と同レベルでの「ルール違反」 ではない。しかしだからと言って、「このまま無反応で構わない」というわけでもない。
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2019年08月24日

生活保護法再改正の「ワナとムチ」 国際社会も警鐘を鳴らす内容に

 2018年6月1日、生活保護法再改正が参院本会議で可決され、成立した。「アメとムチ」ならぬ「ワナとムチ」のような法律だ。「大学進学支援」という極めて少量の「アメ」が薄く引き延ばされて表面を覆っているかのように見えるが、24金で薄くコーティングした鉛の球を「24金の球」と呼ぶ人はいないだろう。
 直前の5月24日、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)はプレスリリースを発表し、日本政府に対話を申し入れた。プレスリリースは、極度の貧困と人権の特別報告者、対外債務と人権の独立専門家、障害者の権利の特別報告者、高齢者の人権の独立専門家の連名となっており、国際社会に重く受け止められていることがわかる。しかし、日本政府は応答していない。外務省に送られたプレスリリースは、現在のところ完全に無視された格好となっている。
 この特別報告者プレスリリースを通じて、日本の生活保護が国際社会の中でどのような役割を担っているのかを概観したい。
 なお、国連特別報告者は国連そのものではないが、国連の看板を背負って調査などの活動を行う専門家たち、「ほぼ国連」だ。意見の相違もあれば、一時的な勘違いもあるが、最初から正解を持っているわけではない。むろん、何らかの正解を押し付けるために活動しているわけでもない。活動目的を一言でまとめれば、「いつでもどこでも誰にでも、人権が守られているように」ということだ。人権はその個人にとっても重要だが、さらに世界規模の重要性を持っている。
 社会保障、特に公的扶助は、世界の発展と安定に対して非常に重要な役割を担っており、先進国には牽引が期待される。難民問題は戦乱や紛争から生まれる。戦乱や紛争は社会の不安定さから生まれる。
 社会を不安定にする大きな要因の1つは、貧困と格差だ。戦乱や紛争によって命からがら逃げ出すしかなかった人々は、近隣諸国の品性の問題として、待ったなしで救済しなくてはならない。しかし、「なんでウチがやらなきゃいけないんだ」というホンネの不平不満は避けられない。
 難民問題を含め根本的な対策は、各国単位でも地域単位でも世界単位でも「近所迷惑」「ご町内の迷惑」の発生を抑えることに尽きる。国連を「国際町内会」と考えれば、納得しやすいだろう。「その町内会はイヤだから、別の地球をつくって移住したい」と望んでも、現在のところは実現不可能だ。
 日本の公的扶助はほぼ生活保護だけである。「それしかない」という状況も問題なのだが、ともあれ生活保護は法律としても保護費としても、「扶ける」「助ける」の2つの「たすける」を組み合わせた「扶助」の名に値する必要がある。今回の国連特別報告者たちによるプレスリリースは、「日本のそのワナとムチ(極薄アメコーティング)、削減される一方の生活保護費は、『公的扶助』なのですか」という問いかけでもある。
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2019年08月23日

セーフティネットを焼野原に

 わたしたちがモラルパニックに心を奪われること自体が、ここ数十年の社会環境の変化に伴う生存条件の悪化を表している。わたしたちが本来やるべきことは、そんな荒廃した寄る辺ない世界を少しでも改善する試みしかないはずである。
 わたしたちが自分たちの不安な身の上を直視することを避け、特定の階層や人物を問題の根本原因であるかのように叩き続ける限り、その炎上騒動のどさくさに紛れて国家は火事場泥棒的な政策を推し進め、自他のセーフティネットを文字通り焼野原にしてしまうだろう。
 最悪の場合、わたしたちを待ち受けているのは、信頼できる仲間が1人もおらず、社会保障もほとんどない暗黒の未来である。
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2019年08月22日

世間体≠ニいう「見えない宗教」

 わたしたちが、生活保護の不正受給のような些末な事象を針小棒大に騒ぎ立てるのは、ヤングのいう2つのカオスに恒常的にさらされ不満や欠乏の感情が増大する中で、「かれら」が「自己犠牲として経験される労働」と「消費者の地位を脅かす金銭的不安」から免除されていると見なすからではないか。
 つまり、特権的なポジションを付与されていると早合点するがゆえに、それに見合う行動の制限とスティグマ(恥辱、汚名)を要求するのである。
 これは、いわばマジョリティとなった社会的つながりの希薄な個人が、自分自身が強いられている規範意識を基準点にするような形で、公的支援を受ける者の道徳的妥当性を吟味するといった、「個人による個人監視」に血道を上げる異様な世界である。
 別言すれば、世間体≠ニいう「見えない宗教」を中心教義に据える「宗教警察」のごとき振る舞いといえる。
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2019年08月21日

「ゲスの勘繰り」の昂進

 残念ながら中間層を自任する人々といわゆる貧困層とされる人々の間に明確なライフスタイルの差はなくなりつつある。
 仕事も家族も不安定化する一方で、コミュニティの衰退は必至であり、消費を通じた自己実現とオンラインの世界への依存が強まっている。
 その文化的な志向性にさほど大きな違いはない。要するに、欲望のレベルで「似たもの同士」であること、表面上の差異が分かりにくいことが、かえって「ゲスの勘繰り」を昂進させることになり、貧困層に対する反発や違和感をもたらすのだ。
 相対的貧困への無理解がまさにそうだ。
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2019年08月20日

「正常ではない」者にカテゴライズ

 振り返ると、平成の30年間はこの2つのカオスが社会の隅々に浸透した時代であった。
 日々やせ我慢をして自己抑制が求められる「過剰同調社会」の住人であるわたしたちは、憲法で保障される生存権の意義や世界的に低い生活保護の捕捉率を理解する以前に、「働かずに給付を得る怠惰な連中」と決め付け、「正常ではない」者にカテゴライズすることで、自分自身のライフスタイルを型にはめている価値体系を守ろうとするのだ。
ヤングは次のように指摘する。
 『彼らと我らという二項対立をかき立てることで、アンダークラスは容易にアイデンティティを確立する拠点になる。そこでは「我ら」とは、正常で、勤勉で、きちんとした存在であり、「彼ら」はこうした本質的資質が欠如した存在である。このような本質主義こそがアンダークラスを同質的でわかりやすく、機能不全な実体として構成し、それを悪魔化する』
 これを日本の状況に置き換えると、(国家の隠された欲求である)「福祉の切り捨て」と(国民の隠された欲求である)「われらの優位性」が一致する危険な地点となるのである。
 つまり、公的扶助が適正に機能することよりも、自尊感情の手当てが優先されるのだ。
 2016年、NHKニュース7で取り上げられた経済的な貧困で進学を断念した高校3年生の女子生徒をめぐり、ネットで炎上が起こったことにそれが如実に表れている。
 本人のTwitterを探し当てた者が人気マンガのグッズを購入したり、1000円以上のランチを食べることを批判し始めたのだ。
 つまり、そこには「アンダークラスは最低限の衣食住以外の出費をするな」という清貧的なライフスタイルの強制を求める主張が根幹にあったのではないか。
posted by GHQ/HOGO at 05:15| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月19日

「パチンコにつぎ込む中年男性」

 多種多様なバックグラウンドを持つ生活保護受給者に対して単一の偏ったイメージが押し付けられることが、重要なのである。テレビは「パチンコにつぎ込む中年男性」などのステレオタイプ化された受給者像を喧伝し、「制度の問題」ではなく「人の問題」にすり替えて矯正の必要性をほのめかした。片山さつきなどの政治家の言説とテレビの報道姿勢の足並みがそろうのは決して偶然ではない。
 現実としてわずか3%に満たない不正に憤っているというよりかは、ある思想家が「貧困であることは、ますます犯罪とみなされる」と評したように、「生活保護受給者そのものが不正の温床」に感じられるのである。
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2019年08月18日

「損得勘定」に異常なほど敏感

 わたしたちがまず確認しておかなければならないのは、わたしたちが置かれている経済的または心理的な状況だ。先進国の多くで国民が「損得勘定」に異常なほど敏感になっており、富裕層や貧困層などの階層をターゲットに怒りを爆発させることが日常茶飯事になっている。
 これは「自分のライフスタイル」と「他人のライフスタイル」を比較することが大きな関心事となり、そのずれに不満や欠乏の感情を抱きやすくなっているからだ。しかも、比較の対象範囲は上下左右を問わず全方位に拡大している。
 社会学者のジョック・ヤングはこのことについて、「報酬のカオス」と「アイデンティティのカオス」が背景にあると説明する。報酬が個人の能力に応じて公正に配分されているという原則が侵害されることが「報酬のカオス」であり、アイデンティティと社会的価値を保持している感覚が他者に尊重されることが危うくなることが「アイデンティティのカオス」である。この2つのカオスにわたしたちは直面しているという。
 勤勉な大多数の市民は、報酬が支離滅裂な方法で配分されている気配を察知している。こうした報酬配分があまりにも広がったために、社会全体の道理がかなっているとの了解するのは困難である。このような報酬のカオスに対する怒りの矛先は、階級構造の最上部の大金持ちか最底辺層に、つまり労働の対価が明らかに多すぎる人と、働かずに報酬を得ている人に向けられる傾向がある。言い換えれば、あからさまに能力主義の原理を攪乱する者たち、すなわち大金持ちとアンダークラスに敵意が集中するのである。【ジョック・ヤング『後期近代の眩暈―排除から過剰包摂へ』(青土社)】
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2019年08月17日

「生活保護バッシング」繰り返される理由「ゲスの勘繰り」行き着く先は……

 ネット上の「生活保護バッシング」は、なぜ繰り返されるのか。平成は「個人による個人監視」という異様な世界を生み出した。2012年、あるお笑い芸人の母親が生活保護を受けていることが発端となり、国会議員を巻き込む騒動となった。その後もやまないバッシングの連鎖。「ゲスの勘繰り」が行き着く先とは……。
「誰かが得をしている」=「自分が損をしている」という短絡的な思考で、特定の他者に敵意を向ける感受性が今ほど先鋭化している時代はないのではないか。昭和の終わり頃にすでに種がまかれていたとはいえ、数多の「炎上」を引き起こす不安の芽は、平成に入って社会全体を覆い尽くすほどに成長した。
 2012年にある週刊誌の記事がきっかけとなって、お笑い芸人の河本準一の母親が生活保護受給者であることが報じられ、参議院議員の片山さつきが不正受給疑惑の問題へと発展させた。これが呼び水となり、ネットではソーシャルメディアなどで河本個人に対する攻撃的な言動を行なうユーザーが拡大し、テレビを中心に「誤報」を交えた扇情的な報道がなされたことも手伝って、「生活保護バッシング」と称されるものが吹き荒れることになった。以後、生活保護にまつわる問題は、ガソリン級の炎上を誘発しやすい、燃焼性の高い案件として現在に至っている。
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2019年08月16日

生活保護の「最低限度の生活」とは?

 ここ日本は、資本主義経済の一員。計画経済を行っている国とは違う。一定のルールの下、自由に商売をすることができる。ただ、そのまま放置しておくと、富める者とそうでない者との格差は、どんどん広がっていく。また、何かの拍子に、病気やトラブルなどにあって、突如生活に困窮することもあるだろう。
 そこで憲法第25条第1項では、
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
 と規定している。ただし、この規定は、国の責務を宣言したにとどまる。だから、具体的権利として、「生活保護法」が別途作られており、このことで権利として主張することができる。
 ところで憲法は、終戦後GHQがつくったため、生まれながらにして英文がある。 例えば今回の憲法25条の場合は、
  「All people shall have the right to maintain the minimum standards of wholesome and cultured living.」
  「すべての人々には、健康的で文化的生活の最低水準を維持する権利がある」
 さて、ここで問題となってくるのが、生活保護の基準となる「健康で文化的な最低限度の生活」というもの…。 実はこれには有名な「朝日訴訟」というものがある。 朝日茂氏が、兄からちょっとした日用品の仕送りを受けたら、生活扶助の保護が打ち切られたため、争ったものだ。最高裁大法廷は傍論で、生活保護基準の考え方を下記の通り示した。
 『健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的な相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴って向上するのはもとより、多数の不確定的要素を綜合考量してはじめて決定できるものである。
 したがって、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的的な裁量に委されており、その判断は、当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあっても、直ちに違法の問題を生ずることはない。ただ、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨 目的に反し、法律によって与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合には、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない』
 つまり、「最低限度の生活」の判断は、国に広い裁量権の余地があるということだ。
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2019年08月15日

政治の不在が貧困を生み出す

 安倍総理も麻生財務大臣も、黒田日銀総裁も誰も口にしないし、口にしてはならないのだが、金融緩和から需要創出に結びつくと「見込まれる」ルートは、「円安により、日本の実質輸出が増える」だったはずなのだ。無論、日本のような大国が、「円の為替レートを引き下げるために、量的緩和を拡大する」などと、エゴイスティックな政策をやるわけにはいかない。あるいは、やっていることを認めてはならないのだ。
 金融政策拡大の目的は、あくまで「デフレ脱却」であり、結果的に円安になったとしても、それは「副次的な効果」に過ぎないというスタイルだったわけだ。
 2013年春以降、大幅に円安が進んだわけだが、日本政府や日銀は「為替レート引き下げのためにやっているのではない。デフレ脱却が目的で量的緩和を拡大している」と、説明していたわけだ。問題は、円安になった結果、需要が増えたのか、という点になる。
 円安は外国でドルなどの外貨を稼ぐ大企業の「日本円建ての収益」の見た目を押し上げる。とはいえ、これは一度限りの効果なのだ。為替レートを引き下げることの最大の目的は、もちろん外貨建てで日本製品・サービスの価格を押し下げ、価格競争力を向上させ、外国企業との競合に勝つこと。日本企業が円安で外国におけるモノやサービスの販売を増やせば、これは「純輸出の増加」ということで、日本の需要(=GDP)が増える。
 日本の実質輸出は、これほどまでに円安が進んだにも関わらず、いまだにリーマンショック前はもちろんのこと、東日本大震災前をも下回っている。そもそも、「円安になれば、輸出が増える」とは、セイの法則に基づいた単純論なのである。すなわち、世界的に「需要が拡大している」という前提になっているわけだ。
 現在は、世界的に貿易総量が減少している。世界的に需要が拡大していない時期には、「円安になれば、輸出が増える」といった単純論は、少なくともマクロ的には成り立たない。
 安倍政権は、金融緩和を進めると同時に、国内の需要を財政政策で拡大し、輸出入の影響が小さい頑健な日本経済を目指すべきだった。ところが、実際にはデフレ対策については日銀に丸投げし、政府は緊縮財政。需要創出は「期待インフレ」だの「円安による輸出増」など、例の「はず論」頼みとなり、デフレ脱却に失敗した。
 それどころか、中国やユーロの混乱で輸出が「多少」減っただけで、二期連続のマイナス成長が視界に入ってくるほどに、日本経済を脆弱化させてしまった。恐ろしいのは、それにも関わらずいまだに補正予算の議論は始まらず、インフレ目標未達や2年連続のリセッション入りの責任を誰も取ろうとしない点なのだ。現在の日本は、完全に政治不在に陥っている。そして、この政治不在こそが、国民を貧困化させている元凶であるという事実を、いい加減に誰もが理解するべきなのだ。
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2019年08月14日

伝統的家族主義では説明できない運命共同体というフィクションを被せられ、より一層強い衝迫の源泉となる家族

 最後のセーフティネット役割を負わされた家族が、その現実態ではもはや「安全でいられる場」としての役割を果たしにくくなっているがゆえに、運命共同体というフィクションを被せられた家族像が、「そうでなければならない現実」のように思いなされているのではないか。
 自民党家庭支援法案のように右翼的な家族主義を家族像の範型とする政策がこれに無縁でないのはもちろんだが、頑強な信念といってよいほど強力な運命共同体家族の像に現れた家族主義は、伝統的家族主義の枠組みだけでは説明できないように感じる。
 社会的次元を切り落とされた個体の位置に家族がおかれる構図は新自由主義的であり、有責の構造上に家族が立たされることもそうである。運命共同体がフィクションであることは、そういう場に立たされた家族関係が瓦解するというリアルな結果によって実証される。運命共同体であるなどと信じられないからこそ、そうした不安定さの実存が家族紐帯の強度を求める、より一層強い衝迫の源泉となる――このメカニズムを解くことによって、今日の家族主義に特有のすがたが浮かび上がるのではないだろうか。
 成人式の晴れ着のように、一生に一度のイベントを用意することは親、家族の務めとなり、不運な(と認定された)事態でこれが叶わなかった者にはさまざまに支援の手が差しのべられる。卒業式、成人式の晴れ着も入学時のランドセルも、家庭の事情で最初から用意できない者には、それでは、どのような手が差しのべられているか。
 新自由主義的な社会体制・秩序とそこから生い育つ感覚とによって抑えつけられ逼塞している心情は何か、それを明るみに出してゆくやり方はどんなものか――目を向け社会的注意を払うべきは、「福祉国家的エートス」の居所を探り当てようとする多様な試みと努力ではないだろうか。
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2019年08月12日

家族を一体化させた家庭責任の追求、家族の「落ち度」への集中的攻撃

 個体化させた個人を有責の構造上におくバッシングについてだが、個人の「落ち度」に対する集中的攻撃は、家族にも及ぶことが当たり前となり、家族関係を危機にさらし崩壊に導く事例がつたえられている。
 社会的引きこもりやニートにかんする理解でも、家庭環境や親の養育に責任があるとする回答が各種調査で多数を占める。個人責任というより家族を一体化させた家庭責任を追求する意識がきわだって強いように思われる。
 この傾向が歴史的に亢進させられてきたかどうかは検証を要するが、あたかも家族紐帯を運命共同体であるかように考え扱う社会感情が想像以上に強力になっていることは、おそらく事実と言えよう。
 これは少なくとも家族紐帯だけは社会紐帯の内で壊せぬ絆とみなされていることを意味するのだろうか。
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売買契約に伴うトラブルについて

 ペットショップなどが説明した情報の提供を受けて、ペットを購入することとなった場合、ペット販売業者との間で、売買契約を締結することとなる(なお、法律上、売買契約は、口頭でも成立するが、後々のトラブルを避けるためにも、契約書を作成しておくのが望ましい)。
 このとき、購入したペットが先天性の病気に罹患していたり、障害を有していたなどの何らかのトラブルが発生した場合、買主としては、ペット販売業者に対して、@ペットを返還するとともに、売買代金を返金してもらう、A買主に生じた損害(上記の例でいえば、病気の治療のための治療費や介護費等が考えられる)の損害賠償を請求するなどの対応を取ることが考えられる。
 そして、まず、@ペットを返還するとともに、売買代金の返金を求めるためには、買主としては、契約の効力を否定する旨の主張を展開していくこととなるが、その具体的な根拠としては、錯誤を理由とする無効(民法第95条)、詐欺を理由とする取消(民法第96条)、債務不履行又は瑕疵担保責任に基づく契約解除(民法第541条、第570条)、消費者契約法に基づく取消(4条1項1号)などが考えられる。
 このうち、消費者契約法に基づく取消については、販売業者が、契約締結に際して、重要事項(ペットが病気に罹患しているか、障害を有しているかといった点は、当然、重要事項に当たると思われる)について事実と異なることを告げたことにより、買主が販売業者の説明した事実が真実であると誤認した場合に、売買契約を取り消すことができるというものだが、ペットの売買契約においては、ペットの病歴等についての情報を提供する義務が課されているので(法施行規則第8条の2第2項第16号・第17号)、ペットの購入後に、先天性の病気に罹患していたり、障害を有しているなどの事情が発覚した場合には、消費者契約法に基づく取消しが認められる余地は十分あると思われる。
 他方で、Aペット販売業者に対する損害賠償責任を追及する場合には、債務不履行責任又は瑕疵担保責任を根拠に、買主に生じた損害の賠償を求めていくこととなる(民法第415条、第570条:566条)。
 なお、この点については、従来、問題となったペットの売買契約が特定物売買か不特定物売買かという整理の下で論じられてきたところなので、簡単に付言しておく(もっとも、これらの議論については、今般の債権法改正により整理されるところであり、かつ、専門的な内容となるので、読み飛ばしていただいて問題ない)。
 つまり、従前の民法の解釈においては、売買契約の対象となったペットが特定物であるか(すなわち、買主が、「この豆柴がほしい」というように、特定の個体を購入することを希望していたか)、不特定物であるか(すなわち、買主が、「雄の豆柴がほしい」というように、特定の個体ではなく、ある種類のペットを購入することを希望していたか)によって、ペット販売業者に対する請求の根拠やその内容が異なるという解釈が採られてた。そして、前者の特定物売買の場合には、買主は、瑕疵担保責任に基づいて、契約解除または信頼利益の損害賠償を求めることができるにとどまり、後者の不特定物売買の場合には、買主は、債務不履行を根拠として契約解除又は履行利益の損害賠償を求めることができると解されていた。
 しかしながら、平成29年5月6日に成立し、令和2年(2020年)4月1日から施行される改正民法においては、上述の瑕疵担保責任について、売主が契約の目的に適合しないものを引き渡したときは、買主は、契約不適合責任として、目的物の修補や代替物の引き渡しなどの履行の追完の請求、損害賠償請求、契約解除、代金減額請求ができるという規定に整理され(新民法第562条〜第564条)、売買契約の目的物が特定物か不特定物かにかかわらず、履行の追完の請求等ができることになった。
 また、債務不履行責任についても、売買契約の目的物が特定物か不特定物かにかかわらず、販売業者が債務の本旨に従った履行をしないときには、それによって生じた損害の賠償を請求することができることになった(新民法第415条1項、第564条)。
 したがって、新民法の施行後は、これらの新しい規定に基づいて、ペット販売業者に対する請求を行っていくことになる。
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2019年08月11日

徹底した社会的排除の状態におかれる若者たち

 そもそも福祉国家の制度価値が共有されるほど十分な制度枠組みと制度実践のない社会で「福祉国家的エートス」の涵養を問うことに無理があると言われれば、議論はそれで終わりである。
 しかし、福祉国家型の諸施策をふくめ、社会の連帯的なあり方を体制として構築しようとする運動は、それぞれの社会に特有の歴史的・社会的環境に培われた社会紐帯のポテンシャルを無視することはできず無視すべきでもない。
 たとえば、エミリア・ロマーニャ州を中心とするイタリアのスローフード(スローシティ)運動が反ファシズムの伝統を社会文化的に継承していたように、ある社会や地域に歴史的、社会的に堆積してきた種々の関係資源は、総じて、反新自由主義的な社会の構築に有用たりうる。
 正しく新自由主義的と呼ぶべき社会紐帯の切断(無縁社会化)の振る舞いを見逃さず、具体的に対処してゆく必要があるのはそのためだ。「死にたい」とつぶやく若者たち――それは本音ではないとの評言があるが、社会退出のアクティベーションとして十分にリアルで「実行可能」な望みである――のすがたは社会病理として語られるが、それは一面的に過ぎる。現実に起きているのは、推測するに100万人を優に超える若者たちが、現実的にも内面機制の上でも、徹底した社会的排除の状態におかれていることであり、膨大な「死にたい」つぶやきはそのリアルな反映に他ならない。
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ペット販売に対する規制―根拠法令

 ・動物の愛護及び管理に関する法律第21条の4
 「第一種動物取扱業者のうち犬、猫その他の環境省令で定める動物の販売を業として営む者は、当該動物を販売する場合には、あらかじめ、当該動物を購入しようとする者(第一種動物取扱業者を除く。)に対し、当該販売に係る動物の現在の状態を直接見せるとともに、対面(対面によることが困難な場合として環境省令で定める場合には、対面に相当する方法として環境省令で定めるものを含む。)により書面又は電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他人の知覚によつては認識することができない方式で作られる記録であつて、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう)を用いて当該動物の飼養又は保管の方法、生年月日、当該動物に係る繁殖を行つた者の氏名その他の適正な飼養又は保管のために必要な情報として環境省令で定めるものを提供しなければならない」
 そして、ペットの販売業者は、ペットの売買契約を締結するにあたっては、ペットの購入を希望する買主に対して、ペットの飼養または保管の方法、生年月日、ペットの繁殖を行った者の氏名(法第21条の4)や、性成熟時の体の大きさ、平均寿命、飼養施設の構造および規模、適切な給餌および給水の方法などの同法施行規則第8条の2第2項に定める情報を提供しなければならない。
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2019年08月10日

自立という観念自体を変質させる個別化された社会

 誰もが有責の存在として個別化される社会は平等にみえるが、実際には社会的弱者に著しく不利な社会である。人を互いに依存させず、制度に頼らせない自立を要求する社会は、自立的存在を富の私有によって生存に不可欠な諸資源を調達できる者だけに限定し、自立という観念自体を変質させる。そこに「福祉国家的エートス」など育ちようのないことは明白だろう。
 家庭の経済的事情で満足な学校生活が送れない子供に同情を寄せ、制度の支援を当然と感じる心性は、そうした場所におかれた子供や家庭それぞれの個別化された状況(「品行」「言動」…)を問題化する、多分に制度化されステロタイプ化された言説によって壊死させられていく。
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2019年08月09日

社会的次元を抹消した自己責任、「新自由主義的エートス」が貫かれた日本社会

 誰もが何らかの「欠陥」を露呈させた科でバッシングを浴びせられる社会は、「新自由主義的エートス」が貫かれた社会と言えるだろう。
 人が社会的存在であるかぎり、個人が抱えるさまざまな事情は必ず社会的広がりを持つ。
 にもかかわらず、ことがらが「失敗」や「不始末」、「不注意」、「不出来」等々の領域つまり社会的にマイナスと評価される結果であるとき、それらはもっぱら個人の落ち度とみなされ、問題の社会的次元は抹消される。
 自己責任という観念はそうした特異な有責の構造とこれを心情次元で支える個人(人間)観とを指す強力なイデオロギーである。
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2019年08月08日

社会的次元を抹消した自己責任、「新自由主義的エートス」が貫かれた日本社会

 誰もが何らかの「欠陥」を露呈させた科でバッシングを浴びせられる社会は、「新自由主義的エートス」が貫かれた社会と言えるだろう。
 人が社会的存在であるかぎり、個人が抱えるさまざまな事情は必ず社会的広がりを持つ。にもかかわらず、ことがらが「失敗」や「不始末」、「不注意」、「不出来」等々の領域つまり社会的にマイナスと評価される結果であるとき、それらはもっぱら個人の落ち度とみなされ、問題の社会的次元は抹消される。
 自己責任という観念はそうした特異な有責の構造とこれを心情次元で支える個人(人間)観とを指す強力なイデオロギーである。
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2019年08月07日

ルサンチマンでなく「中産階級以上のポジションと心情」「真実性を凌駕する真正性」によるバッシング

 現代における社会心理的反応は、バッシングの構造・動態、対象の差異等に応じてモラル・パニック、ルサンチマンといったカテゴリーで説明されてきた。この点には立ち入れないが、昨今の「大衆リンチ」状況をそれだけでは説明しきれぬように思う。福祉国家的諸制度の恩恵に与れない層が、そのルサンチマンからバッシングを向けるという図式は、制度の貧困・脆弱があきらかなゆえに納得してしまいそうだが、大勢としての事実に反する。「自分がしっかりしていれば制度に頼らずに何とかなるはず」という信念は、中産階級以上のポジションと心情の体系でこそ強固なのである。
 他者へのバッシングを正当な振る舞いとして許容できる社会心理的反応(スマホやPCで悪意ある投稿をしたことのある者はざっと4人に1人、投稿後の心理で一番多かった回答は、「気が済んだ、すっとした」31.9%、「やらなければよかったと後悔した」13.6%、「何も感じない」27.6%。独立行政法人情報処理推進機構「2014年度 情報セキュリティの倫理に対する意識調査」)は、何が適切で正しいかを真正性 authenticity という次元で解釈し了解する認知モデルが浸透した結果だと筆者は考えている。「私にとって正しいと思えること」の根拠を与える真正性は、「そう思う(信じる)私」の立場(居場所)を直接支える力を持ち、その意味で真実性を凌駕する。このメカニズムの詳しい検討もここではなし得ないが、気軽にバッシングを向けてしまえる相互的心性の領域がそうして開けたのである。
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2019年08月06日

真実性の次元に支えられた認知モデルの衰弱が広がる背景

 正しい認識を得る(真実性の次元)ことで何が問題かを知るという認知モデルが通用していない点に注意しよう。
 知る機会が保障されていない環境の問題を指摘すべきはもちろんである。良く考慮された啓発活動を制度化することで認知モデルを働きやすくすることも必要だろう。
 ただ、ここで考えたいのは、真実性の次元に支えられた認知モデルの衰弱という現象であり、そうした現象が広がる背景である。
 一度、「こんな不正受給が…」と伝えられるとあっという間にバッシングが広がる。生活保護のみならず、耳目に触れる事件が起きる度ごとに、いまでは見慣れた情景である。加害者としてであれ被害者としてであれ、メディアにつたえられた瞬間から、さらしと激しいバッシングとが集中する。その様は、「誤爆」を含む集団リンチの無法状態が現出しているといって過言ではない。
 ニュースの俎上に上されることがもう、当事者の欠陥(有罪)を証明しているかの如き取扱いである。逆に言えば、「美談」は徹底して美談でなければならず、それに疑問を呈するのは人非人の所業ということになる。
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2019年08月04日

福祉国家的な制度(国民皆保険、公教育の平等主義)への共有感覚の乏しさ


 日本の現状をみよう。まがりなりにも制度として定着してきた国民皆保険――もちろん、貧困化がもたらす無保険状態の存在を無視すべきではない――は、米国での医療保険の惨状を知った日本の人々が多少の誇りと感じても不思議ではない対象だろう。学校教育システムの平等主義的な設計もまた、その実態はともかく、階級的制度文化の桎梏から抜けきれないしくみや新自由主義的競争がスタンダードの教育体制に比し、好ましい制度的価値とみなされてよいはずである。
 だが、残念ながら、おもてなしの「美風」にたいする自画自賛はあっても、福祉国家的な制度の価値を認める共有感覚は乏しいように思う。当たり前の制度は当たり前であるがゆえに、「そういうものだ」と常識的にとらえられ、取り立てて賞揚すべき価値として意識されないのかもしれない。「公立小学校ならどこも同じようで、その何が大事なのか」というわけである。
 しかし、「そういうものだ」という感覚が真の意味でコモン・センスであるなら、たとえば公教育の平等主義を変質させ解体する制度改変にたいして鋭く反応し異議を発することも当然のはずである。ごく一部のエリート教育を非難するかどうかではない。もはや同じ高校、高校生とは言えぬほど進んだ格差教育とこれを正統化する政策・制度の進行が常識外れの、座視できない事態と受けとめられるかどうか――それが問題なのである。「福祉国家的エートス」と呼ぶのは、社会が共有すべき制度価値にたいするそのようなコモン・センスに他ならない。そう考えると、現代日本の「福祉国家的エートス」はあまりに脆弱なのではないか。それは一体なぜなのか。
 生活保護基準の切り下げ政策を扇動するかのように繰り返される生活保護バッシングが生活保護にかんするポピュラーな認知に少なからぬ影響を及ぼしてきたことは否めない。読む者の胸を悪くするような極論を吐くネット上の言説が多数でないのは無論であるし、むしろ炎上を意図してのそれらの暴言に多数の人々が乗せられてしまうわけでもない。しかし、それでも、生活保護という言葉を聞いて最初に「不正受給」を連想する認知のあり方は、たとえば大学生レベルの社会像では特異ではなく少数でもないだろう。生活保護の現実をつたえようとするとき、まず、「不正受給」と言われることの中味や、文字通りの不正受給がどれほどの比率かを説明しなければならない状況は異常ではないのか。そもそも、「生保(なまぽ)」という言葉で、何か後ろ暗い生活の印象を与えるような印象操作が無造作に行き渡っている。
 生活保護という制度とその役割についても、生活保護受給世帯の現実についても、事実にもとづく丁寧――安倍政権の常套句としての「丁寧」ではない――で明白な説明を届けようとする努力はもちろんある。読んでさえもらえれば、聞いてもらえるなら、生活保護バッシングのフェイクなど反駁の余地なく撃退できるはずなのだが、ことがらはそれほど単純ではない。少年犯罪が総体として減少しているにもかかわらず認知上では少年犯罪の凶悪化、増加が信じられているのと同様に、ポピュラーな認知次元では、「不正受給問題」が生活保護制度の中心課題であるかのように受けとられている。
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2019年08月03日

日本が培ってきた「企業主義的エートス」

 「福祉国家的エートス」などという社会心情がはたして存在するのか。
 そう思うのは日本では自然のことかもしれない。福祉国家という政治・社会体制に特有でふさわしくもある心性を想像しにくいからだ。とはいえ、制度文化という観念があるように、社会的諸制度の形成・存立が培ってきた心情や意識は現実に存在する。
 企業戦士という言葉が象徴する「企業主義的エートス」――それがどれだけのリアリティを持つかは別として――が、日本企業の制度文化に特徴的な心性を意味していたことは事実である。初芝電産島耕作の物語もNHK「プロジェクトX」(2000〜2005)の企業戦士サーガも、日本社会に特有の企業文化という地盤抜きでは生まれ得ないであろう心性を描出していた。
 それで、「福祉国家的エートス」のことである。年金生活を「退職・自由・ルネッサンス」と、解放の実現だと感じさせる制度(都留民子『失業しても幸せでいられる国』日本機関誌出版センター)や、何重ものセーフティネットによって失業を恐れずにすむ制度は、それにふさわしい心性を育てるに違いない。
 新自由主義化された社会では「怠け者を育てるしくみ」と悪しざまに言われるそれらの制度は、しかし、そこに暮らし働く人々の共同的心情に支えられて強固な制度基盤を持つようにみえる。「労働運動の図書館はコミューンの図書館となり、その自助基金は、健康保険や失業保険として社会保険制度に組み込まれて」ゆく(石原俊時『市民社会と労働者文化 スウェーデン福祉国家の社会的起源』木鐸社)共同・連帯と集権化との福祉国家体制のダイナミズムが矛盾を孕んでいたとしても、である。
 あるいは、協議経済とその思想的根拠である「生活形式」の民主主義とによってかたちづくられた「共同関係」が「開かれた不安定な均衡」であるとしても(小池直人『デンマーク 共同(サム)社会(フンズ)の歴史と思想』大月書店)だ。
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2019年08月02日

左派系の集会に潜入 「生活保護上げろ」の訴えで政権批判展開 隠された“不都合な真実”とは?

 産経新聞の記事に読むべきものがあったので、その要約を取り上げてみた。

 参院議員会館(東京・永田町)に一昨年11月15日、300人以上が集結し「生活保護(基準)を上げろ」と訴える集会があった。生活保護基準は5年に1回見直されており、来年度がその時期に当たるため、政治闘争も激しさを増している。集会には長妻昭(57)=立憲民主党、山本太郎(43)=当時自由党、福島瑞穂(61)=社民党=の左派系の各国会議員らも登壇。いつも通りの政権批判が展開された。生活保護制度は「命のとりで」であることは無論だが、彼らの訴えには制度の議論に必要な“不都合な真実”をわざと隠しているように見えた。
 集会は、前回(平成25年度)の生活保護基準の引き下げ取り消しを求めて、全国で提起された訴訟の関係者やその支援者たちが中心となって開かれた。
 貧困問題に取り組む作家の雨宮処凜(かりん)さん(42)らを司会に、まず、憲法学者の木村草太氏の基調講演があった。
 木村氏は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)を規定する憲法25条の意義や背景を解説するとともに、「数ある社会保障の中でも、生活保護は切羽詰まっていて、そのお金をもらえないと死んでしまうという命のかかった給付だ」と強調した。
 基準引き下げの合理性に異を唱えた上で、「日本の経済体制を正義にかなったものにするために、生存権が保障されなくてはいけない。だからこそ、生存権保障は私たちの正義がかかった問題である。2018年の改定に向けて、世論を盛り上げなくてならない」と結んだ。
 集会の折々では、国会議員が挨拶に立った。
 長妻氏は「安全保障も命のとりでだが、生活保護も同じにもかかわらず、何で国会でバッシングがおこるのか」と主張。山本氏も「憲法って守られてないですよねと、いわゆる『戦争法』のときに言われたが、そのずっと前から憲法25条が守られていないじゃないか。今ある憲法を守っていない人間が、何を憲法を変えたら、とずうずうしいこと言ってんだ」と聴衆をあおった。
 福島氏は「来年度の予算は、防衛予算が5兆3千億円、自衛隊は2兆円で武器を購入し、毎年5千億円ずつ米国から購入している。社会保障の自然増を抑制して、生活保護をまたさらに下げるのかという議論になっている。憲法の25条を守れと、国会の中で奮闘していきたい」と批判した。
 生活保護基準をただ「上げろ」と叫ぶだけでいいのだろうか。制度を維持するために必要な議論が抜け落ちている。集会ではそれらについて全く触れられていなかったことは奇っ怪だ。
 まず、一昨年3月の時点で生活保護を受けている世帯が約164万世帯と過去最多になっているというデータの存在が聞かれなかった。20年間で約3倍にも急増している。その中で最も多いのは、65歳以上の「高齢者世帯」で全体の半数以上に上る。このうち90%以上が一人暮らしの世帯だ。つまり、老後の生活をどうするか、年金だけで生活できない人をどう救うかという話である。この論点が欠けていた。
 受給者の増加とともに、一昨年度の当初予算では、生活保護のための費用は約3・8兆円(事業費ベース)に上る。10年前(約2・6兆円)から1・5倍にも増えた。このまま増加のペースを見過ごしていては、制度維持が危うい。高齢者は特に医療費が多くかかり、保護費の半分を医療費が占める。こうした実情も集会では一片も聞かれなかった。
 さらに問題は、保護費の不正受給だろう。これが生活保護のバッシングにつながっている。平成27年度の不正受給者数は過去最多の4万4千件、総額は169億円にもなる。全体から見れば、「少数」ともいえるが、こうした不正に目をつぶるようでは、制度への信頼が失われよう。
                         ◇
 「生活保護制度」=生活に困窮する人に、その困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障し、自立を助長することを目的とする。生活保護は世帯単位で行い、世帯者全員が資産や能力などあらゆるものを、生活の維持に活用することが前提。扶養は生活保護に優先する。預貯金や生活に利用されていない土地や家屋は売却して、生活費に充てなければならない。
 基準月額例(東京都内)は平成29年4月現在、3人世帯(33歳、29歳、4歳)=15万8380円▽母子世帯(30歳、4歳、2歳)=18万8140円▽高齢者単身世帯(68歳)=7万9790円。
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2019年08月01日

世界で「富豪」と「貧困層」の格差が拡大! 特に米国と中国はケタ外れ

 非政府組織(NGO)のオックスファムが発表した報告書で、世界の富豪上位26人が独占する資産は約1兆3700億ドル(約150兆円)に上り、世界人口の半数に当たる貧困層約38億人が持つ資産とほぼ同額だと指摘された。こうした富の偏在が生じているのは税制や法制度に問題があるのか。解消する手立てはあるのか。
 オックスファムは毎年、世界経済フォーラム(ダボス会議)のときに、世界の富豪の資産が貧しい人の資産合計に等しくなるかという問題を提起し、「トップ何人」という数字を強調している。昨年は43人だったが、今年は26人と少なくなったという。つまり、富の集中がさらに進行したというわけだ。
 さらに、アマゾン創業者で世界で一番金持ちのジェフ・ベゾス氏の資産はこの1年で1120億円(約12兆円。2018年3月現在)に増加し、そのたった1%でも、人口約1億500万人のエチオピアの保健予算の全費用を賄えるとも書かれている。
 この26人は、フォーブスが発表している18年の世界長者番付によるものだ。ちなみに国別の内訳は、米国15人、中国6人、フランス2人、スペイン、メキシコ、インド各1人だ。日本人ではソフトバンクグループの孫正義氏が最高で39位なので、26人には入っていない。
 これで思い出すのは、トマ・ピケティ氏のベストセラー『21世紀の資本』だ。本のエッセンスは簡単で、資本収益率(ほぼ4〜5%)が所得成長率(ほぼ1%前後)よりも高いことを、各国の歴史データで示した。これを高所得者と高資産保有者がますます富むことの理由に挙げ、多くの国で格差拡大につながっている事実を指摘したものだ。
 200年以上にわたる20ヵ国の大量の歴史データによって、1930〜80年までは例外的に格差の小さい時期だったが、それ以外は格差が大きかったことを明らかにした。
 これらの主張は、かつてノーベル賞受賞の経済学者、サイモン・クズネッツ氏の「逆U字仮説」を覆すものだ。つまり経済成長は、はじめは格差を拡大するが、一定レベルを超えた先進国では経済成長に伴い格差が減少する、との主張に真っ向から反するものとなった。
 資本主義では、資本収益率が所得成長率より高いのが常で、先進国でも格差は拡大するというのがピケティ氏の主張だ。
 彼はこの現状を打破するため、資本課税の強化を主張する。それも国際協調のもとですべての国で課税強化策を採用すべしという政策提言になる。
 格差拡大は行き過ぎだろう。それを是正するには、やはり資本課税の強化だ。ただし、ピケティ氏のいうような国際協調はすぐにはできない。
 世界の上位50人の金持ちは、米国22人、中国8人、ドイツ6人、フランス4人、イタリア、ブラジル各2人、スペイン、メキシコ、インド、カナダ、オーストラリア、日本各1人だ。日本は国内総生産(GDP)に比して大金持ちが少ないが、米国と中国などはケタ外れだ。そうした国でこそ、資本課税が検討されてもいいだろう。
posted by GHQ/HOGO at 05:01| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする