2019年03月17日

試されている共同体意識

 社会保障はそもそも何のためにあるのか。人生では、いろいろなことが起きる。病気、障害、育児、離婚、失業、高齢、介護など、何らかの困難に遭ったとき、生活の維持や向上を公的に助けるのが社会保障であり、社会福祉である。自分も家族も絶対にどれにも関係しない、どんなときでも自力だけで生きていく、と言える人がいるだろうか。生活保護をむやみに攻撃する人は、自分は絶対に受けない、身内が困ったときも自分がすべて面倒をみる、と宣言できるだろうか。
 いま試されているのは、日本社会で暮らす人々すべてを一応の仲間と見るか、という共同体意識でもあると思う。共同体の中に弱い人、困っている人がいれば助ける、自分が困ったときには助けてもらう。その役割を果たすことが、現代の国家の重要な機能であるはずでである。社会保障制度を維持するために社会保障を抑え込むというのでは、目的と手段が逆立ちしている。何の社会保障もない弱肉強食社会を望む人も、日本にはほとんどいないだろう。
 日本社会の貧富の差が大きくなる中で、かつて分厚かった中間層の崩壊が進み、没落の不安にかられた中間層がバッシング行動に出ているという見方もある。それが正しいかどうか、材料不足なので判断を保留するが、階層的な対立が底流にあることは確かだ。
 考えたいのは、限られたパイの奪い合いしかないのか、という点である。どの領域にどれだけ課税するかを含め、社会保障に必要な財源は本当に確保できないのか、利益や資産をため込みすぎている人や組織はないのか、ほかの分野への財政支出は妥当か、生活保障をしっかりやって消費購買力を高めるほうが経済は好転するのではないか、貧困層に限定して給付する「選別主義」の政策より、社会の全員に生活に必要な公的サービスの費用負担を減らす「普遍主義」の政策がよいのではないか……。
 社会保障費の負担と配分という狭い土俵だけでなく、広い視野と柔軟な発想で社会・経済・財政を議論することが、ギスギスした争いを減らすために必要ではないだろうか。
posted by GHQ/HOGO at 11:12| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする