2018年12月11日

なぜ貧困はなくならないのか?

 自由、平等で世界一金持ちといわれるこの日本で貧困に苦しむ人たちがいるなんて不思議ではないか。年間3万人もの自殺者のうちその大半は経済的理由。当たり前と思っている資本主義の仕組みに何か大きな間違いがあるのではないか。まずは資本主義の本質を理解するためにモノポリーで考えてみる。複雑に見える経済のしくみもシンプルなゲームに当てはめてみると本当の姿が見えてくる。
モノポリーのゲームを始めるとき4人のプレイヤーはみんな平等である。その4人がサイコロを振りながら土地や家屋の権利を買い、投資を繰り返していくわけだが、テクニックと運によって次第に1人のプレイヤーに富が偏っていく。結局は1人のプレイヤーがほとんどの利権を買い占めてしまい、他の3人はまったく太刀打ちができなくなったところでゲームセットとなるはずだ。まったく平等な4人が完全に自由な競争をしたとしても必ず結果は1人の勝者に富が独占され、他のプレイヤーを破産に追い込むことになる。
 つまり自由にまかせているだけでは経済活動はやがて破局を迎えることになる。新自由主義者と呼ばれる人たちは自由な競争を促進し、あらゆる規制を撤廃すれば経済が成長を続けると信じ込んでいるようだが、大間違いであることがモノポリーをやってみるとよくわかる。金持ちはどんどん金持ちになり、貧乏人は永久に貧困から抜け出せず貧富の差が拡大していく法則がゲームの中にはっきりと見てとれる。自由に任せておくだけではゲームを続けていくことができない。そこでゲームを終了するか、さもなければルールを改正する必要がでてくる。
 モノポリーの限界に気が付いた4人は相談してゲームの世界に政治を導入し、ルールを改正していくことを思いつく。選挙を行い政治家を1人選出することにしたのだ。経済の世界に政治が持ち込まれるといったいどんなことがおきるのか。経済と政治を融合させれば世の中の縮図ができあがる。4人で選挙を行って政治家を選出するのだが、この場合当然これまでゲームをリードしてきた大金持ちは選ばれない。なぜなら1人の金持ちと3人の貧乏人が投票するわけだから代表者は3人の貧乏人の中から選ばれることになる。1人1票ずつの民主主義だから当然である。選挙で選ばれた政治家はモノポリーのルールを貧乏人が有利になるようにどんどん変えていく。
トップのプレイヤーからごっそり税金を徴収し、貧しい他のプレイヤーに再配分していく。富の再分配が行われるわけだ。しかし、トップのプレイヤーにしてみればたまったものではない。せっかくここまで溜め込んだ富がすべて平等に分配されてしまえば、これまでの努力が水の泡になってしまう。
 そのことに気がついた金持ちプレイヤーは政治家を買収することを思いたつ。政治家はもともと貧しいプレイヤーの出身だったわけですから最初は抵抗するが、結局お金持ちの言うとおりにしたほうが得だということに気がつく。表面上は貧乏なプレイヤーの味方のようなふりをしながら票を集め政治家になり、少数派の金持ちに
有利な仕組みをつくり資金提供を受けることで他のプレイヤーより裕福になる。これが財界と政界の癒着だ。政治家が金持ちによって買収されている状態は今の日本の政治とまったく同じである。いや世界共通と言って良いだろう。一般庶民より貧しい政治家は皆無だ。政治家は金持ちから政治献金(実質上の賄賂)を受けながら金持ちに都合の良い政策を実行することで(程度の差はあれ)私腹を肥やしているのだ。
 金持ちや権力者にとって富を平等に配分しようとする共産主義はもっとも警戒すべき敵である。何としても叩き潰さなければいけない。もし貧しい人間が政治に目覚め、多数決で平等な社会をつくろうとすればそれはできる。不公平な社会は解消され、たちまち金持ちの優位性は失われてしまう。そこで金持ちたちはマスメディアや大学教授までも味方に付けて、『共産主義は危険な発想だ』とすべての国民を洗脳しようとする。今の日本人を見てみるとどんな貧しい人ですら、共産主義は駄目だと考えている。これがまさに金持ちの思うツボで、洗脳が見事に成功しているわけだ。
 では社会のシステムはどうあるべきなのか。この世界から貧困を排除して経済的格差を緩和するべきではないか。努力してコツコツ頑張る人が報われるような社会でなければいけないのではないか。しかしまったく平等であっても労働意欲が沸いてこないものだ。一生懸命働いた人と朝から晩までお酒を飲んで働かなかった人が同じ給料だとするとバカバカしく思えてくるものだ。かつてソ連や中国、北朝鮮などで共産主義への取り組みが行われた。多くの人が地上の楽園の誕生を信じて一生懸命頑張った。しかし結果は意外なことに生産性が著しく低くなり、資本主義との競争に敗れてしまった。
 モノポリーでも富の再分配をどんどん推し進めていけば確かに平等な社会が実現されるのだが、4人が平等になってしまうと今度は逆にわざわざゲームをやろうという意欲が失われてしまうわけだ。経済をうまく循環させるためにはある程度の経済格差も必要なのかもしれない。水は高いところから低いところへ流れる。そしてそれがエネルギーを生む。お金も同じことでこの高低差がなければ流通しないのだ。しかし今問題になっているのはその格差の程度である。たとえばプロ野球の選手がいくら一流だからと言って何億円も報酬を受ける必要があるのか。大企業の社長が一般社員の何百倍もの給料をもらうほど本当に価値ある仕事をしているのか。物や価値を生み出さず、お金だけを動かすビジネスが社会を支配することが許されるのか。資本主義の競争の原動力を残しながらできるだけ平等な社会を実現するという異なる命題のバランスをうまくとることが必要なのだが…。
 具体的に言えば、高額所得者の上限を青天井にするのではなく、低額所得者と高額所得者の格差をせいぜい10倍ぐらいに制限しておくことが必要ではないかということになるが、そんなことは無理なことかもしれない。


posted by GHQ/HOGO at 07:18| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする