格差問題について、よく語られるのは、「努力が足りないから貧困になった」というものだ。だが、果たして、その人が貧困になってしまったのは努力不足だったからだと、本当に言えるのだろうか。
それに関して驚くべきデータがある。それは初めて就職する人の4割が非正規になっているという現実だ。非正規の約7割は年収200万円未満。これは努力不足というだけで片付けられる問題ではないという事実の一端を示している。
さらに懸念されるのが「貧困の連鎖」だ。親が“負け組”になると、その子供は十分な教育を受けられず、大人になっても貧困状態が続く可能性がある。ある慶大生は子供のころから努力しているが、それは親が「食卓に漢字ドリルをおいていた」というように、努力するために何らかの働きかけがあったからだ。だからこそ、貧困に陥った人たちのサポートが必要なのではないか。
「サポートすべきだと思う。最低限の文化的な生活は提供すべき。子供は、(国の)みんながおカネを出し合って、育てたほうがいい」
「そもそも努力ができない環境にあることもある。親が仕事に忙しく、兄弟の世話をしなければいけない」
「もともと公平じゃない中で、努力だけでどうにもならない部分もあるかもしれない」
「ただし、困ってる人たちだけを助けようとすると、多くの人たちは、自分の負担が増えることを嫌がるのではないか……」
では、格差はどうすれば是正できるのだろうか。ここでアトキンソン氏が『21世紀の不平等』で提言する「格差を是正する15の方法」を挙げてみよう。
@ イノベーションを正しく導こう
A 多くの人々の声を反映する仕組みを強化しよう
B 失業者の雇用を政府が保証しよう
C ちゃんとした国民報酬政策をつくろう
D 貯蓄にはプラスの利子を保証しよう
6 成人した人みんなに定額のお金をあげよう
F ソヴリン・ウエルス・ファンドなどで国の資産を増やそう
G 所得税の累進性を高めて最高税率を65%にしよう
H 所得の低い人には政府が税を通じて補助金を出そう
I 相続や生前贈与に対して、適切な課税をしよう
J 最新の不動産鑑定に基づいた固定資産税にしよう
K すべての子どもに児童手当をあげよう
L 広い意味での社会参加に対して所得保証をしよう
M 社会保険の給付を引き上げ、範囲を拡大しよう
N 富裕国はODAをGDPの1%に増やそう
この提言に対し、次のような意見がある。
「子供の格差については政府がおカネを出さなければいけない」
「現金給付と言っているが、誰もが欲しがるおカネを一部の人に配ることが、本当に日本で受け入れられるのか。機会の平等を考えるのであれば、現金給付よりもサービスを出すべき。とくに教育サービスは効果的」
これらの意見に共通しているのは、子供の貧困は絶対に認められないということ。子供をきちんと育てなければ、国の将来も危うくなる。そうした問題意識のもと、格差の議論はさらに深まるはずだ。
こうした議論について、『18歳からの格差論』(井手英策著)では、「格差について問題なのは、格差が見えないということ。そして、もう1つ。多くの人がいろんな意味で格差を受け入れないことだ」と指摘する。
「とくに、自分は貧困層ではない、格差を受け入れないという見方はやっかいだ。生活苦に耐えながら働いている人たちは、貧困層に対して、努力していない、だから自己責任だという不満を募らせる」
なぜ努力しない人たちのためにカネを払わなければいけないのか。そうした不満は、とくに世帯年収300万〜400万円の非正規カップルに多いのではないかという。貧しい人が、より貧しい人を差別するような状況こそが問題なのである。
一方、ブラックバイト問題については、「企業悪者論」だけを唱えていても問題は解決しないという。そもそも日本人は、長時間労働でGDPを上げてきた国民。歴史的に見ても、ブラック企業というのは、いかにも日本人らしい現象の1つだと言う。
「さらに言えば、都市化によってサービス産業化、IT化が進めば、賃金は必然的に下がっていく。これは先進国中で起きている問題。企業も安い賃金でなければ成り立たないから、長時間働かせて、ある程度の収益を上げるかしかない。こればかりは逃げられない」
「労働生産性が下がり、技術革新も進まない今の日本は病人。この病はおそらく長期的に続くはずだ。企業の悪口を言うだけではなく、また経済のバラ色の未来を語るのでもなく、成長に頼らない社会の可能性をみんなで考えないといけない」
それでは、格差は努力不足で起こるという問題についてはどう考えればいいのだろうか。
「そもそも人がどれだけ努力をしたのか証明することは難しく、家が裕福で、健康に生まれ、不自由のない生活を送れるかどうかは『運』によるところが大きい」
「運が悪い人がずっと人生を棒に振るのは理不尽だ。理不尽なものを変えるのが人間の知恵。近代は合理化の歴史であり、理不尽をなくすことで発展してきた。なのに、なぜそこから目を背け、努力不足、自己責任と批判するのだろうか」
多くの人は努力することを無理強いされてきたからこそ、頑張らない人が憎い。ただそうであったとしても、「自由について考えなきゃいけない。そのためにはどんな家に生まれようと、人間が自分の生き方を自分で決められるように、あらゆる生活の基礎をみんなでつくることだ」
「格差を縮めるという言葉に違和感がある。むしろ、助けないでいい状況にすることが大事だ。子どもに対して、貧しいから助けるのではなく、みんなが学び、働いて、貧しくならないために知恵をしぼる。それが人間らしさ。つまり大きな格差を生まない社会、格差があってもそれを受け入れられる社会だ」
井手氏は、ニーチェの「同情とは、人間を愛する者がはりつけにされる十字架ではないのか」という言葉をこう言い換える。「救済、人を助けてやる気持ちとは、善意ある、弱者を見捨てられない人間がはりつけにされる十字架ではないのか」と言う。
「助けるという行為がどれだけ人の心を傷つけるかということを、きちんと考えなければいけない。そうでなければ、生活保護をもらう人が、あるいはもらうのが嫌な人が自殺したりしない。助けてもらって、恥ずかしい思いをして、失格者のレッテルを貼られる。僕たちは、助けられる人の痛みに鈍感であってはならない」
大事なことは、誰もがコンテストに参加でき、運だけで人生が決まらない社会をつくることであり、そんな理想を目指すことができるのは人間だけだ、と井手氏は語る。
「だからこそ、アトキンソンの『21世紀の不平等』は、貧困に気づかせてくれる、問題を見えるようにしてくれるという意味で、とても大切な本だ。でも、僕たちはそこからさらにその先に行って、頭のよい経済学者の提案を受け入れるだけではなく、もっと人間の心を持った、血の通った、人間の顔をした学問や社会をつくっていかなければいけない。僕は、そのことに気づくための貴重な教材として、この本は読まれるべきだと思う」
posted by GHQ/HOGO at 08:04| 埼玉 ☔|
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