2018年05月31日

「自己責任」では解決できないその現実

 正規労働者が、経営者に同調して非正規労働者を雇用の調整弁として切り捨てるとき、それは“NOと言えない”労働者を生み出すことで、結果的に自分たち自身の雇用の安定を掘り崩していることに気づくべきだ。それは決して自分たちの利益にかなった行為ではない。その証拠に、正規労働者は今まさに「既得権益の(不当な)受益者」としてターゲットにされているではないか。
 セーフティネットの穴が広がり続ければ、いつかは自分の足元にも及ぶ。イスが減り続ければ、また減らなくても自分の体力(“溜め”)が落ち続ければ、いずれは自分も座れなくなる。そのときになって「あれは座れなかった人間が悪い、という話じゃなかった」と気づいても、もう遅い。
 総合研究開発機構(NIRA)は、就職氷河期世代に対して今のように何の実効性もない就労支援策でお茶を濁しているだけだと、将来的な生活保護費の増額分は17〜19兆円に上る、という試算を発表した(現在の生活保護費は2.6兆円)。しかし、その人たちが“NOと言えない”労働者となって労働市場全般、ひいては社会全般の土台を掘り崩すのだとしたら、社会の損失は文字通り計り知れない金額に達するだろう。日本社会はこの間、目先の財政均衡のために、先々の決定的な財政不均衡に向かって突き進んできた。今こそ、私たち自身のために、アメリカ追随一辺倒の構造改革路線からきっぱりと決別すべきときだ。
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2018年05月30日

放置すれば社会の弱体化を招く

 なぜ貧困が「あってはならない」のか。それは、貧困の放置は社会の弱体化を招くからだ。これは道徳的・抽象的な意味ではない。
 貧困状態に放置された人たちが、どうやって生きていくかを考えてみればいい。多くの人たちは、家族の支えも公的な保障も受けられない中で、生きるために労働市場にしがみつくことになるだろう。そのとき、人々は“溜め”を失い、食っていけない状態で労働市場に(再)参入するため、「どんな低賃金でも、どんな条件でも働きます」という“NOと言えない”労働者となって戻るからだ。働かなければ今日の宿も失う、子供を路頭に迷わせてしまうという状態にある人たちが、労働条件について会社に異議申し立てができるかを考えてみれば、答えは明らかだろう。
 この間、貧困が拡大してきたのは、労働市場の崩壊という原因が大きい。しかし、貧困に対する(自己責任論による)放置は、それに止まらない。それは“NOと言えない”労働者を大量に生み出し、それによって労働市場を崩壊させる。つまり、貧困は労働市場崩壊の結果であると同時にその原因でもあり、両者は相互に悪影響を及ぼし合う。これを「貧困化スパイラル」という。
 官民にわたるワーキング・プアの増大は、貧困をその手前で止めなかった社会が“NOと言えない”労働者を大量に生み出したことの帰結であり、それはまた、コインの半面の問題として正規労働者の労働条件を切り崩さずにはおかない。低処遇労働者が増えれば増えるほど、安定処遇の人たちもそれとの均衡で低処遇化していくか、または安定処遇に見合った高い生産性を要求されるからだ。それは、総務省の就業構造基本調査結果が明らかにしたように、短時間就業と長時間就業の二極化を促進するだろう。「過労死か貧困か」という究極の二者択一を迫られる、ということである。
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2018年05月29日

貧困とは“溜め”が失われた状態

 貧困問題を考えるためには、“溜め(ため)”という視点を導入する必要があるのではないか。溜め”とは、人々の置かれている条件のことであり、イス取りゲームの比ゆを引き継げば、ゲーム参加者の体力のようなものである。
 さまざまなものが“溜め”としての機能を持っている。お金があるのは金銭的な“溜め”があるということだ。頼れる親がいる、仕事を紹介してくれる、転がり込める友人がいるのは、人間関係の“溜め”だ。また「生きてりゃそのうちいいことあるさ」と思えるなら、その人には精神的な“溜め”がある。“溜め”とは、このように金銭、人間関係、精神状態にまたがる複合的な概念であり、その“溜め”を総体として失うのが「貧困」だと考えられる。
 たとえば、失業というトラブルに見舞われた正規労働者と非正規労働者2人のうち、どちらが「より条件のいい就職先」というイスに着けるかを考えてみる。正規労働者は、就労中にためたお金があって、それで失業保険の支給まで食いつなぐことができ、失業保険受給中はある程度の生活基盤を確保しながら、じっくりと次の仕事を探すことができる。かつての同僚たちの中に条件のいい仕事を紹介してくれる人がいるかもしれない。他方、低賃金で働いていた非正規労働者は、失業保険が開始されるまでの3ヵ月を食いつなぐお金を持っておらず、そもそも受給資格そのものがないかもしれない。貯蓄も少なく、直ちに次の仕事に就かなければ、家賃も払えない、食べるものもない、という状態に追い込まれやすい。このとき、2人は職探しというスタート時点において、同じ体力でイス取りゲームに臨んでいると言えるだろうか。
 また、公的支出に占める教育費の割合が経済協力開発機構(OECD)28カ国中28位という状態の中で、子ども1人を大学卒業させるのにかかる費用は1人当たり2370万円と言われている。では、そのお金を用意できない親の子は、学費・生活費に加えて年間数十万円に及ぶ塾費用を用意できる家庭の子と比べてどうか。その体力差をカバーできないのは、ひとえに自己責任の問題なのだろうか。ゲーム参加者の体力を問うことなく、どうしてゲームの公平性を担保することができるだろうか。
 “溜め”という概念は、その体力がお金だけではなく、人間関係の資源を含めて多様な範囲に及んでいることを示している。国会議員はしばしば「食えないのは自助努力が足りないから」と自己責任論を振りかざす。しかし自助努力だけの勝負ならば、なぜ自民党国会議員の半数以上が二世議員なのか。それは、その人たちの言に反して、人間関係の“溜め”がいかに重要かを立証している。国会議員こそ、自助努力だけでは済まない現状を強調すべきなのだ。
「貧困」はしたがって、たんにお金がない「貧乏」とは区別されるべきだ。貧乏でも家族や地域との豊かな人間関係をもって幸せに暮らしている人はいるし、それゆえに貧乏は笑い飛ばせるかもしれない。しかし、基礎的なもろもろの“溜め”を奪われた貧困状態にありながらも幸せだという人は定義上ありえないし、また笑えるものではない。だからこそ、貧困は「あってはならない」ものなのであり、古来政治の重要な役割の1つは貧困をなくすことにある。貧困問題に取り組まない政治家は、それゆえ、自ら政治家としての資格を捨てているに等しい。
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2018年05月28日

日本社会に広がる貧困 椅子の数が減らされているのが現状だ!

 「メールにて失礼いたします。現在45歳。北海道から東京に体1つで上京しネットカフェなどに寝泊まりしながら派遣の日雇いの仕事をする毎日、派遣先は主に重労働の建築現場で経験も体力もない自分にとっては毎日が苦痛で精神面も不安定な状態になりつつあります。正直その日暮らし的な今の生活に限界を感じています。自分には中学生の息子がいるので、東京で一稼ぎして仕送りを考えていましたが、現状では仕送りどころか自分の生活も困難です。ぜひお力添えをしていただきたい。よろしくお願いします」
 かつては、元日雇いの野宿者や母子世帯が大多数だったが、今は若者や一般世帯にも広がっている。とくに増えているのは20〜30歳代の働き盛りでありながら、「働いているのに/働けるのに、食べていけない」という人たちだ。
 こういう事例は、しかし、しばしば反発を招く。好ましくない結果をもたらしたのは、何よりも本人の努力不足が原因という自己責任論が根強いからだ。それは、貧困問題に永遠について回る偏見である。イス取りゲームにおいて、イスに座れなかった人たちに着目すれば、批判は容易である。「スタートダッシュが遅かった」「ぼーっとしていた」「動きが緩慢だった」と、まるでプロ野球観戦でもするように、人々は冗舌になれるだろう。
しかし、ひとたびイスの数に目を転じれば、事態の様相はがらりと変わる。イスの数が足りなければ、ましてや減っていけば、必然的に座れない人たちは増えていく。そのとき問題の根幹は、座れなかった人たちの自己責任論議から、イスの数、つまり人々の生活を支える諸々のセーフティネットの議論へと転換するだろう。
 普通の人々がふつうに暮らせる社会のために必要な視点はどちらなのか。その綱引きが今も繰り広げられているのである。
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2018年05月27日

世界経済は発展してもいまだ貧困層は減っていない!

開発経済学は、途上国の社会現象を包括的に分析して、経済発展を促すことを研究する学問である。途上国によってはなかなかうまく発展しない国が少なくない。途上国においていまだ貧困にあえいでいる人々がたくさん存在していることで、しかも世界経済の発展にもかかわらずその人々の数が減っていないということである。
 世界人口の60億人のうち、約12億人が貧困の状態にあるという。この統計はどのようにしてつくられるのだろうか。世界銀行では途上国の貧困状態を示すために、いろいろな国の購買力を、1日当たりのUSドルに換算して、1USドルあるいはそれ以下の生活をしている人々を算定している。この意味は、人間が生きていくために日々必要な栄養(カロリー)摂取量、それに見合った食料品リストが考えられている。これをお金に換算して、1日最低いくらあれば生きられるかを考えるわけである。ただ、インドのデリーで買える1USドル分の食料品とザンビアのルサカで買えるそれは、自ずと異なった量、構成になっているはずだ。この価値はその国の習慣、歴史や文化によって決まり、その違いは国と国の間にあり、また1国の中にもあり、個人の間にもある。ノーベル経済学賞受賞者のセンは人の貧困問題を考えるのにこの違いは大切な違いだと言っている。貧困という複雑な社会問題を簡単に説明しようとすると落とし穴があるのだ。
 貧困層を助けるため、必要最低限の栄養摂取を政策目的とした場合、どんな政策手段があるのだろうか。災害等の緊急の際には、被害者に食料配給がなされる。これは例外として、話を簡単にするために、食料補助金を現金で給付する方法(食料品以外の物も購入可能)と同額の食事券(食料品のみ購入可能)を給付する2つの方法があるとすると、限られた予算の中から、どちらがより効果的に政策目的を達成する手段であろうか。これはミクロ経済学の政策論で学ぶことであるが、所得効果を生み出す食料補助金の方がより効率的と考えられている。ところが、貧困の状態によって、貧困家庭で補助金が酒代に使われることが分かっているときや、貧困家庭の栄養摂取の量を大々的に増やしたいときには、補助金よりむしろ食事券が功を奏する。貧困の状態によって、政策選択が原則論から見て逆になる場合もあるというわけである。
 さらに気になることは、途上国政府が国内で生産された穀物の流通価格を、エリートである都市部の住人に有利な価格で決めてしまい、しかもときには生産価格より低く決めていることである。これでは農民が生産を続ける意欲さえもなくしてしまうのは当然の結果である。極端な例で、食料援助で配給された穀物が都市部の住人にただで配給されたとしよう。農民はそれを見て農地を捨て都市部に移住し、ただの食料を求めるだろう。この結果、農地は荒れ、都市部では貧困が増大する。経済発展の実現には、農民の声を聞く耳を持たねばならないということである。
 この開発経済学での「貧困と食」という限られた話の中だけでも、重要な示唆がある。より効果的な経済政策のためには、貧困の状況・原因のデータが必要で、「家計調査」などの調査方法を使って定期的に資料を集めることが大切だ。ある程度詳しい資料があれば、政策議論も具体的になり、より正しい政策選択が可能になるはずである。多くの国々がより良い資料をもとに良い政策をと努力していて、近くではベトナム、インド、バングラデシュでの経験が参考になる。
 この分野に興味がある方は、経済学や統計学等の分析道具を身に付けるとともに途上国の現場を知ることも必要で、該当国の言葉・歴史・文化を学ぶことを薦めたい。
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2018年05月26日

子供の貧困、誰が悪いのか?

 日本の子供の貧困率は先進国の中でも最悪のレベルにある。全国の平均所得の半分を下回る世帯で暮らす18歳未満の子供の割合は過去最悪で、今では6人に1人が貧困に直面している。
 実際、子供の貧困はかなり深刻で、学校給食が唯一の食事という子供や保険証がないため病気や怪我で病院に行けない子供、家庭崩壊からホームレス同様の生活を送っている子供など、心が痛くなる話が現実にこの日本で起こっている。
 また、これが原因で高等教育どころか義務教育における教育機会さえ失っている子供たちも少なくない。子供の貧困は教育格差の原因の1つ、日本にとって大きな社会的損失ということができる。
 子供の貧困にはさまざまな理由があるのだが、中でも問題になっているのが母子家庭や父子家庭の貧困である。日本はこの分野で、世界1位の貧困率を記録している。
 特に一人親の場合は、なかなか貧困から抜け出せないのが現状だ。中には親の離婚で子供に苦労をさせてと感じる人もいるだろう。だが離婚の原因にはさまざまなものがあり、シングルマザーの7割が配偶者からDVを受けていたという調査結果もあることから、一概に親のわがままが母子家庭や父子家庭を作り出しているとは言えない。
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2018年05月25日

「助けて」と言えないのはなぜか?

 生活に困ったときや精神的に苦しいときに、人はどうするだろうか。すぐにSOSを発するだろうか。大声で助けを求めるだろうか。必ずしもそうではない。むしろ、苦しんでいる人は、なかなか声を出せず、簡単には助けを求めようとしない傾向がある。どんどん権利を主張する人、自分で制度をフル活用できる人は少数なのである。ここを勘違いしていると、社会保障や福祉の仕組みがあっても、うまく機能しない。
 助けが必要な人は、どうして声を出せないのか。要因はいくつもある。本人が心理的に弱っていること、力を持つ者への恐れ、スティグマ(恥辱感、偏見)、自分を責める意識、本人を責める人が実際にいること、我慢して迷惑をかけないことを美徳とする道徳観――などである。近年は何かにつけて自助努力や自己責任が強調され、他者を責める風潮が強まっており、助けが必要な人が声を出しにくくなっている。
わかりやすい例で言うと、性暴力やセクハラを受けた人は、被害を訴えにくいもの。加害者への恐怖、恥ずかしいという意識に加え、被害に遭った自分を責めてしまいがちだ。周囲から自分を責めるような言い方をされたり、好奇の目にさらされたりするセカンドレイプもある。また、詐欺や悪徳商法の被害者は、だまされた自分を責め、恥ずかしく思い、周囲からも責められたりバカにされたりしがちなのである。
 DV(配偶者らからの暴力)や子ども・障害者・高齢者に対する虐待では、加害者との力関係が問題。家庭内でも施設・事業所でも、一方が権力や支配力を持っているから虐待が起きやすく、被害者はそこから抜け出しにくいのだ。ふたたび被害に遭うこと、報復を受けることへの恐怖心もあれば、日常生活や経済面で相手に頼っている現実もある。加害者に対して、悪いだけではない、世話になっていて申し訳ない、自分にも非がある、と考えてしまうこともある。
 病気・障害にも、差別・排除や恥の意識を伴うものがある。ハンセン病、HIV感染、性感染症……。結核やがんも昔はそうだった。精神病、依存症、知的障害、認知症、ひきこもりといった、メンタル関連の領域には今でも偏見・差別があり、世間から隠そうとする家族もいる。本人も挫折感・劣等感を抱いてしまうことが少なくない。
 自殺にも、否定的な見方や恥の意識が強く存在する。自死遺族は、なぜ気づいてやれなかったのか、助けてやれなかったのかと自分を責める「SOSに気づけば自殺は防げる」という趣旨のキャンペーンは、遺族にとって非常につらいものなのだ。
 貧困も否定的に見られがち。貧困に陥るのは、本人の生活態度だけの問題ではなく、生まれつきの能力や育った境遇をはじめ、病気・障害・災害・失業・離婚といった不運によることが多く、決して恥ではないのだが、社会には金持ちをもてはやし、貧しい人をさげすむ風潮がある。
 そして生活保護には、強いスティグマがつきまとっている。健康で文化的な最低限度の生活は憲法で保障された権利であって、必要なときは利用すればいいのに、行政の世話になることを恥や負い目と感じる人が多いのが実情なのだ。
 さらに問題なのは、実際の行政の対応だ。生活に困り果て、精神的に弱った状態で、勇気をふりしぼり、やっとの思いで出向いた福祉事務所。その窓口で冷たくあしらわれたり、ケースワーカーから心ない言葉を受け、責
 では、何が必要なのか。まず行政や福祉関係者が、苦境にある人の心理をよく理解し、個別の相談支援をきちんとやること。積極的に手を差し伸べ、ともに問題解決に取り組むこと。相談や申請への対応が親身でないと、困っている人の希望を奪い、逆に打撃を与えてしまいかなないのだ。
 制度や仕組みの周知も重要です。制度の内容が見えないと、当事者には助けを求める発想が浮かばない。「何かあればご相談を」「詳しくはお問い合わせください」といった抽象的な広報だけではなく、「こんな制度があります」と具体的な情報が、困っている人にとっては手がかりになる。とりわけ生活保護の必要な人に利用を促す広報は不足している。
 自分から助けを求められない人にアプローチするには、受け身で相談を待つだけではなく、積極的に現場へ出かけるアウトリーチ活動や、地域住民との協力関係も必要である。
 根本的に大事なのは、社会の空気を変えることだ。強くなければダメだ、辛抱しろ、弱音を吐くな、他人に頼るな、甘えるな、周囲や社会に負担をかけるな――。そういった考え方は家庭教育、学校教育、社会風潮の中で植えつけられてきたものなのだ。
 助けを求めることは、社会に存在する「資源」を使って、個人の問題解決を図るための行動である。その意味で、困ったときに助けてと言えるのが本当の強さではないか。
 政府・自治体は、助けを求めやすい世の中、弱さを認め合える社会の実現に向けて、困ったときは遠慮なく助けてと言おう、というキャンペーンを行うべきなのだ。
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2018年05月24日

経済学者は「水道屋」のようなもの

 RCTにはいろいろと問題はあるが、事実に基づいて人間行動の傾向性を確かめることが大切であり、経済学と心理学のコラボレーションが大切だというのは、間違いないだろう。現実には、無駄な政策がもっともらしい理屈で実行されて、役に立ったかどうかの確認もされないことが多すぎるからである。
 デュフロ氏は、経済学者は水漏れを直す「水道屋」のようなものだ、と論じている。大切なのは、経験と、微調整。地味だけれども役に立つ職業だ。しかし、心に留めておきたいのは、どれだけ確実さを求めても、人間の心理と社会には100パーセントの確実さは存在しえないということだ。
 今のRCTの面白さは、データで常識を覆すところにある。これからRCTが普及していっても、デュフロ氏たちのチームには、こういう反主流の無骨さを維持してほしいものだと思う。それにしても、経済学という学問は文系なのか理系なのか、よくわからないところがある。RCTの研究成果の論文は、ラボでの実験の結果を議論する理系の論文と同じように共著論文が多い。偉大な経済学者が大学の研究室で思索を深めて、晩年に著作集が刊行される、というパターンは消えつつあるようだ。
 RCTには、マイケル・クレマー、アビジット・バナジーという先輩研究者がいて、デュフロ氏は次の世代である。研究はチームワークで大規模に実施されるから、こういう人々は研究者というより、研究経営者に近い。やはりこういうのは、アメリカ人が得意だ。フランス人の学者とデュフロ氏の話をすると、「彼女はアメリカに行っちゃった人だから」という反応が返ってくることがある。日本人の経済学者でも、森嶋通夫、宇沢弘文、青木昌彦のように英米に渡って大成した人たちがいるが、こういう研究者が日本語で日本人向けに出した本を読んでみると、複雑な「憂国の思い」が伝わってくるものだ。
 RCTの成果を自分の母語で紹介するにあたって、デュフロ氏は祖国フランスの知的伝統をどのように意識しただろうか。このあたりを考えでみるのも、面白いかもしれない。デュフロ氏はまだ若いが、ノーベル経済学賞に近い、という噂をあちこちで耳にする。殿堂に入る前に、もうひと暴れしてほしいものだ。
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2018年05月23日

イノベーションは例外から生まれる

 アフリカのある国でトウモロコシを栽培する農村がある。品種改良された種子を使えば収穫が数倍に増える(収穫の増加以外の面でこの種子が本当に良いかどうかは、さしあたり問わない)。そこで、実験的に補助金を投入し、格安の改良種子を使うよう農家に提案してみる。進取の気性に富んだ農家が新しい種子を使った栽培を試みるが、周囲の農家は、この変わり者の試みを黙って観察しているだけで、村全体の栽培手法にはまったく変化が見られない。よくある話だ。RCTを実施しても、「新しい種子は普及しない」という結果が出るだろう。ところが数年後、村の有力者が新たな栽培方法の受け入れを決断すると、これまで(内心は興味津々で)見ていただけの農民たちが一気に新品種を導入する。デフォルトの栽培手法がひっくり返る。人々の心の準備に時間がかかっていたのだ。こういうケースでも、時間軸を長期にとってRCTを繰り返せば、法則性が見えてくるかもしれない。だが、流れが変わるのはいつか、変化の引き金は何かというのは、当事者にもわからないことが多い。
 これは経済学と経営学の違いにもかかわる問題である。イノベーションは例外から生まれる。つまり、統計的には成功を約束されていない試みが大成功を収めること(あるいは逆に、安全だったはずの試みが大失敗すること)があるのだ。
 黒い白鳥が1羽発見されることで、白鳥は白いという常識が塗り替えられる(つまり、ありえないと思われることが、現実に起きる)。ナシーム・ニコラス・タレブが『ブラック・スワン』(望月衛訳、ダイヤモンド社、2009年)で明らかにしたように、今日まで通用した法則性だけに頼って未来の選択を決めようとすると、何の革新も生み出せないかもしれない。
 それから、これはRCTと直接関係しているわけではないが、RCTを実践する政策研究者の間で「パターナリズム」の是非がよく議論されていることを指摘しておこう。
 学校は卒業したほうがいい。予防接種には行ったほうがいい。コンドームはつけたほうがいい。貯金はしたほうがいい。甘い物は食べ過ぎないほうがいい。まあ、その通りだろう。しかし、人間の心は弱い。「次からそうしよう」、と決断を先延ばしして、現在の誘惑に負けてしまうのだ。「今回だけはいいだろう」という理屈で、次も「今回」、次の次も「今回」が続く。
 だとすると、ちょっとしたインセンティブを与えて、行動の変化を促してみたらどうだろう。大規模な補助金を出さなくてもいい。人々は「そうすべきだ」ということは頭ではわかっているのだから、ちょっとした広告、記念品のプレゼントなど、背中を一押しするくらいで十分に効果が上がるのではないか。
 このような政策オプションは、行動経済学では「ナッジ」(ひじで軽く押して行動を促すこと)と呼ばれ、RCTでもさかんに実験が行われている。自由主義の原理に基づけば、人々は自立して選択の自由を行使すべきである。したがって、父親が子供を善導するように、特定の「正しい」選択肢を選ぶように政府が市民を誘導するのは間違っていることになる。
 「私はあなたにとって最善のことを知っています」というヒラリー・クリントン的な「上から目線」に米国の有権者たちがノーをつきつけたのは、記憶に新しい。自分のことを振り返っても、2年前に禁煙したが、自分で決めたのであって、誰かにナッジされたわけではない(と思う)。
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2018年05月22日

RCTの強みと弱み

 RCTはあくまで「道具」にすぎず、この手法を使って何の有効性を調べるかは別のところで議論されるしかない。どんな薬を開発するかを考えるのは製薬会社と医療行政、そして医者と患者であって、RCTの役割は、認可を待つ薬の効力を調べるだけである。同じように、政策を通じて何を実現したいかを決めるのは、RCTを操る研究者ではなく、究極的には主権者である市民、国民、そしてその信託を受けた政策立案者だろう。
 しかし、薬の効果と政策の効果では次元が違うところがある。薬が効くかどうかは基本的には化学反応で決まるのだが、政策の効果については、文化や主観など実に多様な変数が入ってくるので、因果関係をスッキリと理解するのが難しい。それでも、RCTを世界のいろいろな場所で何度も繰り返していくと、こういう政策に人々はこう反応するのだな、ということがだいたいわかってくる。わかってしまうところに、RCTの強みと弱みがある気がする。いわゆる「ビッグデータ」もそうなのだが、統計学の手法を使うと、過去から現在までの人間行動の法則性が明らかになる。
 未来も十中八九、同じことになるだろう。人々の行動パターンが客観的な数字で示されるから、教訓はとても力強い。これが強みだ。しかし、人々の規範や行動は何らかのきっかけで大きく変わることがある。今日まで正しかったことが、明日からも正しいとは限らない。
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2018年05月21日

多くの政策は「思い込み」で実行される

 今、世界で最も注目される開発経済学者の1人であるエステル・デュフロ氏は、MIT(マサチューセッツ工科大学)のチームの仲間たちと一緒に、ランダム化比較実験(RCT)を世界各地で実践している。RCTの基本はシンプルである。特定の政策の対象になるグループと対象にならないグループをランダムに分けて、政策の効果を客観的に計測するのだ。たとえば、子供を予防接種会場に連れてきた親に、1キロのレンズ豆(インドでは主食の一部)というささやかな報償を与えることにする。
 さて、接種率はどのくらい向上するだろうか。調査協力者をランダムに選び、一方のグループ(処置群)では親にレンズ豆を与え、別のグループ(対照群)には与えない。そして、処置群のほうで予防接種率が向上したとしたら、それは純粋にレンズ豆の報償の効果だったことがわかる。
 日本のような先進国でも、同じような実験を考えることができる。禁煙の促進、出生率の向上、自殺率の低下、女性の地位向上、学力の向上、生活習慣病の予防、より一般的に各種の補助金の効果など、多様な政策への応用が考えられる。
 商品のマーケティングにも応用できるだろう。たとえば、ランダムに選んだ顧客グループごとにダイレクトメールの内容を変えて、反応の違いを統計的に観察してみるわけである。市民や顧客に何を提案したら目標を達成できるのか、科学的に効果を計測しよう、ということだ。
 発展途上国でも日本でも、多くの政策は「思い込み」や「期待」だけで実行に移され、客観的な効果は検証されないままである。しかし、デュフロ氏たちのチームの活発な活動が推進力となって、途上国のあちこちでRCTが大規模に実施されるようになってきた。
 2010年以降も、デュフロ氏のチームは世界で実験を繰り返している。デュフロ氏のホームページを訪問すると、すべて英語ではあるが、彼女が執筆に参加した論文の多くをダウンロードして読むことができる(https://economics.mit.edu/faculty/eduflo/papers)。実験がどこまで広がっているか、どのような結果が報告されているか、ワンクリックで最新の状況がわかる時代になった。このようにRCTが普及してきた今だからこそ、RCTには何ができて、何ができないかを整理しておくことが大切だろう。
 デュフロ氏は貧困を解消する「魔法の杖は存在しない」というメッセージで締めくくられているが、最近は、RCTが万能の魔法の杖だと勘違いする人も増えている気がする。
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2018年05月20日

低所得化に合わせて基準を下げてよいのか?

 生活保護の8種類の扶助のうち、主たる生活費である生活扶助の基準の見直しを厚生労働省が昨年12月に決めた。2018年10月から20年10月にかけ、3段階に分けて実施される。
 見直しの影響は、世帯の人数、年齢構成、居住地域によって異なり、今より基準額が増える世帯もあるが、減る世帯のほうがはるかに多く、最大では5%下がる。生活扶助の総額で見ると、1.8%のマイナス。13年8月から15年4月にかけて平均7.3%(最大10%)の大幅引き下げが行われたのに続くダウンになる。
 なぜ、そうしたのか。簡単に言うと、低所得層(消費支出が最下位10%の世帯)の消費水準に合わせて基準を見直した結果だ。国民の生活水準が全般に低下してきた中で、貧しい層の動向に合わせるというやり方で、「健康で文化的な最低限度の生活」は守られるのか。
 見直しによって、生活扶助の基準額が具体的にどう変わるのか。大まかに見ると、大都市部、高齢単身者、子どもの多い世帯はもっぱらマイナスになり、地方の郡部、夫婦だけの世帯、子供1人の世帯ではプラスの傾向である。それで全体としてダウンするのは、生活保護世帯は大都市圏に多く、しかも高齢単身者が多いからである。厚労省の推計によると、生活扶助額が上がる世帯は26%、変わらない世帯が8%、下がる世帯が67%となっている。
 全体の金額で影響を見ると、3段階の見直しが完了した段階で、生活扶助の本体部分の国負担額は年間でマイナス180億円、子供のいる世帯への加算額の見直しがプラス20億円。差し引きマイナス160億円となっている。18年度予算の概算要求で生活扶助の国負担見込み額は9056億円なので、それと比べると1.8%のダウン。生活保護費の国の負担割合は4分の3なので、実際の生活扶助費の総額は年間213億円のマイナスになる。それだけでなく、基準が下がると保護対象となる世帯が減るので、削減額はさらに大きくなる。
 生活保護の基準は厚労省が告示で定めている。どういう方式で生活扶助の基準を改定するか、ルールは決まっていないのだ。今回、現行の基準が適切かどうかの検証作業は、16年5月から社会保障審議会生活保護基準部会で行われたが、多くの委員から「新たな検証方式を考えるべきだ」といった意見が出た。しかし、事務局の厚労省保護課が主導して「水準均衡方式」で検証作業を進めた。
 水準均衡方式でも、どの層の消費実態を参照するかはいくつかの選択肢があるのだが、用いたのは最下位10%の層だ。総務省の全国消費実態調査のデータ(14年調査分)で、消費支出が最も低い10%の世帯(うち生活保護と見られる世帯は除外)の消費支出の状況を見て、それを生活扶助の基準と比べたのである。その検証結果をあてはめて生活扶助の基準を修正すると、最大13.7%の減額になる世帯が出るところだが、厚労省は影響の大きさを考えて、下げ幅にキャップをかぶせ、最大5%に抑えることにして公表した。
 ただし、 基準部会の報告書 は、検証結果を1つの試算として示しただけで、基準をどうするべきだという意見は述べていない。厚労省による最終的な基準改定の内容も、基準部会には諮られていない。つまり今回の見直しは、基準部会の委員になった専門家の合意を経た内容ではなく、あくまでも厚労省による政策決定なのだ。
 最下位10%の層に合わせる水準均衡方式には、大きな問題がある。最も貧しい層の中には、最低限度を下回る暮らしの世帯が相当含まれるからなのだ。生活保護の要件を収入・資産の両面で満たす世帯のうち、実際に保護を利用している割合(捕捉率)は2〜3割と見られる。恥の意識、福祉事務所の冷たい対応、保護を受けるために自動車を手放すと暮らせないといった事情で、厳しい生活に耐えている貧困層。その低すぎる生活水準に生活保護を合わせることになりかねない。
 そして、国民の生活水準の低下傾向が続く中で、最も貧しい層との比較を続けると、保護基準が際限なく下がり続けてしまう。「健康で文化的な最低限度の生活」に必要と考えられる費目を積み上げるマーケットバスケット方式を改めて用いるなど、何らかの形で絶対的なラインを設定するべきではないだろうか。この問題は、基準部会の報告書も強調している。
 生活保護の基準の改定は、政府が国民に最低保障する生活水準(ナショナルミニマム)が変わるということです。いま安定した暮らしの人でも、病気、けが、死別、失業など何らかの事情で生活に困る可能性があります。そのとき基準額が下がっていると、政府が確保してくれる生活水準が低くなるわけです。具体的には、三つの面で影響が生じます。
  第1に、現に生活保護を利用している世帯が受け取る額が減る。
  第2に、生活保護を利用できるラインが下がる。収入が基準額より少し低い水準の世帯は、これまでなら利用できた保護を受けられなくなる。
  第3に、保護基準の引き下げは、他の制度にも影響する。
 住民税の非課税限度額、就学援助の基準、最低賃金、大学の授業料・入学金の減免などは保護基準を参照して決められる。介護保険料の区分、介護施設入所中の食費・居住費も保護基準に連動する部分がある。また、住民税の非課税限度額が下がると、医療保険の高額療養費制度、入院中の食費、障害者福祉、障害者や難病患者の医療費、保育料など、数多くの制度の負担区分に影響が及び、これまでより負担の増える世帯が出てくる。保護を受けていない人々にとっても他人事ではないのだ。

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2018年05月19日

「生活保護費」を搾取する貧困ビジネスが横行、行政も黙認…返還命令判決が一石投じた

「貧困ビジネス」で生活保護費を搾取されたとして、男性2人がかつて入居していた宿泊施設側に対して、保護費の返還などを求めた訴訟の判決がさいたま地裁であった。脇由紀裁判長は「生活保護法の趣旨に反し、違法性が高い」として、施設の経営者に計約1580万円の支払いを命じた。
 路上生活をしていた男性2人は、2005年から2010年にかけて、この経営者が運営する埼玉県内の宿泊施設に入居した。生活保護費を施設側にわたす代わりに食事の提供を受けたが、手元には月2万円ほどの小遣いしか残されなかった。また、6畳程度の部屋を2人で使用し、食事は安価で栄養バランスを欠いたものだったという。
裁判で被告となった埼玉県内にある『株式会社ユニティー』は、有名な悪徳貧困ビジネス業者。
『救済係』と呼ばれる従業員が、東京都の新宿や上野などで、路上生活者らに対し、『埼玉に福祉の寮があるので来ませんか』『1日500円あげるよ』『3度の食事は心配しなくていい』などと声をかけて、勧誘していた。
 それに応じた路上生活者らは、埼玉県内にあるユニティーの寮に連れて来られて、そこから福祉事務所に生活保護を申請し、ユニティーの寮で生活をしていた。
 しかし、生活保護費はすべてユニティーが没収し、入所者には1日500円が渡されるだけ。食事や居住環境も劣悪で、食事の材料のお米はくず米といっていいほど、粗末なものだった。」
判決では、生活保護が憲法25条に基づいて「健康で文化的な最低限度の生活」を保障していることを確認したうえで、「被告は、原告らから生活保護費を全額徴収しながら、原告らに対して、生活保護法に定める健康で文化的な最低限度の生活水準に満たないサービスしか提供せず、その差額をすべて取得していたのであり、かかる被告の行為は、生活保護法の趣旨に反し、その違法性は高い」と断じた。
 さらに、『結局、被告の本件事業は、生活保護費から利益を得ることを目的とし、路上生活者らを多数勧誘して被告寮に入居させ、生活保護費を受給させた上でこれを全額徴収し、入居者らには生活保護基準に満たない劣悪なサービスを提供するのみで、その差額を収受して不当な利益を得ていたと認めた。
 そのような内容の契約は公序良俗に反し無効であり、被告がおこなったことは「原告らの最低限度の生活を営む権利を侵害」しているとして損害賠償の支払を命じたのである。
 また、原告のうち1名は、被告が経営する工場で働かされていた際、指を切断する大ケガをしたことから、この点についても被告に責任があるとして、損害賠償の支払が認められた。
 この判決は、生活保護の利用者を食い物にしている貧困ビジネス業者の行為を「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を侵害する違法なものと断じた点で画期的なものである。
 そして、このような業者が大手を振って存在していることを黙認(場合によっては積極的に利用)している福祉事務所(行政)に対しても、警鐘を鳴らすものといえるのだ。
 公園や駅構内などで、路上生活を余儀なくされている人に対して、いわゆる貧困ビジネス業者が声をかけ、生活保護を受給させたうえで、保護費の大半をピンハネする被害が相次いでいる。
 このような業者は、住まいやお金がなく生活をしていくのが困難な人に対して、あたかも救済してあげるかのようなそぶりをみせながら、実際には劣悪な施設に住まわせ、食事なども粗末なものしか提供しないなど、貧困状態にある人々を食い物にしているのである。
 貧困ビジネス業者からしてみれば、「野宿するよりましじゃないか」「食事も住む場所も提供しているのに文句を言うな」とでも思っているのかもしれないが、法律にしたがって生活保護制度を受給すれば、ピンハネされることなく生活保護を受給でき、アパートに住むことも可能なのだ。
 わざわざ貧困ビジネス業者のお世話になる必要はまったくない。貧困状態にある人を食い物にする貧困ビジネス業者が跋扈することを許さないためにも、生活保護制度をはじめとする制度を周知し、使いやすくすることが重要なのである。
 今回の件は、貧困ビジネスをおこなう民間の悪徳業者の責任が問われた。ただ、忘れてはならないのは、こういった貧困ビジネス業者の存在を許し、場合によっては積極的に利用している行政(福祉事務所)の存在である。
 生活保護制度は、この判決がいうように、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』(憲法25条)を保障するための制度であり、生活に困窮したら誰でも、貧困になった理由に関係なく、いつでも「権利」として利用することが可能な制度なのである。
 住まいのない人に対しては、個室のアパート等の安心できる住居を保障することが国家の責任として定められている(居宅保護の原則)。にもかかわらず、現状では、ホームレス状態の人が、生活保護を申請してもアパートへの入居を認めずに、劣悪な施設への入所を行政(福祉事務所)が積極的にすすめているという実態がある。今回の判決は、このような施設収容を前提とした生活保護行政のあり方にも一石を投じたという意味でも、非常に画期的だったのではないか。
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2018年05月18日

責任は「本国」にあり

 在日が訴えた訴訟の判決には次のような部分もある。
 「社会保障は、その社会を構成する者に対し、実施されるべきであるとの一面を有しているが、そのことをもって、国籍の有無に関係なく、在留外国人も自国民と全く同一の社会保障を受ける権利を有しているとまではいえない。また、仮に、在日韓国・朝鮮人が、その本国政府から何らかの救済措置を講じられないとしても、そのことをもって、我が国が、原告ら在日韓国・朝鮮人に対し日本国民と全く同一の社会保障を与える法的義務があると解する理由とはならず…」
 「日本に在留する外国人の社会保障につき、第一次的に責任を負っているのは、その者らの本国である」のであり、「仮に、在日韓国・朝鮮人が、その本国政府から何らかの救済措置を講じられない」のであれば、日本の政府が動かざるを得ないが、それはあくまでも本筋ではない。韓国併合百年に当たっておかしな謝罪談話を出すことよりも、現に困窮している無年金者を救済することこそが先決ではないか。また、被告らの支援者も国籍をなきものとするというイデオロギーは差し置いて、被告らを救済すべく韓国政府に働きかけることではないか。
 韓国はかつての貧しい韓国ではない。経済的にも豊かになっている。韓国政府に対し、在日韓国人の社会保障について第一次的に責任を負う存在としてしかるべき対応をするよう、日本政府も在日韓国人の諸団体も日本の支援者も働きかける必要があるのではないか。それをしないで「国籍差別」であるとして日本の政府に日本国民と同一の待遇を求めるのは筋違い以外の何ものでもない。
 参政権との関係でもしばしば問題とされることだが、判決は社会保障と税金の納付との関係についても述べている。
「在日韓国・朝鮮人が、日本に対し、租税を納付しているとしても、租税は、国又は地方公共団体が、その課税権に基づき、特別の給付に対する反対給付としてではなく、これらの団体の経費に充てるための財源調達の目的をもって、法律の定める課税要件に該当するすべての者に対し、一般的標準により、均等に賦課する金銭給付であり、租税の納付と社会保障の享受とは直接の対価関係にはない」「租税を納付していることをもって、我が国が、在日韓国・朝鮮人に対し日本国民と全く同一の社会保障を与える法的義務があるということはできない」
 税金が行政サービスの対価であり、外国人にも自国民と等しく適用されるのに対して、社会保障はあくまで第一義的には自国民を対象にしたものであり、外国人に自国民と同一の社会保障を受けさせる権利を保障したものではないということだ。政府や地方自治体の関係者にはここで示された考えを正確に理解してもらいたい(判決の「社会保障」は「参政権」と言い換えられることはいうまでもない)。
 こうして日本国民と同一の年金の保障を受けたいという彼らの要求はこのような判決もあってひとまずは阻止されている。ところが、彼らは一方で全国の地方自治体に対して、在日韓国・朝鮮人に年金の代わりとして「福祉給付金」ないし「特別給付金」を支給するよう働きかけている。民団が組織として行っていることもあって現在、全国で800以上の自治体が支給している。金額は月額5千円から3万数千円(神戸市)までである。
 いっそう問題なのは、在日韓国・朝鮮人の無年金者が、年金が受給できないとなると今度は生活保護の申請をし、そのほとんどが受理されていることである。大阪市では外国人の受給者が2010年に1万人を突破したが、その92%が在日韓国・朝鮮人である。国民年金に加入していない「無年金世代」が高齢化したことがその理由と見られている。
 また、生活保護受給者が、まじめに保険料を納めた年金受給者よりも国から多額の資金を受け取るという不公平な実態も浮かび上がっている。これは在日中国人による生活保護不正受給よりも、人数においても金額においても深刻な問題である。
 繰り返すが、在日韓国人の社会保障は第一義的には本国である韓国政府が行うべきことだ。日本政府にはこの件について韓国政府と早急に話を付けて欲しい。在日中国人の生活保護不正受給には毅然とした対応をした大阪市にも在日韓国・朝鮮人の問題でも改めて国に要請してもらいたい。
 政府は事業仕分けでみみっちく歳出を削るのもいいが、本来は本国が行うべき社会保障の費用が国費から莫大な金額で失われていることにもっと留意すべきだ。さもなければ、我が国は在留外国人によって食い潰されることになる。
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2018年05月17日

見え隠れする朝鮮総連の影

 在留外国人の無年金問題もある。国民年金法は農業者、自営業者等を対象にした制度として昭和34年11月1日に施行されたもので、老齢、障害または死亡について必要な給付を行う社会保険制度である。
 日本国内に住所を有する20歳以上60歳未満の日本国民が原則として被保険者とされ、被保険者が保険料を納付し、それを主な財源として拠出するという拠出制を前提としていたが、国庫も毎年度、国民年金事業に要する費用に当てるため一定額を負担することにされていた。
 昭和60年の国民年金法改正により、国民年金の適用は全国民に拡大され、全国民共通の基礎年金を国民年金制度から支給することとし、その上に厚生年金や共済年金の被用者年金制度から所得比例等の年金を上乗せするという「2階建て」の体系に公的年金制度が再編、統一された。
 ここで問題となるのは在留外国人に対する対応である。発足当時の国民年金制度は、被保険者の資格について前記のように「日本国内に住所を有する20歳以上60歳未満の日本国民は、国民年金の被保険者とする」(国民年金法第7条第1項)と規定し、日本国籍のない在留外国人を老齢年金の支給対象から除外していた。昭和56年、「難民の地位に関する条約」を批准したことに伴って制定された関連法規の「整備法」により、「日本国民」の文言が「者」に改められ、国籍条項が撤廃された。これは難民に限って国民年金法を適用することは公平の観点から適当でないことに鑑みて在留外国人にも適用されたものである。
 しかし、他方、整備法附則4項では国籍条項が撤廃された効果は過去にまで遡及されないことも明記された。
 以上のような経緯の中で、一部の在日韓国・朝鮮人が、国民年金に加入しなかったことから無年金状態となり、国民年金が支給されないのは「国籍差別」であるとして国に対して各地で裁判を起こした。
 2009年2月3日、一連の裁判のうち最後に最高裁で判決が確定した事案では、原告5人のうち3人は整備法の施行日である昭和57年1月1日当時および新国民年金法の施行日である昭和61年4月1日当時、既に60歳以上で、20歳以上60歳未満という被保険者の資格要件を充たさなかったために、国籍条項の撤廃後も国民年金に加入することができなかった。残る2人は国籍条項撤廃後、年齢の上では国民年金の被保険者資格を有していたが、国民年金に加入しなかったというものである。
国民年金の保険金を一切払うことなく、年金だけはもらいたいというのは虫が良すぎるし、それが適わないと「国籍差別」だと主張するというのではあまりに身勝手というものだ。またはじめから、保険金を払う気もなかったのに「国籍条項」で加入できなかったと主張するもの後から取って付けた理由だというしかない。
 この裁判の最高裁確定判決(原審・京都地方裁判所、平成19年2月23日、控訴審・大阪高等裁判所、平成20年4月25日)を見てみよう。そこでは原告らの主張を退ける理由を前記の塩見訴訟判決を踏まえながら次のように言ってのけている。 なお、この一連の裁判には朝鮮総連の姿が見え隠れしている。「在日外国人高齢者・障害者無年金問題のページ」を運営する「都市問題研究所・日朝友好促進京都婦人会議」(京都市左京区)のホームページには「日朝友好」の言葉や「共同アピール 民族差別・外国人排斥に反対し、多民族共生社会をつくりだそう!朝鮮学校攻撃を許さない!」というスローガンが掲載されている。共同アピールには朝鮮総連の友好団体や個人が名を連ねている。
 彼らはただただ日本政府に日本国民と同一の社会保障を与える法的義務があると主張するだけである。そして裁判所に退けられると次には日弁連に人権救済申し立てを行い、それを受けて日弁連は2010年4月7日、厚生労働大臣、内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長に会長名で勧告書を提出している。また、国連人権委員会でのロビー活動も活発化させている。 
 しかし、被告らは韓国政府にはそのようなことを求めない。韓国では1988年に国民年金制度が始まっているが、彼らはそれに加入することも求めない。また、被告らを支援していると思われる民団なり朝鮮総連なりが在日韓国・朝鮮人を対象にした独自の共済年金制度を設けているという話も聞かない。なかなか思い切ったことをいった判決である。確かに「日本に在留する外国人の社会保障につき、第一次的に責任を負っているのは、その者らの本国である」。その通りである。日本政府が行っている社会保障は第一義的には当然、日本国民を対象にしているのであって、在留外国人を対象にしているのではない。韓国籍の人々の社会保障について第一次的に責任を負っているのは韓国政府である。当然のことである。
「憲法25条2項は、その性質上、我が国の在留外国人にも一定の限度で適用され得るものであるが、他方で、日本国民の社会保障につき、第一次的に責任を負っているのは我が国であるのに対し、日本に在留する外国人の社会保障につき、第一次的に責任を負っているのは、その者らの本国であるから、社会保障上の施策において在留外国人をどのように処遇するかについては、我が国は、特別の条約の存しない限り、当該外国人の属する国との外交関係、変動する国際情勢、国内の政治・経済・社会的諸事情等に照らしながら、その政治的判断によりこれを決定することができるのであり、その限られた財源の下で福祉的給付を行うにあたり、日本国民を在留外国人より優先的に扱うことも許されると解される」
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2018年05月16日

国民と在留外国人を区別するもの

 「日本国民と在留外国人たる在日韓国人の社会保障上における法的地位を平等に扱え」
これが在日の主張である。しかし、最高裁は、社会保障はあくまで国家を前提として国家が積極的な福祉的給付を行うことであるから、国家の構成員である自国民と在留外国人は区別せざるを得ないと判断したのである。
 これは地球の上に国境があり、誰もがどこかの国家に帰属し、その国籍を有するという近代社会における論理的な帰結である。また、本来、社会保障というのは、「国民の共同連帯」によって成り立つものでもある。
塩見訴訟の判決でも最高裁は国民年金制度について次のように述べている。
「国民年金制度は、憲法25条2項の規定の趣旨を実現するため、老齢、障害又は死亡によって国民生活の安定が損なわれることを国民の共同連帯によって防止することを目的とし、保険方式により被保険者の拠出した保険料を基として年金給付を行うことを基本として創設されたものである」
 ここでいう「国民の共同連帯」は単に同じ地域に住んでいるということから生じるものではない。敢えていえば、防衛共同体ないし運命共同体としての国家の構成員として他の者と連帯し、相互扶助を行うということから生じると考えるべきだ。防衛共同体ないし運命共同体としての国家の構成員とは、「その国のために死に得る存在」であるということであり、その国に「国防の義務」を負う存在であるということでもある。そして防衛共同体ないし運命共同体としての国家の構成員であることの指標が国籍ということなのである。
 要するに国籍を有するということからその国家への共同防衛の義務が生じ、その共同連帯の対価として社会保障の権利が保障されると考えるべきなのである。そのことは日本においても近代的社会保障が明治8年の軍人に対する年金制度に始まり、それが徐々にその対象を軍人から民間人へと広げていったことからも分かる。
 同じ地域に住みながらも国籍によって自国民には国防の義務が生じ、在留外国人にはその国への国防の義務が生じないのと同様に、社会保障においても自国民と在留外国人は区別されなければならないのである。それはその在留外国人の生活の本拠が日本にだけあるだとか、母国語はできず、日本語しかできないとか、交友関係が日本人だけだとかといった個々の事情とは何の関係もないことである。近代社会における国籍が異なることから生じる論理必然の帰結なのである。
 在日韓国・朝鮮人のことを「外国籍を持ちながら外国人意識が稀薄であるという国籍ボケ」と断じたのは首都大学東京教授の鄭大均氏だが(『在日韓国人の終焉』文春新書)、塩見訴訟の原告の女性も「国籍ボケ」以外の何ものでもない。国籍が何を意味するのか、国籍が異なることからどのようなことが生じるのかということについての理解がまるでなされていない。
 このことは何もこの女性に限られたことではない。本国への帰属意識を強烈に持つ一部の者を除く圧倒的多数の在日韓国・朝鮮人もそうだし、当の日本国民にしても「日本国籍を持ちながら日本人意識が稀薄であるという国籍ボケ」に陥っている。生活に困窮する外国人に慈しみの心をもって生活保護や年金などの生活扶助が必要と考えるのは日本の優しい国民性の現われだが、在留外国人を日本国民と同様に考え、両者の区別を「国籍差別」や「民族差別」と理解する日本国民も多い。しかし、それこそが「国籍ボケ」というべきものである。
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2018年05月15日

「差別論」も明確に否定

 社会保障において日本国民と在留外国人を区別し、場合によっては在留外国人に対する社会保障を限定するか行わないことに対しては以前から強い批判がある。とりわけ在日韓国・朝鮮人から日本国民と自分たちを区別するのは「国籍差別」であり、憲法や国際法によって禁止されているとの主張がなされてきた。
 実際、先に挙げた塩見訴訟は、子供の頃、「はしか」にかかって失明した韓国人の女性が、後に日本国籍を取得し、障害者年金の受給を申請したが、失明した際に日本国籍でなかったことから国籍条項に引っ掛かり、申請が却下されたことから起きたものだ。気の毒なケースであり、何らかの救済が必要と思うが、女性側の裁判での主張は、もっぱら日本国民と在日韓国人という自らのかつての身分は平等に扱われるべきものだということで、国籍を重視しない、国籍を無にする方向で行われてきた。
 女性側が根拠に挙げたのは、憲法第14条第1項の「法の下の平等」や世界人権宣言、国際人権規約、ILO条約であったが、これらはことごとく最高裁によって退けられている。詳しくみてみる。
(1)憲法第14条第1項の法の下の平等の原則は「合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであって、各人に存する経済的、社会的その他の種々の事実上の差異を理由としてその法的取扱いに区別を設けることは、その区別が合理性を有する限り、何ら右規定(憲法第14条第1項)に違反するものではない」ので、国籍に違いによる「取扱いの区別については、その合理性を否定することができず」、憲法第14条第1項に違反するものではない。
(2)ILO第102号条約(社会保障の最低基準に関する条約)第68条1の本文は「外国人居住者は、自国民居住者と同一の権利を有する」と規定しているが、その但し書きは「専ら又は主として公の資金を財源とする給付又は給付の部分及び過渡的な制度については、外国人及び自国の領域外で生まれた自国民に関する特別な規則を国内の法令で定めることができる」としており、「全額国庫負担の法(国民年金法)81条1項の障害福祉年金に係る国籍条項が同条約に違反しないことは明らかである」。
(3)国際人権規約A規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約)第9条について「この規約の締結国は、社会保険その他の社会保障についてすべての者の権利を認める」と規定しているが、「これは締約国において、社会保障についての権利が国の社会政策により保護されるに値するものであることを確認し、右権利の実現に向けて積極的に社会保障政策を推進すべき政治的責任を負うことを宣明したものであって、個人に対し即時に具体的権利を付与すべきことを定めたものではない」。したがって、「同規約は国籍条項を直ちに排斥する趣旨のものとはいえない」。
(4)ILO第118号条約(社会保障における内国民及び非内国民の均等待遇に関する条約)については我が国はいまだ批准していない。
(5)国際連合第3回総会の世界人権宣言、同第26回総会の精神薄弱者の権利宣言、同第30回総会の障害者の権利宣言及び国際連合経済社会理事会の1975年5月6日の障害防止及び障害者のリハビリテーションに関する決議は、国際連合ないしその機関の考え方を表明したものであって、加盟国に対して法的拘束力を有するものではない。それゆえ、国籍条項を直ちに排斥する趣旨のものではない−といったものである。
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2018年05月14日

国民優先の政治的判断を認めた最高裁判決

 生活保護を含む社会保障において外国人をどのように扱うかについて整理しておこう。最高裁は日本の憲法が保障する基本的人権について「憲法第三章の規定する基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみを対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべき」としている(マクリーン事件判決、昭和53年10月4日)。判決文というのは独特の言い回しをするもので、要するに日本国民のみを対象とし外国人には保障されない権利と、外国人にも日本国民と同じように保障される権利との2種類があるということだ(権利性質説)。
 その日本国民にのみ保障され、外国人には保障されない権利の代表として一般に挙げられるのは「入国の自由」「政治活動の自由」「参政権」「社会権」である。外国人に日本への入国の自由を認めてしまえば、日本はもはや主権国家とはいえないし、政治活動の自由も同様である。外国人に公の意思の形成に関わる参政権を認めれば、これまた主権国家たり得ない。社会権は国家に積極的な福祉的給付を求める権利であるから国家の存在を前提としており、国家の構成員である「国民」のみを対象としている。社会権が「後国家的権利」、すなわち国家の存在を前提として成り立つ権利と呼ばれるのはそのためである。
 もちろん外国人にも社会保障を行うこともある。しかし、それはあくまで在留先の国家による恩恵的措置であって、外国人がその権利に基づいて社会保障を求めることはできないと考えられている。
 では、日本では、在留外国人への社会保障はどのような基準に基づいて行われているのだろうか。最高裁には次のような明確な判決がある。
 「国は、特別の条約の存しない限り、当該外国人の属する国との外交関係、変動する国際関係、国内の政治・経済・社会的諸事情等に照らしながら、その政治的判断によりこれを決定することができるのであり、その限られた財源の下に福祉的給付を行うに当たり、自国民を在留外国人より優先的に扱うことも許されると解される」(塩見訴訟判決、平成元年3月2日)
 最高裁は憲法の解釈として自国民と在留外国人は区別されるものであり、社会保障において自国民を優先することも許されるという考えを示しているのである。ついでにいえば、ここには在留外国人の社会保障については本来的にはその国籍を有する本国が行うべきものであり、日本がただちに在留外国人に社会保障をすることを求められるわけではないということも含意されている。
 この最高裁の判断は極めて常識的なものであり、この判決の趣旨を政府は徹底させるべきだ。特に「限られた財源の下」という部分は国や地方自治体の財政が逼迫している今日、判決時よりもいっそう切実味を増している。財政が豊かで余裕のある状況では外国人にも恩恵的な社会保障は可能であったが、今日ではそれも難しくなっている。まして目まぐるしい経済発展によって経済的にも日本を凌駕しようとしている近隣諸国の国民に社会保障上の恩恵を施すというのは本末転倒であり、日本の国民の理解も得にくくなっている。
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2018年05月13日

不正受給対策に消極的な厚労省

 大阪市は、メディアにも公開して問題提起した理由を次のように述べている。
 @ 入国管理法では『生活上国又は地方公共団体の負担となるおそれのある者』は入国を拒否することになっているにも関わらず、今回のケースでは日本に入国してすぐ生活保護を申請している。このことから、法の趣旨を大きく逸脱した、在留資格の審査がなされている可能性がある。
 A 厚生労働省の通達(「通知」の間違いか)では、形式的に在留資格を得ているだけで、生活保護制度を準用することになっている。
 B 結果的に、本市に何の裁量権もなく、生活保護法を適用しなければならないというのでは、市民の理解は得られにくく、また、4分の1の財政負担を余儀なくされる大阪市としても納得できるものではない。
 C 人道上の観点から、中国残留邦人の子孫の方たちの処遇をどう考えるのかという問題は国の責任において、別の制度、施策を設けて対応すべきものであり、生活保護の準用の是非という観点だけで本市に判断を委ねるのは大きな問題である。
 もっともな問題提起である。地方自治体レベルではいかんともしがたい事態だからだ。なお、前掲の大阪市への厚生労働省の回答は生活保護の受給を目的とした入国であることが明らかである場合には生活保護法は準用しない旨を記したものだが、「これは今回の大阪市の個別の事案の照会に対する回答であり、一般に適用されるものではないという見解である」(大阪市「国に対する要請の趣旨(大阪市における中国国籍の方の生活保護集団申請を受けて)」、8月4日)という。これから起こるであろう、いや既に起きているであろう外国人による生活保護費の不正受給について厚生労働省は有効な手を打つ意思がないということだ。
 そのため大阪市は、「同種の事態は全国において生じることが想定される」(同上)ことから国に対して要請を行っている。具体的には厚生労働省に対して「中国残留邦人の2世、3世に対する支援のあり方」「今回の事案に対する人道的観点からの配慮」「生活保護の準用に関する全国的な取り扱い」、法務省に対して「定住を認める中国残留邦人の2世、3世に対する支援のあり方に関する方針の策定」「入国管理法の趣旨を踏まえた厳格な運用の徹底」、総務省に対して「中国残留邦人の子孫に対する支援などの施策に関して、地方自治体に負担を強いることのないよう、適切な対応を関係省庁に要請する」といったものである。生活保護行政の実際を担う地方自治体として国の無作為に対して異議申し立てをした格好である。
 この不正受給に対しては在日中国人に向けた新聞(華字紙)も強い関心を示し、特集を組むところもあった。中には生活保護申請の詳細を紹介するなど「生活保護のススメ」のような内容のものもあった。この点について中国出身の評論家、石平氏は「中国国内では生活に困窮している人は何億人もいる。華字紙の特集には、中国人永住者や帰化した人らに対し『中国からどんどん家族や配偶者らを呼び寄せ、すきを突いて生活保護をもらえ』というメッセージや発想が感じられる」と述べている。
 まさにこのケースでは「すきを突いて」生活保護を受給しようとしたものであり、政府はこの事態に対して具体的な対策を講じる必要がある。現状では私たちが経済の厳しい状況下でも納めた文字通りの゛血税″が不正に外国人や一部のブローカーに流失する回路を残していることになる。
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法の抜け道と役所の形式主義が招いた事態

 2010年、大阪市に住む70代の姉妹2人の親族の中国人48人がに日本に入国した直後、そのうち46人が市に生活保護の受給を申請し、32人が既に受給していることが新聞記事になった。姉妹は中国残留孤児と見られ、2008年、中国・福建省から来日後、日本国籍を取得した。この姉妹の介護名目で同省から親族を呼び寄せ、大阪入国管理局が審査した結果、1年以上の定住資格を得たという。入国審査の際、48人は扶養する第三者の身元引受人を用意して在留資格を得たが、外国人登録後、46人が市内5区に「身元引受人に扶養してもらえない」として生活保護を申請。いずれも日本語は話せず、申請窓口には同じ不動産業者が付き添っていたという。生活保護を食い物にするブローカーの存在が窺えるというわけだ。
「出入国管理及び難民認定法」には「生活上国又は地方公共団体に生活上の負担となるおそれのある者」は「本邦に上陸することができない」(第5条第1項第3号)とされている。大阪市はこの中国人らのケースに生活保護法を準用することは同法の趣旨に反するとともに、本来、原則として外国人には適用されない生活保護法の趣旨にもそぐわないのではないかと懸念を示し、厚生労働省に対して生活保護法の準用の是非について照会を行い、一方で大阪入国管理局に対して在留資格の調査を申し入れた。同時にマスメディアに公開し、問題提起を行った。
 生活保護法はその目的を「日本国憲法第25条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長すること」(第1条)とする。あくまで対象は「国民」すなわち日本国籍保持者である。しかし、昭和29年5月8日付の各都道府県知事あての厚生省社会局長通知「生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について」には、「生活保護法(以下単に『法』という。)第1条により、外国人は法の適用対象とならないのであるが、当分の間、生活に困窮する外国人に対しては一般国民に対する生活保護の決定実施の取扱に準じて左の手続により必要と認める保護を行うこと」と記されている。そこから生活保護法は外国人にも「当分の間」、準用されることになっているのだ。
 この通知は「現在も有効」(「参議院議員加賀谷健君提出外国人の生活保護に関する質問に対する答弁書」で、、厚生労働省は大阪市に対しての回答で「生活保護制度における外国籍を有する方の取扱いについては、『生活に困窮する外国人に対する生活保護の措置について(昭和29年5月8日社発第382号厚生省社会局長通知。以下「通知」という。)』において示すとおりであり、照会にある外国籍を有する方が通知において示す外国籍の方に該当する場合は、通知のとおり取り扱われるべきであり、保護の実施に要した経費については、同法の規定に準じ、国に対してその4分の3を請求することができる」と述べたのである。
 以上のケースは、在日中国人が第一段階として経済難民の入国を拒否する入管法を、第二段階として外国人にも準用される生活保護法を、それぞれ法の抜け道をすり抜け、他方、形式主義のお役所仕事がそれを許して受給に至ったものである。
 実際、入管の担当者は「身元引受人がきちんと扶養しているかどうかを継続的にチェックする制度はない。悪質な虚偽申請と見抜き、許可を取り消すのは現実的には難しい」と話し、大阪市も「生活保護の受給を前提に入国した可能性があり、極めて不自然」としながらも「入国を許可され、受給申請も形式的に要件が整っている以上、現段階では法的に支払いを保留することもできない」と述べたのだ。私たちの納めた血税が法の抜け道をすり抜けて彼らに流れた格好になるのだ。その後、2018年現在においても制度がそのまま維持されているのである。
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2018年05月10日

貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根だ! 1

 貧困や犯罪が自己責任に帰着する現象であったとしても、ホームレスや犯罪者が貧困や再犯に陥らないように支援することは十分に正当化される。
 しかし、新自由主義者等は、自己責任だから個人で何とかすべきであり、国家や市民からの社会的援助を受けるのは道徳的に間違いであるという発想をとる。反対に、自己責任論神話からホームレスや犯罪者を守るために、社会責任説をとり、ホームレスや犯罪者を社会的弱者・社会的犠牲者として捉え、道徳的正当性を担保しようとする者もいる。これは、知識社会学的には、戦後の左翼思想と同根の道徳観に基づいている。社会的弱者・社会的犠牲者は守るべきであるという道徳観である。
 ところが、皮肉なことに、貧困と犯罪の自己責任説を論破しようとする論客たちは、(自己責任=個人責任/自己責任でない=社会責任)という区別に準拠して議論し、社会責任という項をマークし、自己責任論者を否定しようとすることで、自ずとその反対者と同一の地平にいることになってしまうのである。
 つまり、自己責任論者も社会責任論者も、(自己責任/自己責任でない)という同じ区別に準拠している。マークする項は反対でも、同じ区別に準拠して議論している限り、反対者を逆に再生産してしまうのである。社会責任と自己責任の二項対立図式に準拠している限り、対立的に互いの存在を必要としてしまうのである。このような区別の論理は、あらゆる差別解放運動につきものである。女性の人権を強調するあまり、逆に男女の区別を強化してしまい、差別解放運動が逆に敵をつくりだしてしまうことはよくある。ニセ科学批判者が(科学/ニセ科学)の区別に拘泥するあまり、ニセ科学批判批判者などの敵をつくりだすのと同じである。
 システム論的には、対立二項図式に準拠する全ての社会運動は、自らが敵を作り出し、永久闘争に陥るのである。このような不毛な対立から抜け出すためには、現象を別の区別から観察する他ない。 
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2018年05月07日

貧困は「人格の欠如」ではなく「金銭の欠乏」である 1

 まずはシンプルな問いかけをする。どうしてお金のない人は 思慮のない選択ばかりするのか。酷な問いかもしれない。しかし、データに表れているのだ。 貧乏な人ほど 借金が多く、貯金は少なく、喫煙者が多く、運動する人は少なく、酒飲みは多く、食習慣も不健康なのだ。それはなぜなのか。世間一般が考える答えを、サッチャー元イギリス首相が 端的に表現した。「貧困は性格上の欠陥だ」と言ったのである。つまり、人格の欠如であるのだと…。
 皆さんならばまず、ここまで あからさまな物言いはしないだろう。しかし 貧困者には何か おかしいところがあると考えるのは サッチャーだけではない。貧乏なのは自業自得だという意見を持つ人もいるはずだ。自ら招いた結果だと、他には選択を間違えないように、助けてやるべきだと言う人もいるだろう。どっちの考え方も 根底にある仮説は同じだ。「本人に何か 、おかしいところがあるのだ」、「変えてやることさえできれば」、「生き方を教えてさえやれたら」、「本人に聞く耳さえあれば」… 正直に言うと、だれもがそう考えがちだ。私がそれは違うと気づいたのは ほの数年前なのだ。
 たまたまアメリカの心理学者数人による 論文を発見したのだ。約1万3千キロも旅し、インドで実施した 非常に興味深い調査についてのものだ。調査対象は サトウキビ農家。何と実はサトウキビ農家では、1年の収入の60%を1回で1度に回収する。収穫の直後に。つまり 1年の中で比較的 貧乏な時期と裕福な時期とがあるのである。研究チームは農家の人々に知能テストを、収穫の前と後に受けてもらった。そうして明らかになった事実は、収穫前の成績は収穫後よりもずっと低かったのだ。貧困生活の影響は、知能指数が14下がるのと同じことであると判明し多のである。分かりやすく言えば 一晩徹夜した後の状態やアルコール依存のようなものである
 数ヵ月後、エルダー・シャフィアという、この研究者の1人であるプリンストン大学の教授が、貧困について提唱する革新的な説を知った。一言で言えば 貧困とは 「欠乏の心理」なのだと・・・。人は不足を認識したとき行動が変わるのだという。何が不足しているかは関係ない。時間 ・お金・食べ物など どれでも同じ。
 やることが多すぎるとか、昼休みを遅らせたせいで、血糖値がガクッと落ちたときとか、目の前の不足以外のものは見えなくなってしまう。例えば、今すぐ食べたいサンドイッチ、5分後に迫る会議、明日払わなければいけない請求書など。こうなると 先を見て考える力が 麻痺してしまう。新しいパソコンで重いプログラムを同時に10個作動させるようなもの。動作がどんどん遅くなり、エラーを連発し、最後には固まる。パソコン自体がダメなのではなく、同時にやることが多すぎるのだ。貧乏な人は同じ問題を抱えている。その人が愚かだから、愚かな選択をしているのではなく、どんな人であっても 愚かな選択をしてしまうような状況に置かれているからだ。
 貧困対策プログラムが うまくいかない理由はこれだった。例えば 教育に資金を投入してまったく効果がないというケースはザラだ。貧困とは 知識の欠如ではないのだ。金銭管理講座の有効性を調べた近年の研究201件を検討したところ、有効性はほぼゼロであるという結論が出た。ただし 誤解しないで欲しい。貧乏な人は何も学ばないという意味ではない。苦労することで賢くなるのは間違いないことだ。しかし それでは不十分なの。シャフィア教授はこう言っている。
「誰かに水泳を教えようとして 最初から荒海に放り込むようなものだ」
 そんなことは、何十年にも前に出せていた結論じゃないか。農家の研究をした心理学者たちは 複雑な脳スキャンなんか必要とせず、労働者の知能指数を測っただけだ。知能テストが発明されたのは、百年以上も前の話である。実は、世界最高の作家の1人であるジョージ・オーウェルは、1920年代に自ら貧困を経験した。オーウェルは「貧困の本質とは 未来を握りつぶすものである」と書いた。自身の驚きから、このようにも書いている。
「収入が一定水準以下の人を見るやいなや 説教だの祈りだのを当然の権利のように始める人がいかに多いことか」
 現代にも非常に よく当てはまる言葉だ。もちろん 誰もが同じことを思うはず。
「何をすればいいのか」
現代の経済学者たちは いくつか対策を提唱している。事務処理を支援したり、公共料金を払い忘れないよ携帯にメールしたりなど…。現代の政治家が 非常に好む解決策だ。たいていの理由は 非常に安上がりだからなのだ。 このような解決策は まさに 現代を象徴しているのではないか。対症療法ばかりで 根本の原因には目を向けていないのである。
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2018年05月06日

生活保護相談を政治利用するな!

 産経新聞を調べると、生活保護費を不正受給した疑いで、病院や診療所を運営する医療生協かわち野生活協同組合(大阪府東大阪市)の支部長ら2人が逮捕された事件で、別の男性支部幹部も不正受給に関与していた疑いがあるとかかれていた。大阪府警が任意で事情を聴いている。支部長は、詐取した保護費について「組合(医療生協)の出資金や生活費、日本共産党の党費に使った」と供述しており、生活保護と政治活動の関係が問われているということになる。
 容疑者等は、他に収入があることを隠して不正受給したのだが、申請時に共産市議が同行していたと報道されている。また最初の摘発時には被告が生協の支部長をしていることがわからなかったこと、容疑者が医療扶助を受けた後に提出する「医療要否意見書」には「就労は難しい」と書かれていたが、作成したのは医療生協が運営する病院だった。
 以前に生保のケースワーカーをしていた人から、生活保護の相談に議員がついて来るケースが多いが、それは事務方とすれば大きな威圧となる、また威圧的発言をされたこともあると聞かされた。言うまでもなく、生活保護は最後のセイフティーネットであり、困窮事由が明らかな場合には受給することができる。つまり、議員が同席しようがしまいが、正当な相談なら正当に適用されるのだ。ところが実際には、現場から聞こえる声はそうではない。その元ケースワーカーによれば、こんなことがあったという。
 ある議員は、相談者が自宅を持っているものを、それを遠方に住む娘の名義に切り替えさせ、相談者が娘に家賃を払っているようにして、ケースワーカー曰く「完璧な商品」に仕立ててから、相談窓口へ相談者とともに訪れ、適用が受けられるまで執拗に担当者に迫ったとのこと。その議員は生活保護の手伝で有名だったそうで、その市では、生活保護なら○○議員が一番だとの評判が定着していた。
 ある研修会があったときに、ある市の議員が私の隣の席で電話していて、「そんなときは、先に離婚しとかんなあきませんねん、とりあえず奥さん、離婚届を出してから、どっかに間借りでもして、住民票もそこへ移して下さい」と悪びれずに話していた。明らかに生活保護の不正受給の手伝に聞こえた。その議員は、そんな胡乱な話を人前で平気にするくらい、恐らく罪悪感もまったくなく、自分の政治活動として、次の選挙の一票のために動いていたのだろう。
 生活福祉の現場ではケースワーカーをはじめ、管理職などすべての職員が、本当に困っている人にきちんと適正な処置をとるように日々努力をしているはずだ。それを議員が邪魔をする。だから、議員が生活保護の相談や申請に同行・同席するのを禁止する、議会自らが襟を正す意味でも、そういう決まりを作るべきではないか。
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2018年05月05日

一億総活躍どころか働きたくても働けない女性

 安倍政権が打ち出している、アベノミクス成長戦略では、“一億総活躍社会”を目指し、また女性が輝く日本を作るためとして、「待機児童の解消」「職場復帰・再就職の支援」「女性役員・管理職の増加」を掲げている。
しかしこれらはその場しのぎのアピールにすぎず、現実にはまだ目に見える成果はほとんどない。それどころか最近の報道でも明らかなように、保育所待機児童対策はあまりにも遅れ、逆に待機児童は増加している。働きたくても働けない女性が増え続けている現状である。
 児童虐待には複数の要因があるが、連鎖を断ち切るにはまず貧困と孤立を防ぐ対策が必要である。中でも貧困に陥っている母子家庭に対して孤立させず必要な支援の提供ができる社会の実現が早急に望まれる。
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2018年05月03日

母子家庭の貧困と男女の経済格差が深刻!

 日本全国の児童相談所における相談対応件数は年々増加し、全国的には約80000におよんでいる(厚生労働省)。虐待は子供の生命をも奪うものであり、その対策は重大な社会的課題である。
 これまで虐待は個人や家族の心理的・倫理的問題として論じられることが多かった。しかし複数の社会的要因があること、そして特に貧困との強い関連性が分かってきた。東京都福祉局の報告(2005年)で児童虐待事例の家庭の状況は1人親家庭31.8%、経済的困窮家庭30.8%となっている。その他、多数の研究報告により虐待の背景に生活基盤の脆弱性があることが推察される。貧困は悪循環し、貧しい家族は次の世代も貧困に陥ることが多い。特に母子家庭において貧困の連鎖が強い傾向がある。
ところで母子家庭の経済状況が特に問題になっているのは、日本社会における男女格差が大きいことも1つの原因である。世界経済フォーラム(WEF)の「男女格差報告」は、性別による格差の大きさ、範囲を示し、各国の経済・政治・教育・健康の男女格差を評価している。日本は対象国136ヵ国中105位であった。日本で男女雇用機会均等法制定後30年経つが、今も世界的にみて異常に男女の賃金格差が大きい。その是正はいっこうに進んでいない。女性の賃金は正社員で男性の約7割にすぎず、パートを含めれば約5割という現状である。
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2018年05月02日

「低所得の人の死亡率は、高所得の人のおよそ3倍」

NHK番組の「私たちのこれから#健康格差〜あなたに忍び寄る危機〜」で衝撃的な結果が発表された。これは2008年に日本老年学的研究プロジェクトというもので発表されたものをもとに放送されたものだ。
 このプロジェクトは65歳以上で要介護認定を受けていない人2万8162人を4年に渡って追跡調査したものである。それによるとその間に死亡した高所得の人が11.2%に対し、低所得の人は34.6%だったのだ。 死亡率で3倍も違うのはとても偶然ではないはず。貧困により「健康」や「食事」に金がかけられないから…。
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2018年05月01日

貧困を活動の道具にしない!

 左翼やリベラルは、貧困問題を政治利用すべきではない。「貧困を解消するために政治に働きかけるのではなく、政治を変えるために貧困問題を利用する」という転倒した構図が散見される。だから、政治活動は支持や力を持ちえないし、失敗してきている。いつになったら自省するのだろか。
 政治家や政党が貧困問題を利用するのは、百歩譲って理解してもいい。しかし、現場の実践者や支援者までも目的を忘れて、政治を変えることのために貧困問題を利用するなら本末転倒なのである。思想・信条を押し付けることなく、真剣に貧困問題を解決するかつどうがひつようではないか。
 左翼やリベラルが現場に軸足を置き、上部構造の政治と連結して「有機的知識人」であったのなら、日本の貧困問題、社会問題はここまで深刻になかったはずだ。面倒くさがらずに、真面目に活動してほしい。
 政治を変えるための基礎となる地道な社会運動や組織化(アソシエーション)、情報発信、福祉実践(ミクロの相談支援活動)もなく、一過性で貧困を取り扱うべきではない。なかなか伝わらないのだが、真剣に考えて欲しい。
 個別名や団体名を挙げたらキリがないが、従前の政権批判や政治批判を目的化した社会活動に傾倒しているものが多く辟易する。貧困問題は結局その道具にすぎないのだ。「貧困問題を悪化させている政治が悪い」と言うだけの活動家が実に多い。それは貧困問題でなくても何でもいいということだ。
 貧困の何が酷いかを説明できるだろうか、よく考えることだ。誰がどのよに苦しんでいるのか。貧困の人が多くいるが接したことがあるのか。本当にできることは「安倍政権を許さない」を叫ぶだけなのか。それで貧困の人が救われるか。単なる自己満足ではないか。あなたたちは無力ではない。方向が違うだけだ。
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