一般的に、貧困には2種類ある、と言われている。1つは、「絶対的貧困」。「絶対的貧困」とは、飢えに苦しむアジアやアフリカの子供たちのように「生きるか死ぬか」というレベルでの貧しさを意味する。国連では、1日2ドル未満の生活を「絶対的貧困」と定義している。2つ目は、「相対的貧困」。今の日本の社会で問題になっているのは、主にこの「相対的貧困」である。「相対的」とは、「他と比べてどうか、という意味。人はみんな社会の一員として生きていている。「相対的貧困」は、僕らが所属している社会の中で、周りと比べて、その人の暮らしは人間らしい暮らしと言えるのだろうか、という問いを持っているわけだ。
まとめると、以下のようになるだろう。
【絶対的貧困】・・・人間として生きて行くのが困難な状態(発展途上国)
【相対的貧困】・・・その社会のメンバーとして生きて行くのが困難な状態(先進国)
では、日本の貧困は何が問題になっているのか。
今の日本は、相対的貧困の問題が大きくなっているのだが、必ずと言っていいほど2つ目の問題点が出てくる。それは、相対的貧困がなぜ問題になるのかということだ。確かに、絶対的貧困は生きるか死ぬかなので、深刻な問題だが、相対的貧困は人と比べてどうかということで、そんなことを比べても仕方がないと言う意見が出てくる。格差はいつの時代にもあったし、贅沢を言ってたら、きりがないというわけである。このことはよく主張される。確かに、死ぬわけじゃないんだから、そこまで問題にすることではないという意見があることは分からないことはない。しかし、それでも「相対的貧困」は問題である、と断言したい。
その理由は大きく分けて、2つある。
その1つは相対的貧困は絶対的貧困の予備軍だから問題だ。結局、相対的貧困は絶対的貧困の予備軍であるということだ。より貧困問題を解りやすくするには、相対的貧困=貧乏、絶対的貧困=貧困と考える必要がある。貧乏と貧困は違う。年収200万円ぐらいの非正規でも、健康で、仲間がたくさんいて頼る人がいたり、親と仲が良くて実家暮らしだったり、それなりにまとまった貯金があったりすれば、貧乏かもしれないけど貧困ではないかもしれない。
貧困とは、不健康で、仲間もいない、親とも仲が悪い、貯金もまったくない、本当に誰にも頼る事のできない状態を言うのだ。貧困になってしまうと、最終的には、生活保護に頼るしかなくなる。
さて、そうなると、「ほら、やっぱり相対的貧困は貧乏だから問題ない」と言う人がでてくるものだ。ところが、大問題なのである。想像してみて欲しい。
あなたの友人にA君(20代後半)という青年がいたとしよう。A君は、フリーターである。廃品回収、コンビニバイト、塾の講師などの仕事を掛け持ちして、年収300万円の収入を得ている。仲間はいるが、親との関係は悪く連絡を取っていない。貯金もそんなにない。しかし、A君は将来を不安に思うことはなく、あっさりとこんなふうに言う。
「貧乏だけど、気にしてない、お金がないと生きていけない、って言うのは幻想だよね、お金がないと生きて行けないって訴える人は、単純に贅沢なだけでしょ」
ところが、ある日、事態は一変する。A君は、廃品回収の仕事をしているとき、腰を強打し、痛みでそのまま動かなくなってしまう。すぐに医者に見せると、全治半年と言われ、絶対安静の指示を受けた。さすがのA君も慌てることになる。仕事を休まなくてはいけないからだ。貯金は数ヵ月やって行くぐらいしかない。親も仲が悪くて頼れない。そこで、A君は仲間に助けを求める。結果、仲間たちの救済募金で数万円集まった。しかし、半年分の治療費+食費、家賃、スマホ代などの事を考えると、まだまだ足りない。A君は、仕方なく生活保護を検討する事になる。ここまで、A君のエピソードを読んで、皆さんはどう思っただろうか。きっと、「生活保護があって良かったね」と言う感想を持つ人もいれば、「ちょっとしたアクシデントで生活保護に頼らなければならないなんて、恐ろしい」と思った人もいるでしょう。
ではここで私の考えを書いてみる。
腰を怪我する前のA君は相対的貧困状態だった。家もあるし、仕事もあるし、仲間もいる。貧乏ではあるけれど、ホームレスやネットカフェ難民というわけではなかった。だから、贅沢を望まなければ生きて行くことができた。けれど、腰を痛めるというたった1つのアクシデントによって、A君は生活保護を使わなければいけない状態に追い込まれ、限りなく絶対的貧困状態に近づいてしまったのではないか。こんなことを考えていくとある1つの結論に辿り着く。それは、相対的貧困は絶対的貧困の予備軍でしかない、という結論である。だからこそ、相対的貧困は問題なのである。先ほど、貧困とは、不健康で、仲間もいない、親とも仲が悪い、貯金もまったくない、本当に誰にも頼ることのできない状態である、と言った。これは逆に言えば、健康、仲間、親、貯金のどれかを失えば、誰でも絶対的貧困状態になる可能性があるのではないか。なので、繰り返しになるが、もう一度言う。「相対的貧困は絶対的貧困の予備軍である」―そこが、問題なのだ。
また、今後、格差はどんどん広がって行く可能性があると言う問題点があるのだ。相対的貧困とは、「他と比べてどうか」という問いを持っている、と言った。その社会のメンバーとして生きて行くのが困難な状態である、とも言った。要するに、格差の問題である。ここでは、格差の問題について考えてみよう。よく相対的貧困の説明すると、「人と比べてもしょうがないでしょう。格差はいつの時代もあったし、贅沢言い出したら、きりがないと、言われることも少なくない。きっと、そう言う人の心理を想像すると、次のような意見になるのではないか。
「たとえば、貧乏なのに、古いデザインのスマホじゃなくて、最新モデルのスマホがいいとか、中古のパソコンじゃなくて、最新のMacがいいとか、そういうことを比べるのが相対的貧困なら、それは、はっきり言って単なる贅沢でしょう。しょうがないじゃん」
この意見については賛成だが、相対的貧困の観点から問題視する「格差」は、そういうことではない。
その社会のメンバーとして生きて行くのが困難な状態を相対的貧困状態である。では、その社会のメンバーとして生きて行くのに、何が必要なのか。いろいろと思いつくが、ここでは医療を考えてみよう。誰もが病気になったとき、医療を受けて、治療することができる社会―そういう社会を目指しいる。しかし、そういう誰もが当たり前に医療を受けれる社会が脅かされている、と言ったら大袈裟だ、と笑うかもしれない。実は、とても笑い話しで済ますことができない社会が少しずつ忍び寄って来ているのである。最近、社会学者たちの間で話題になっている「2025年問題」がそれである。
「2025年問題」とは、団塊ジュニア世代の親である団塊世代(1947年〜49年生まれ)が、このタイミングで、ついに全員75歳以上の後期高齢者になり、少子高齢化が悪化するという問題なのだ。数字にすると、2025年には、国民の5人に1人が75歳以上、3人に1人が65歳以上になるのである。「2025年頃には、認知症の患者が急増し、認知症を患う老人達が市街地をうろつくようになる光景は当たり前になる」と、恐ろしい予言をする学者もいる。このまま少子高齢化が進めば、日本の経済力はますます弱くなる。そして、それに伴い「格差」も深刻なレベルで広がって行くはずだ。そうなると、医療を受けれる人たちと医療を受けれない人たちの差がはっきりと分かるようになるはずだ。これこそが、相対的貧困の2つ目の問題点なのだ。
posted by GHQ/HOGO at 08:16| 埼玉 ☔|
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