2017年09月06日

グローバリズムはなぜ、貧困を引き起こすか? 1

 何か刺激的な表題だが、基本的なところで、金融業者でも結構ベーシックなところの理解が共有できていない。もちろん、経済学そのものを体系的に深く学んでおらず、読書や業務の中できっとこういうことなのだろうという経験則を当てはめながら理解しているので人のことをどうこう言えた義理でもないが、社会保障論とかで紐解かれる一般的な経済思想が分かっていればそれほど理解が困難な世界でもない。また、あまり理系文系で分けるのは好きな論法ではないが、数理的なモデル論を知らなくてもある程度の政治的分配について見識があればそれほど齟齬が起きるような話でもない。
「保守主義者ではあるけれども、グローバリストではない」という姿勢に批判があるが、その国や地域に自律的な経済システムが存在しているなかで、フリードマン流の自由貿易原理主義のようなものが暴力的に介入して過大な流動性を持つ市場を駆使しながら地場の富を収奪し、市場から流動性が失われる危機が演出されたときに誰よりも早く逃げ散ることに対する批判(とりわけヘッジファンドに対する規制を声高に叫ぶ先進国の金融政策担当者)は一理あるのではないか。
 証券市場にしても、教科書的には企業は株主のものであるということには賛同するにしても、その国や地域でビジネスを行い雇用を創出しているからにはそこの社会に対する社会的責任を企業は負い、その見えようとして、従業員重視の経営方針や、顧客に対する徹底的なサービスの追求のために株主利益を後回しにする経営方針というのも許容されるべきだろう。
 これは従来からの産業、すなわち設備を必要とする製造業や流通、小売業のような業態だけでなく、IT産業やサービスなどの領域でも地域や顧客、従業員、環境などに対する積極的な関与とコンプライアンスの遵守というのはビジネスを行っている地域にあわせて行わなければならない責務があるはずだ。それは、そこで暮らしている人々やその根底に流れる風習、文化というものに、企業あるいは市場がどういう互恵的な関係で「乗っかっているか」を重視することで、社会が適切に市場の調整能力を使いながら経済効率を上げることができる。
 すなわち、その国の経済というのは世界標準の市場があってそこからハブ的にぶら下がるものではなく、あくまで従来からの社会、経済の流れの中に市場というファンクションが調整弁として働くというモデルを「より良いもの」と考えるのが保守主義的なアプローチだろうと主張したい。当然、そこには旧態依然とした規制や商慣習などの問題がその国や地域の経済効率を下げ、結果として国際競争力の喪失という形で国益を損なう結果になるという議論もあるわけだが、市場をある種の原理主義的な機構の対象として祭り上げ、極端な市場原理の元に生産性の向上を目指して国民間の所得など社会が本来兼ね備えていた調和をないがしろにすれば、結果として社会コストの増大を招き暴動の絶えない国になってしまう。
posted by GHQ/HOGO at 07:28| 埼玉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする