2015年03月31日

追い詰められていくのは「若年女性」だ

 これからの日本で、どんどん追い詰められていくのは「若年女性」である。分かりやすく言えば、10代から20代の女性が、今の日本の社会で追い込まれようとしている。
 日本では働く女性が全国で2770万人いるが、このうちの57.5%は非正規雇用である。つまり、60%近い女性が不安定な身分のまま働かざるを得ない状況になっている。そして、その中でも若い女性の3分の1に当たる約110万人が、年収114万円未満の貧困層から這い上がれない。もっと悲惨なのはシングルマザーだ。シングルマザーとなった女性の80%は貧困に転がり落ち、ギリギリのところで生きるしかない状況に陥っている。
 母子家庭が追い込まれるというのは、実は日本だけの現象ではない。世界中の多くで売春女性がシングルマザーであるのを見ても分かる通り、子供を抱えた女性は育児と仕事の両立が難しく、どうしても生活困窮に追い込まれるしかないのである。
 乳幼児を預かってくれる託児所は少なく、預けられたとしても母親は残業もできない。子供が病気になれば会社は休むしかない。シングルマザーが仕事に打ち込めないという事情は分かっているので、企業側もそういった女性を敬遠する。本来は両親や夫の庇護があってしかるべき女性が、たった1人で困難に落とされる。
 だから、追い込まれた女性は時給600円や700円程度のパートをしながら極貧の生活を余儀なくされるか、場合によっては売春ビジネスに堕ちていく。
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2015年03月30日

生活保護費の不正受給をどう考えるか? 2

 昨日のブログは急いで書き上げたので、雑な点を修正しておく。物質的な平等は、幸福の平等を意味するものではない、というのは「物より心」というのが陳腐な常套句と化した先進国では、言うまでもないことだろうか。たとえば同じ額のお金を持っていて、同じ自転車が買えるにしても、自転車に乗れないものは幸福や満足が増すことはないが、乗れるものは移動が便利になり、サイクリングを楽しんだりといった満足を味わえる。また逆に、同じ「空腹・飢餓」にしても、社会の不正に抗議して断食したり、それで死ぬことは、少なくとも本人にとっては誇り高い「満足」な生き方かもしれない。
 人間個々人で違う満足や幸福。これはほとんど誰もが認識しているだろうが、それを、いかに「平等」にするかは難しい。満足や幸福を最大化できる能力、「潜在能力」の平等という概念をアマルティア・センは提唱したが、その潜在能力の指標となるリストは、セン自身もまったく不十分なものであることは認めている。1人当たりGNP、平均余命、幼児と児童の死亡率、成人の識字率、高等教育を受けた割合・・・、それだけ。そもそも既存の経済学が、物質的な豊かさばかり重視したため、データが圧倒的に不足しているとか指摘している。
 ただしこういう概念の導入によって、今までの「勘違いした議論」を排除できるようになった。たとえば先進国では、「食べるものがない、着る服がないといった絶対的貧困は消滅した」という議論がはやるようになった。小林よしのり「ゴーマニズム宣言」も、今でこそ格差社会などを批判しているが、一時期は「女子高生まで携帯電話をもっている今の日本」を例に、経済成長ばかり追い求める風潮を批判していた。しかし現代の日本で、仕事にありつくためには電話が必須である。住む家もない若年ホームレスが、携帯電話を使って派遣の仕事で必死に食いつないでいる例もあった。アメリカの州によっては、スーパーなどが遠く郊外にあるため、歩いていくのはほとんど無理だ。自動車は生活必需品である。
 それを「彼らは広い家に住んでいる。自動車も持っている。俺達日本人より恵まれている」といえば、とんだ的外れになるだろう。 要するに、物質だけで「これは豊か」「これは貧しい」と決められる基準はないということではないか。
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2015年03月28日

生活保護費の不正受給をどう考えるか?

  1世紀くらい前に、社会学者のデュルケームが「逸脱は正常である」という重要な議論をしている。たとえばデュルケームは、犯罪は普通の社会ならば、ある程度起こることだと考えた。「犯罪のまったくない社会」というのを考えてみた場合、それは政府とか警察とかが人民を24時間監視しており、犯罪の可能性があるものは、ただちに拘束して処分するような社会だろう。ジョージ・オーウェルの「1984」とか、アニメ「サイコパス」のようなディストピアSFの世界だ。だから逆に、自由な社会で犯罪がまったくなくなるということはない。少ないことはいいことだし、減らせる努力もできるだろうが、まったくないというのは、それはもうすでに「自由な社会」ではない。
 これと同じように、生活保護の不正受給も、ある程度は仕方がない。目くじら立てたり、ムキになってもしょうがない。必要な人に配ろうとすれば、「不必要な人」が受けているのも許容しなければならないかもしれない。
 「本当に必要なのかどうか」を徹底的に判断しようとすれば、監視社会に歯止めがかからなくなる。実際不正受給や浪費を防止するため、ケースワーカーによる監視、住民による監視を奨励する提案もある。しかも偉い社会学者が何といおうとも、殺人などの凶悪犯罪は、被害者にとって取り返しの付かないものだが、不正受給ごときが取り返しの付かないものだろうか。生活保護を締め上げても、節約できる税金はわずかなものだ。
 さらに生活保護を支給する、市町村自治体や福祉事務所のインセンティブ(誘因)、利益を考えてみよう。生活保護を必要な人に支給するのは別段褒め称えられもしないが、不正受給を放置していると鬼のように叩かれる、となればなるべく支給しない、締め上げるというほうが利益になってしまう。
 北九州市で生活保護を断られ、ノートに「エセ福祉の職員、満足か」といったのろいの言葉を連ね、餓死した老人がいた。北九州市は悪名高い「水際作戦」で徹底して生活保護を支給しないようにしていたのだが、実は餓死事件の前に「財政の健全化」が評価されて、「模範的自治体」として表彰されていた。間違ったインセンティブを与えていたことは、言うまでもないだろう。
 ではどうすればいいのだろうか。私はベーシック・インカムがとりあえず手っ取り早いのではないかと思ったが、いろいろ課題もあるようだし、「怠け者を甘やかす」といったモラル的反発、抵抗も強い。政治学・倫理学が専門のロールズは、高収入の稼ぎは生まれ持った才能や、周囲の環境のおかげだから、それは社会に還元されるべき(貧しい人びとに再分配されるべき)と言った。本人の努力を無視している、高収入は本人の努力への対価だ、といった声については、「努力もまた、生まれ持った資質や、環境の産物である」と言い切る。努力すらも偶発的なものだ、というロールズの考えは、極端なものとして一般的な共感は少ないだろう。経済学者のアマルティア・センは、ロールズが「所得」といった「物の平等」に陥っていることを鋭く指摘した。センはそれよりも、「潜在能力の平等」を唱え、つまり家庭や地域に左右されない教育機会の保障などを提唱した。
 これにはそれぞれ難点がある。ロールズでは本人の意志や努力が軽視されているし、センでは生まれ持った才能の違いなどが、後景に退いた。妥当な落としどころとしては、ロールズとセンの議論を混ぜ合わせたようなものになるだろう。
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2015年03月27日

生活保護制度の問題点は不正受給ばかり注目されるけれど…

 本当の問題は必要な人にいきわたらないことではないだろうか。生活保護の本来の意義は生活困窮者を救うことであるけども、不正受給者が明るみになってきたことで、世論がそれを取り締まれと声をあげる。審査する役所はその世論を受けて審査を厳しくしたり、出し渋りをする。それによって受給資格があるにもかかわらず申請を却下されたり、どうせ申請しても窓口で嫌な顔されるだけだから、申請をためらってしまったり、まさに生活困窮者の救済から不正受給の根絶へと、行政側の目的が変わってしまっている。官僚制もびっくりの「目的の転移」である。
 大半の人が声をあげている「不正受給の根絶」は別に間違ったことではないけれど、それを正義感溢れるヒーローでもあるかのように高らかに叫ぶことは、受給資格を満たしている人の申請自体が通りづらくなり、世間の目を気にして申請すらも躊躇してしまう負の現象に陥りやすい。このような真っ当な行為が、その裏で生活困窮者をさらなる困窮へと誘っているということである。行き過ぎた不正の糾弾は困窮者を殺すことになりかねないことは知っておいてほしい。
 仮に一律に支給するとか、現物で支給するにしても「必要のない人」にいきわたるのは一緒である。一律の場合それが不正とならないため、金持ちが受給しても世論も騒ぐ可能性は低いかもしれない。ただ、それは合法か非合法かの違いであって、中身はほとんど一緒なのである。ならば、現状の不正受給を合法化してしまえば、それで国民は納得するのであろうか。
 結論としては、不正受給の数自体は測定不可能だし、その中のどれくらいいるか分からないような一定数の不正受給を取り締まろうとするあまり、本来の目的から逸脱し、必要な人を見捨てることになりかねないようなまさに正反対の今の制度、国民感情こそ是正すべきであり、トータルとして、必要な人にはきちんと100%いきわたる制度を目指すことこそが、現状の生活保護の1番の焦点ではないだろうか。
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2015年03月26日

仕事さえあれば、貧困から抜け出せるのか?〜生活困窮者自立支援制度の問題点

 2015年4月から生活困窮者自立支援法が施行される。これにより、全国に約900ヵ所ある福祉事務所設置自治体に、生活困窮者向けの相談窓口が開設される。施行に先立ち、3月には厚生労働省で開催された「社会・援護局関係主管課長会議」で、厚労省はかなりの時間を割いて生活困窮者自立支援制度の説明を行い、新制度にかける意気込みを示した。
 生活困窮者を支える新たな制度が始まることについて、マスメディアでも期待感を表明する報道が目立つ。しかし、この制度には問題点が多々ある。
 生活困窮者支援法は福祉事務所が設置されている地方自治体に「生活困窮者」に対する自立相談支援事業を実施することを求めている。相談窓口は外部に委託することも可能。また、2009年度から実施されている住宅手当事業も恒久化することを定めている(「住宅手当」は2013年度は「住宅支援給付」、法律の中では「住宅確保給付」と改称されているが、ここでは「住宅手当」で統一)。他にも、任意事業として地方自治体は就労準備支援事業、一時生活支援事業、家計相談支援事業、学習支援事業などを行うことができる。
 就労支援の目玉は、就労訓練事業(いわゆる「中間的就労」)。生活困窮者が一般就労に至るステップとしての中間的就労を実施する事業体を都道府県が認定する仕組みを導入している。
 この法律の評価すべき点としては、2010年度より一部の地域で実施されてきたパーソナルサポート事業(生活困窮者に対する寄り添い型支援)を恒久化し、財源の保障をしていること、貧困家庭の子供たちへの学習支援の財源保障をしていることがあげられる。
 しかし一方で、以下のような問題点を指摘できる。
 まず、入口の自立相談支援事業では、生活保護を必要としている人に対して、生活保護制度の説明や申請に向けた助言・援助が行われるのかが法律には明記されていない。最悪の場合、新たな相談窓口が生活保護の水際作戦を担う「防波堤」として機能してしまうことも考えられる。窓口業務が外部に委託される場合、受託団体が福祉事務所に遠慮して生活保護申請をためらうという状況は、すでに他の事業で起こっており、受託団体の力量によって地域差が出ることも考えられる。
 中間的就労では、一部で最低賃金の適用を除外するプログラムが組まれる予定だ。ここに悪質な業者が入り込んで制度を悪用することが懸念されている。生活困窮者が劣悪な労働に従事させられ、労働市場全体の劣化を招く危険性がある。
 また新制度では、就労による自立を支援することに力点が置かれているため、経済的な給付がほとんどない。住宅手当は離職者に対してハローワークでの就労支援を受けることを前提に賃貸住宅の家賃を補助する制度だが、原則3ヵ月間(最長9ヵ月)という期限付きであるため、再就職までの一時的な支援という性格が強い。
 住宅手当の2009年10月〜2014年3月における支給決定件数(延長決定分含む)は15万4493件。これは生活保護の手前のセーフティネットとしてはあまりにも貧弱だと言わざるをえない。
 この住宅手当制度の問題点をあぶり出したのが、2013年に大きな社会問題となった「脱法ハウス」問題だった。「脱法ハウス」とは、多人数の人々を居住させながらも建築基準法や消防法などの関連法令に違反している物件を意味し、その中には、レンタルオフィスや貸し倉庫などの非居住物件であると偽っているものも含まれている。
 「脱法ハウス」は、人が暮らす住居が最低限備えるべき安全性が損なわれており、居住環境も劣悪。しかし、「脱法ハウス」の入居者は、通常の賃貸アパートの家賃や初期費用がまかなえない、あるいは賃貸契約に必要な連帯保証人を用意できないといった事情を抱えているため、こうした物件に暮らさざるをえない状況にあることがわかっている。入居者のほとんどは仕事があっても収入の低いワーキングプア層が占めており、生活保護基準よりも若干、収入が多いために生活保護を利用することはできない。
 住宅手当などの「第2のセーフティネット」は本来、こうした人々が安心して暮らせる住まいを確保できるための支援策として確立されるべきものだ。しかし、現行の住宅手当の対象はあくまで離職者であるため、働いていても収入の低いワーキングプア層は支援対象にならない。ここに「再就職支援」としての住宅手当の限界がある。
 住宅手当が2009年に始まって以来、この事業が普遍的な家賃補助制度に発展することを願って、事業の拡充と恒久化を求めてきた。しかし、生活困窮者自立支援法は従来の事業の問題点を改善しないまま、事業を固定化してしまった。
 これは、この制度が「雇用さえ確保されれば、貧困から抜け出せるはずだ」という発想に基づいて設計されているからだ。この考え方に立てば、雇用の質や住宅の質が問われることはないため、「脱法ハウス」に暮らしながら働いている人は「自立している」と見なされ、支援対象から外れることになるのだ。
 近年の貧困の拡大の背景には、雇用や住宅の質が劣化してきたことがある。その点を踏まえない対策は、「自立支援」の名のもとに貧困を隠蔽しかねないものだ。
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2015年03月25日

年給200万円以下が23.9%、相対的貧困率も悪化、株価上昇の恩恵なし「金融資産非保有所帯」が31%に

 この14年間、法人は利益剰余金など内部留保を著しく積み上げた結果、自己資本比率は2000年度末の25.9%から2013年度末の39.3%へ大幅に上昇した。一方、この間、非正規雇用者比率は拡大を続け、これに歩調を合わせて中間層の貧困化がジワジワと進んでいった。
 2000年の年間給与額200万円以下の給与所得者は824万人で、4494万人の給与所得者全体の18.4%に過ぎなかった。しかし2012年には200万円以下の給与所得者は1090万人と2000年に比べ276万人増加、給与所得者全体約4556万人の23.9%に達している(国税庁「民間給与実態統計調査」)。
 ちなみに年間給与額200万円(月額にすると16万6666円)は、東京都区部の生活保護所帯(夫婦2人、子供1人)の月額生活扶助費16万6810円を下回る額だ。東京都の生活保扶助費を下回る年間給与額しか得られない貧しい給与所得層が非正規雇用の拡大によってアベノミクス後も増加し続けることになる。
 「相対的貧困率」で見ても日本の貧困化は顕著だ。「相対的貧困率」は所得の中央値(所得の低い額から順番に並べた時の真ん中の額)の半分以下(貧困線)にある人々の割合を示し、先進国の貧困を表すのによく用いられる。2012年の中央値は244万円、貧困線はその半分の122万円となり、貧困線に満たない所帯の割合(相対的貧困率)は16.1%に達した(厚労省「2013年国民生活基礎調査」)。
 「相対的貧困率」は2009年の前回調査よりさらに上昇、記録が残る1985年以降で最悪の水準になったという。日本の相対的貧困率は先進国クラブのOECD平均(11%前後)を大きく下回り、先進国で最も高いグループに属しており、「1億総中流」は遠い昔の神話と化してしまっている。
 もう1つ、看過できない数字がある。日銀金融広報委員会の「家計の金融行動に関する世論調査」によると、金融資産を保有していない「金融資産非保有所帯」の割合は2013年には31.0%に上ったという。バブル生成期の1987年の金融資産非保有所帯の割合は3.3%だった。バブル崩壊後の所得減少、非正規雇用の増加、中間階級の貧困層化を背景に金融資産非保有所帯はどんどん増え、その割合が3.3%から31.0%に跳ね上がったというのだ。
 アベノミクスによる株価上昇や株主配当増加の恩恵は31%に達する「金融資産非保有所帯」に及ぶはずもない。非正規雇用者の多くは「金融資産非保有所帯」の属すると思われる。彼らは株価本位のアベノミクスで所得を増やす術(すべ)を持たない。その一方、アベノミクスによって大きな金融資産を持つ富裕層・資産家層はますます富み、中間階級から貧困層化した人々との格差を拡大させる結果をもたらす可能性すらある。これもアベノミクスの負の側面になる。
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2015年03月24日

「非正規雇用」がもたらした日本の中間階級没落 アベノミクス後も「非正規雇用」増加は止まらない

 アベノミクスは、大胆な金融緩和(マネー膨張)を餌に外国資本の「期待」に働きかけて株価など資産価格を引き上げることに一時、成功した。しかし、株価上昇で潤ったのは株式を保有する資産家と法人企業、そしてヘッジファンドなど外国人投機家だった。資産をほとんど持たない中間層に恩恵は及ばず、アベノミクスは教授らが指摘する中間階級の没落を止めることができないでいる。
 アベノミクスの具現者である黒田日銀総裁は異次元緩和によって労働需給が改善、有効求人倍率が上昇したことを自慢、強調している。しかし、有効求人倍率上昇の中身はお粗末なものだ。厚労省「一般職業紹介状況」によると、期間を定めず雇用されている常用労働者の有効求人倍率は0.80%、うち正社員の求人倍率は0.60%にとどまる。正社員は求職者10名に対し6名しか求人がないという状態だ。有効求人倍率の改善は主としてパートタイムやアルバイトなど非正規社員の求人増加によるものだ。
 アベノミクス後も非正規雇用の拡大は止まることなく2014年5月の非正規の職員・従業員は1921万人、雇用者全体に占める比率(非正規雇用比率)は36.6%に達した(総務省「労働力調査」)。2000年の非正規職員・従業員数は1273万人、同比率は26.0%だった。この14年間で非正規雇用者は648万人増加、非正規雇用比率は10.6%も拡大したことになる。
 2000年から14年間に触れておきたい。この間、日本は2002年1月から2月まで景気拡張が73か月という戦後最長の「いざなぎ超え景気」を経験した。このバブル崩壊から景気回復期においても企業収益の拡大はあったが賃金の下落が止まらず「ジョブレス・リカバリー(雇用なき回復)」と称された。この後、リーマンショック、東日本大震災を経て2012年暮れからのアベノミクス景気に至るという14年間だった。
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2015年03月23日

富める者がますます富み、中産階級は消滅していく バブルの生成と崩壊を繰り返す「電子・金融空間」

 資本主義は株や債券など金融資産の収益率を表す「資本収益率」が所得(賃金)の増加率を表す「経済成長率」を常に上回るという根本的矛盾をかかえている。その結果、2つの世界大戦を挟む20世紀の一時期を除き、先進国ではより大きい資産を持つ富める者がますます富み、それ以外の持たない層との所得・資産格差が拡大、このままでは中産階級が消滅していくとピケティはいうのだ。
 日本でも水野和夫日本大学教授(元三菱UFJモルガンスタンレー証券チーフエコノミスト)が著した『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)がビジネス書部門、新書部門で売上上位を占め話題になった。
 水野氏の分析は以下のとおりだ。先進資本主義国は稼ぎを生み出す「周辺」(フロンティア)を失い、「地理的・物的空間(実物経済)」から高い利潤を得ることができなくなった。この実物経済の利潤低下に対し、先進国、特にアメリカではITと金融自由化が結合して資本が瞬時に国境を超えるという「電子・金融空間」を作り出し、資本主義の延命が図られた。
 しかし、「電子・金融空間」はバブルの生成と崩壊を繰り返すだけだった。マネー膨張によるバブル生成は資本の自己増殖を通じて富裕層のみを豊かにした。一方、バブル崩壊過程ではその負担を解雇・賃下げなどリストラという形で中間層が負わされた。その結果、市民社会や国民主権を支えてきた健全で安定した中間階級が貧困層に転落、先進国では民主主義が衰退する危機を迎えている、と。
 ピケティ教授や水野氏の指摘は、量的金融緩和という形のマネーの膨張による株式など資産バブルの復活によって富裕層や法人企業だけを富ませ、中間層をないがしろにしたまま、バブル崩壊からの経済再生を図ろうとするアベノミクスへの批判にも通じている。
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2015年03月22日

貧困と生活保護制度

 私たちは、国家は国民の生活を守るものだと当たり前のように信じがちだ。確かに日本は、外国からの侵略を防ぐための軍隊と、治安を維持し犯罪を摘発するための警察力を擁している。だが国家が、すべての貧しく不幸な人たちを救済してくれるわけではない。
 日本は現在、公園や河原で暮らす日本国民を劣悪な生活環境の中に放置している。住む家もなく、残飯を漁る以外に生きる術を持たない彼らは紛れもなく日本社会の最貧困層であるが、国家が保護の手を差し伸べることはない。なぜなら、生活保護は自治体が支給するものであり、申請の要件として住民登録が必要とされるとしているからだ(本来は住民登録など必要ないのだが…)。住所を持たないホームレスは行政上「存在しない人々」であり、保護の対象にはならないということにされる。だがこれは欺瞞ではないだろうか。
 ホームレスに対して「自己責任」を問う人がいる。彼らは自ら望んで社会からドロップアウトしたのだから、国家が保護を与えるのは彼らの意思に反することになる。生活保護が必要なら、いつでも公的機関に援助を求めればいい――。だがこの主張は、事実においても、論理としても誤っている。
 精神科医は、ホームレスの多くが精神障害者であると推定している(日本において、ホームレスに対する精神医学的な統計調査が行なわれたことはないが、米国ではホームレスの80%以上が薬物・アルコール中毒であり、約半数が統合失調症などの精神障害を患っているとされている)。貧困の原因が心の病いにあるのなら、「自己責任」を問うことはできない。行政がこの事実から目をそむけるのは、生活保障や医療援助を与えない「正当な」理由を失いたくないからだ。
 何人も社会生活を放棄する自由や、国家からの保護を拒否する権利を有している。その意思を尊重しなければならないのは当然だが、だからといって「自分は貧しい」と自己主張する人だけを援助すればいいということにはならない。社会保障は心理的・主観的な要素ではなく、外形的・客観的な基準で分配されるべきだ。そうでなければ、行政の複雑なルールを理解し、それに則って「意志」を表明する能力を持たない人はすべて見捨てられることになる。
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2015年03月21日

生活保護世帯数が過去最多を更新!貧困層にはアベノミクスの効果なし!12月時点で161万超!

 生活保護世帯数が過去最多を更新した。2014年12月時点の統計によると、生活保護を受けている世帯数は前月比3296世帯増の161万8196世帯になった。
 これは過去最多の値で、受給者数も217万161人に増加した。年齢別では65歳以上の高齢者が半数の76万世帯となり、年金だけで生活ができなくなった人が生活保護受給者になったと推測される。
 安倍政権は年金の削減と生活保護の削減を打ち出していることから、今後もこのような制度を頼っている方の生活はさらに厳しくなる可能性が高い。
 日本が支出している生活保護関連の予算比率は、先進国の中でも最低クラスの値になっている。これ以上の削減は本当に生活ができなくなる人が出て来るので、削減方針を見直して、社会保障予算の充実などを目指すべきなのだが…。
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2015年03月20日

子供の貧困の現状は?

 日本の子供(18歳未満)の6人に1人が貧困──。厚生労働省の2012年の調査で、そんな結果が明らかになった。派遣やパートなど非正規社員の増加で、戦後の「一億総中流」という豊かさが失われていく。なかでも格差社会の現場で、「子供の貧困」が深刻だ。
 貧困への理解が進まない要因の1つとして、学校現場の問題を指摘するのは、 日本大学の末冨芳・准教授(教育行政学)だ。忘れ物をしたり、遅刻を繰り返したりする子供がいる場合、教師は「前日に準備しなさい」「きちんと起きなさい」と生活指導をするのが常だ。
 「実は母親が一日中働いていて、朝は起こしてくれないのかもしれない。忘れ物も、文房具を買えないのかもしれない。校外学習に行きたくないと嫌がる生徒も、実は参加費の数百円が用意できないのかもしれない。多くの教師がそこまで思いが至らず、『ちょっと困った子』ということで終わってしまう」(末冨准教授)
 生活保護世帯の情報が、各教師に伝えられていないケースも多く、北陸地方の小学校教諭の男性(34)は、
 「学校現場では、親に面倒を見てもらっていない子はわかる。髪が寝癖だらけだったり、服が洗濯されず汚れたままだったり。けれど、そこに貧困があるかどうかまで見分けるのは難しい」
 とこぼす。
 末冨准教授は、
 「大学の教員養成課程や、教員の研修で、貧困の現状について学ぶ機会をつくるだけで、ずいぶん状況は変わるでしょう。 貧困に気づけば、ケースワーカーや医療機関、福祉施設と連携することができ、子どもの生活を支えることにつながります」
 子供を貧困から救うには、周囲の理解と支援が欠かせないことは明らかだ。慶応義塾大学3年の内山田のぞみさん(21)は、貧困の逆境から脱出した1人だった。母子家庭で育ち、都営住宅で暮らす。内山田さんが「貧困から抜け出すためには大学へ行こう。そのためには勉強しなきゃいけない」と気づいたのは、生活費のために始めた高校時代のアルバイトだった。
 自宅から徒歩30秒ほどの焼き肉店に、週2、3回通うようになると、オーナー夫妻の息子たちが慶応大学に通っていることを知った。
 「自分の暮らす地域にあるごく普通の焼き肉店の、普通のご夫婦。そのお子さんたちが大学に行っていることにびっくりして、あこがれました。遠いと思っていた世界が近く感じて、私もチャレンジしてみようと思いました」
 猛勉強して、現役で合格。学費は母がコツコツためていたお金とバイト代などで工面しつつ、無料学習塾を主宰するNPO法人キッズドア(渡辺由美子理事長)でインターンとして、貧困家庭の子どもたちに勉強を教えている。
 子供の親や周囲も中卒か高卒が多いからか、「大学生って本当にいるんだ」と驚く声が聞こえてくる。お昼ご飯代が100円で、コンビニでお菓子を買って済ませてしまう子もいる。お金がなく、いろんなことをあきらめてきたからか、夢がない子が多いと感じるという。だから、自分も貧しい家庭で育ったことを話して聞かせている。
 「わたしも誰かの『焼き肉屋のお兄ちゃん』になれたらいいなと思っています」
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2015年03月19日

子供の貧困が拡大し、教育格差が広がる

 「子供の貧困」が広がっている。厚労省が毎年行っている国民生活基礎調査に「相対的貧困率」によると、2012年度の調査では、子供がいるひとり親世帯に限ると54.6%で、実に「2人に1人」という状況だ。
 NPO法人「豊島子どもWAKUWAKUネットワーク」が運営する「夜の児童館」に通う小学6年生の女子児童(12)は、親にお金のかかることを求めないという。母子家庭で、生活保護を受けながら区営住宅で暮らすが、「うちは貧乏なんだ」と気づいたのは3歳のころだ。
 病気がちの母(50)が、「お金がないなあ」とため息をついた。友達が自動販売機で缶ジュースをポンと買ってしまうことに驚いた。必要な費用が払えず、大好きだったチアリーディングも続けられなかった。常に周囲との差を感じてきた。
 「友達みんなが持っている雑誌を読んだこともないのに『持っている』とウソをついたこともあります。学校で自分の意思をちゃんと表現できない感じ」
 だんだんと内にこもるようになり、不登校になったこともある。
 「本当はもっといっぱいやりたいことがある。でも母には言いません。恨んだこともない」
 国際的に見ても、日本の子供の貧困率は高い。経済協力開発機構(OECD)の10年のまとめによると、日本は加盟34ヵ国中、10番目に高い15.7%。子供がいるひとり親世帯に限ると、事態はより深刻で、50.8%に跳ね上がる。加盟34カ国の中で、ワースト1だった(平均31.0%、韓国は未算出)。
 こうした「貧困」を裏付けるデータがあっても、まだピンとこない人は多いだろう。その理由について、同NPOの事務局長の天野敬子さんがこう指摘する。
 「日本の貧困は、途上国の貧困とは違います。とりあえず服を着ているし、義務教育だから学校にも通っている。雨風をしのげる家もある。だから現実感が乏しい」
 夜の児童館の無料塾に集う他の子供たちも、見た目は「普通」だ。
 「安いファストファッションがいくらでもあります。コンビニに行けば100円で大きめのパンも買える。けれど、わずかでも費用のかかる課外活動に参加できない、栄養バランスの高い食事が取れないなど、落ち着いて暮らせる状態にはありません」(天野さん)
 だが、NPOなどの活動に「つながる」ことのできる人や、わずかでも収入がある人は、貧困層でも恵まれているほうだという。
 13年5月、大阪市北区天満のワンルームマンションで、母(28)と男児(3)の遺体が見つかった。死後数カ月が経過していた。部屋に冷蔵庫はなく、食べ物は食塩だけ。電気、ガスは止められていた。財布に現金は一円もなく、預金の残高は数十円。「おなかいっぱい食べさせたかった」と書かれたメモが残されていた。
 12年9月には、東京都小金井市で、生活保護を受けていた無職女性(43)が長女(12)と無理心中を図り、死亡する事件もあった。天野さんは、こう指摘する。
 「保護者に社会とつながる力がない場合、働くこともできず、どんな行政支援があるのかも知らない。親も子もどんどん孤立していく。見えない『貧困』はもっとあると思います」
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2015年03月18日

生活保護 申請を拒否されたら書面で提出しよう!

 生活保護申請も許認可等の手続の1つである。しかし、他の分野と異なり、担当窓口職員の対応がよろしくない風評はよく聞く。福祉事務所職員が意図的に違法行為をしているとも考えられる。
 許認可申請手続全般に関して、その根拠となる条文まで丁寧に解説する窓口担当者はほとんどいないことを経験している。よって、市町村が管轄する業務の場合には、市町村のホームページの条例集や例規(条例と規則)のところから、該当する条例や規則を見つけ出して、根拠となる考え方を調べる。条例・規則のタイトルは、国の法令と同じ用語が使われていることがほとんどなので、検索することは簡単。
 例えば、生活保護の申請に関して、申請書を渡さずに、申請させないとよく言われる。そのような違法行為を受けたときは、そのまま粘るか、強引に押し通してもいいのだが、例規集から「生活保護法施行細則」などのタイトルを探して、そこから申請書をダウンロードして必要事項を記入して窓口に置いてくればよいことになる。というか担当窓口に行く前に、必要書類を記載していけば二度手間が省ける。申請書を渡せ・渡さないという無駄な時間を費やすこともない。
 各自治体が定めている生活保護申請様式は、その自治体内部の事務取り扱いのような効果しかないので、本来は、申請意思を職員に伝えればよいだけだが、まあ、相手に合わせるということでは、様式があれば、それを使うというのも時間短縮にはなるかと思う。
 ところが、生活保護費支給者に対して無理やり辞退届を書かして、結果として餓死させるだけでなく、国の生活保護抑制のモデルと言われている福岡県北九州市のサイトを見ると、北九州市の例規集から北九州市生活保護法施行細則を検索できる。保護開始申請について、関連する条文を読むと次のとおり。

 (申請書等)
第3条 法及び省令の規定に基づく申請、決定、指導、指示、検診命令及び届出は、次の表に定めるところにより、当該事項に対応する申請書等によって行うものとする。
 (帳票の様式)
第6条 別表に定める帳票の様式は、保健福祉局長が定める。

 別表をダウンロードできるが、中身は、帳票のタイトルしかない。様式を市民には、公開していない。残念ながら、職員の裁量をもって、窓口で申請を抑制するやり方に変化はないと言える。
 申請書類を公開していなければ、例えば小田原市の様式を使って、相手先を「○○市福祉事務所長」などに変更すれば問題ない。市民に対して情報を公開していない自治体が責任を果たしていないことになるからである。誰も住居地の市区町村のホームページで検索してみることだ。
 それで、申請を拒否されたら、書面で提出するとともに、申請日は、最初に拒否された日付にする。最初に生活保護の開始を求める意思表示をしたときが申請日=開始日になるので、そのように求める。
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2015年03月17日

生活保護を受給するために!

 みなさんは、生活保護についてどんなイメージを持っているだろうか。生活保護の不正受給ばかりにスポットライトが当たり、「生活保護を受ける=ダメなこと、恥ずかしいこと」といった印象ばかりが根付いてしまっているのではないだろうか。しかし、平凡な暮らしをしている人の前にも、突然落とし穴はやってくる。そこで、もし病気やけがで収入が断たれてしまったとき、どうすればいいのか。
 たとえば、生活保護は誰でも申請できるわけじゃないと思っている人もいるかもしれないが、実は金持ちだろうと「申請権」があるので、申請はできる。しかし、国が生活保護にかける予算を削ると決めたことで、中には申請する人を減らすために「いろいろ言って追い返す」自治体や窓口の人もいる。多くの窓口は、「あなたが頑張って働くしかない」とか「金があるのに申請なんかするから不正受給でバッシングされるんだ」とネチネチ嫌味を言う。でも、それに屈する必要はない。なぜなら、実際に申請した場合、資産もすべて調べられるので、もし本当にお金があるのに生活保護をもらっている人がいるなら、それは福祉事務所の責任でもあるからだ。それに、不正受給ばかりがニュースで取りざたされているが、生活保護受給者の「99.6%は真っ当な受給」なのだ。
 また、少しでも収入がある人は保護を受けられないと思っている人もいるはず。しかし、それもまったくの誤解なのだ。生活保護は、収入が「最低生活費」を下回っていたら「最低生活費に足りない分が支給される仕組み」になっている。この最低生活費は国が決めているもので、「どの地域に住んでどんな家族構成なら最低いくら必要か」ということを割り出したもの。だから、支給される保護費は働いた収入と合わせるとその額になる。
 そして、もっとも気をつけなければならないのが申告漏れ。たとえば、両親が生活を切り詰めて「少ないけれど生活の足しにしてください」と送ってくれたお金も、「収入」と見なされるのだ。これを福祉事務所に申告し忘れると、不正受給にカウントされてしまう。世間で騒がれている不正受給の実態も、大半は「臨時の仕送りを申告し忘れたり」、「子供が内緒でアルバイトしてるのを知らずに申告できなかった」というパターンなのだ。
 みなさんも、生活保護に対する正しい知識を得ておくことで、今後助かる場面が出てくるかもしれない。誰しもが、いつ働けなくなるかなんてわからないのだから。
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2015年03月16日

高学歴なのに生きていけない…「生活保護申請」最前線

 年々、増え続ける生活保護受給者数に歯止めをかけるため、これを対応する各地方自治体の市・区役所では水際で食い止めるべく厳しい対応が取られることもあったという。
 しかし、こうした対応は、2007年の「おにぎりを食べたかった」との書き残しを置き50代男性が餓死した北九州市の事件により、「本来、福祉の網にかけて救われるべき人を救っていない」との批判の声の高まりへと繋がった。
 以来、生活保護受給相談窓口現場では、「できるだけ相談者に寄り添った対応を心掛けている」(大阪市の生活保護担当係長)という。結果、生活保護受給費は増え続け、今では一転、働けるのに働かないという生活保護受給者への批判の声が高まりつつある。
 では、実際に生活保護受給現場ではいったいどんな人が訪れ、どんな対応がなされているのか。私たちはあまりにもその実情を知らなさ過ぎる。今回、受給者数が全国ワーストワンで、市民の18人に1人が受給者だという大阪市の生活保護受給担当者に話を聞いた。同時に、生活保護受給相談を行いたいという人物に同行させてもらい、実際に役所に赴いて担当者がどんな対応をするのかを見てみた。
 「働けない理由を明確にして頂かなければ(生活保護受給は)難しいですね。もし、うつ病であるとおっしゃるなら、その診断書とか。お役所仕事で不快に感じられるかもしれませんが、どうかお許し下さい」
 大阪市の某区の男性生活保護受給担当者は、「数年前までサラリーマンとして働いていたが、うつ病により体調を崩し、以降、貯金を切り崩し生活してきたがもう限界だ」という申告に対し、こう丁寧に対応する。そして、「持ち家だと難しい。借家でも預貯金、証券などの資産が100万円以上あるとダメ」など、具体的数字を挙げる。車やバイクを持っていると生活保護受給は大阪市では現状難しいと説明した。
 こうした対応は大阪市各区、近隣の堺市、隣接する尼崎市でもほぼ同様のものだという。別の日にその人が相談したとき、1人だけ態度が横柄で言葉遣いが居丈高な女性担当者がいたが、「今のあなたの現状よりも酷い人がいる。申し訳ないがもう少し頑張って。預貯金ゼロ、持ち家なし。精神疾患で働けないなどの要素があれば行政はあなたを見捨てない」と相談者への対応そのものは群を抜いて丁寧かつ親切だった。
 この言葉を裏読みすれば、「預貯金ゼロ、持ち家なし、精神疾患の診断書」の“生活保護受給の三種の神器”さえ揃えば生活保護受給も可能というわけだ。
 よく耳にする福祉に強い政党、公明党や共産党の議員の関与を匂わせても、職員の対応が変わることはなかった。ただ、「ああ、そうですか」と軽く流されただけだった。実際に同席しているとこれはまた対応が変わるのかもしれない。
 では、実際に生活保護受給相談に来る人たちとはどんな背景を背負っている人たちなのか。今回匿名での取材に応じてくれた大阪市の生活保護担当の職員(30代)はこう話す。
 「実にさまざまです。刑務所や更生保護施設から出られてすぐの方もいれば、何がしかの病気で働けない方。最近では大学生が『就活かったるいので生活保護を』という話も聞いています。それこそ世の中にあるありとあらゆる職種の人たちが相談に訪れます。ただし皆さん全員が生活保護受給となるわけではありません。ハローワークをご紹介し就労機会に恵まれればもう生活保護の必要はありませんから」
 この話を聞く限りでは就職活動と並行して生活保護受給申請を行なおうという向きも少なくないようだ。
 実際、この職員の肌感覚では、かつてならば生活保護受給相談に訪れないであろう背景を背負った人たちが相談窓口にやってくるという。
 「元医者、元弁護士、元1部上場企業勤務などの男性、そしてこういった職に就く男性と結婚していた女性です。女性の中には、それこそ国内、外資問わず元CAや元タレント、元アナといった華やかな職に就いていた人も少なくありません」(大阪市職員)
 こうした人たちの年代はアラフォー世代が多いという。何らかの犯罪に巻き込まれ資格剥奪を余儀なくされた元医者や弁護士を除き、元1部上場企業勤務などの男性にはほぼ似通った傾向が見受けられるという。
 「高学歴で受給相談に来られる方の場合、有名大学を卒業後、新卒で入社。20代後半で結婚した後、企業側の早期退職の勧奨により退職した人が多いですね。もしくは中小零細企業に就職したが倒産、もしくは起業して失敗した人もいる。40代になって新たな仕事を探すこともできず、生活に行き詰まり生活保護受給相談に訪れるのです」(同)
 女性も同様だ。20代後半で結婚し、30代半ばにして結婚生活が破綻してしまったパターン性だ。専業主婦の生活が長いことから就職活動を行っても就労機会に恵まれず、何をしていいのかわからない。思い悩むうちに夫との関係がより険悪になり、離婚に至るというパターンだ。
 「いくら有名大学卒でも40代の女性や、専業主婦経験が長く社会との接点が限られてきたという方への就労機会は、実際、難しいものがあるのでしょう。そうすると生活保護というセーフティネットに頼らざるを得ないのが現実です」(同)
 あまりにも福祉というセーフティネットへのハードルが高い社会も困りモノだ。だがあまりにもそのハードルが低い社会だと、富を得た者や努力して稼いでいる人たちの意欲を削ぐ社会となりかねない。欧米先進国も日本と同じ状況で、バランスを取ることは極めて難しい。それがはたして本当の資本主義社会なのか。何とも私たちは難しい選択を迫れている。
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2015年03月15日

貧困と女性

 この地球上に暮らす人間が100人だとしたら、15人の成人は読み書きができず、そのうち10人は女性によって占められている。
 女性は男性以上に多様な貧困の苦しみを味わっているが、これは女性があらゆる種類の著しい不平等の犠牲者であるためである。例えば、女性は教育、保健医療、生産手段、財産、責任ある政治的地位への機会を男性と平等に与えられていない。しかしながら、生産や社会生活において女性は重要な役割を担っている。農業・酪農、繁盛して大忙しの店の経営、地域社会との付き合い、子供の養育など、女性は社会にとって重要な存在である。女性が貧しければ、社会全体が病んでいく。
 全世界の平均を見ると、政府閣僚に占める女性の割合はわずか7%、女性議員の割合は12%に過ぎない。
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2015年03月14日

貧困と環境

 環境汚染は毎年、全世界の約250万人の命を奪っている。
 土壌の劣化と侵食、化学薬品の使用や乱用、長期にわたる過剰な放牧や森林伐採が小規模自作農民の収入を圧迫し、彼らを貧困に追いやっている。大気、水、土壌の汚染は地球のあらゆる生命の健康を脅かしている。教育を受けられず情報が得られないため、貧困層は天然資源を適正に管理することができないばかりか、持続可能な環境保護を計画し実践することもできない。
 21世紀が幕を開けた今日、哺乳動物の12%、鳥類の11%、魚類・爬虫類の4%が絶滅の危機に瀕している。
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2015年03月13日

貧困と社会的、文化的排斥

この地球上に暮らす人間が100人だとしたら、そのうち最も裕福な20人で電話回線の74%を保有していることになる。
 収入がないことや十分な収入が得られないことから、大勢の人々が地域の文化・社会・スポーツ活動に参加する機会を奪われている。貧困層や失業者は社会的排斥や疎外の一番の犠牲者。豊かな国、貧しい国を問わず、社会的に疎外された人は自信を失う。中には悲惨な貧困の淵に深く沈み込み、ますます孤立していく人もいる。社会や家庭の後ろ盾のない子供たちは頼るあてもなく、非行に走る恐れがある。社会的排斥は人々から機会を奪い、社会的ネットワークや地域社会での生活における役割を奪うことになる。
 地球の人口が100人だとしたら、そのうちの24人しかテレビを持っていないことになる。
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2015年03月12日

貧困とは?―貧困と健康 、住居

 この地球上に暮らす人間が100人だとしたら、そのうちの14人は基礎的な保健医療サービスを受ける権利がないことになる。
 貧困層を含むすべての国民が全く同等の保健医療サービスを受けられる国は、この世界に一国としてない。途上国ではなおさらである。相当数の人々が知識の欠如、つまり教育や情報の欠如ゆえに、医薬品や食料の選択を誤っている。職場では、病気や脆弱な健康状態が生産性を低下させ、職を失う原因ともなりかねない。学校ではこれが子供の学力低下につながる。十分な情報がなく適切な治療も受けられない結果、貧困国ではエイズが一段と猛威を振るっている。
 この地球上に暮らす人間が100人だとしたら、そのうちの13人は40歳までしか生きることができない。
 この地球上に暮らす人間が100人だとしたら、そのうちの17人は快適な住居を持たず、33人は電気を利用できない。
 貧困によって、都市や農村を問わず何百万もの人々がホームレス生活を強いられ、劣悪な条件下での生活を余儀なくされています。収入不足のために貧しい人々は最低限の快適さを確保することもかなわず、まして電気や電話を利用することもできない。居心地の悪い住居では、子供は落ち着いて勉強することができないうえ、安全が確保されていない結果、命も危険にさらされることになる。貧困地区では行政サービスが機能せず、土地の不法占拠が横行することもある。
 この地球上に暮らす人間が100人だとしたら、そのうちの57人がアジア人、21人がヨーロッパ人、6人が北アメリカ人、8人が南アメリカ人、8人がアフリカ人になる。
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2015年03月11日

貧困とは?―貧困と労働、水・食糧、

 この地球上に暮らす人間が100人だとしたら、全体の富の約90%を上位20人が消費している一方、下位20人の消費量はたったの1%に過ぎない。
 失業、不安定な雇用形態、不当な低賃金雇用は、食料、保健医療、飲料水、エネルギーなど生きていくために欠かせないものを手に入れる能力に大きな影響を与える。社会から疎外され取り残された人々はときに自尊心を失い、やがて地域の社会的、文化的生活からも排除されてしまう恐れがある。収入がないと人間の生活は大幅に制限され、貧困の悪循環に陥る。つまり、仕事がなければ十分な収入が得られず、結果的に生計を維持し貧困から逃れることが事実上不可能になる。
 この地球上に暮らす人間が100人だとしたら、そのうちの最も裕福な20人は最も貧しい20人の74倍もの収入を得ている。
 この地球上に暮らす人間が100人だとしたら、そのうちの子供3人を含む15人が栄養不良。
 無収入であること、あるいは十分な収入がないことは、自分の食糧を確保し生産することができないということを意味する。栄養失調は、子供の勉学への集中力を低下させるばかりか、大人の生産能力にも影響を与える。貧しい人は十分な知識を得られなかったがゆえに、栄養価の高い食べ物を選ぶことができず、生産性の低い方法で食糧生産をしてしまう。これは健康や地域の収入に直接的な影響を及ぼしている。
 この地球上に暮らす人間が100人だとしたら、そのうちの22人は安全な飲み水を口にできない状況に置かれている。
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2015年03月10日

貧困とは?―貧困と教育

 世界中で12億以上の人々が1日わずか1ドルで生活している。20億人以上が1日2ドル未満で生活し、8億5,000万人以上が日々の食べ物にも事欠く毎日を送っている。
 貧困とは、教育、仕事、食料、保健医療、飲料水、住居、エネルギーなど最も基本的な物・サービスを手に入れられない状態のことである。極度の、あるいは絶対的な貧困とは、生きていくうえで最低限必要な食料さえ確保できず、尊厳ある社会生活を営むことが困難な状態を指す。
 この地球上に暮らす人間が100人だとしたら、そのうち15人は読み書きができないことになる。
 低収入や無収入がもたらす最大の影響、それは教育の欠如である。貧しい人々は訓練を受けることができません。教育や技能取得、職業訓練の機会を奪われた人にとっては、働き口を見つけることも、自ら事業を興す才能を伸ばすことも難しくなる。貧困が足かせとなり、子供も大人も学校に通うことができない。近代科学技術の発展はすべての人々に恩恵をもたらしているわけではなく、貧富の差はますます拡大している。例えば、人里離れた地域に住む貧しい人々は、ただ学校があまりにも遠いという理由だけで、学校に通うのが困難なこともある。
 この地球上に暮らす人間が100人だとしたら、インターネットにアクセスできるのはわずか5人に過ぎないのだ。
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2015年03月09日

「貧困」や「孤立」というキーワードだけに委ねない

 日本における相対貧困率は16・1%となり(13年)、6人に1人という状態になっている。予備軍も含めればその数はさらに膨らみ、大多数の日本人にとって貧困は身近な日常となっているものだといえる。
 現代日本において、貧困はもはや特別なものではない。社会の前提として横たわっているものだ。だからこそ、もはや物事の因果関係をすべて貧困だとか孤立といったキーワードで説明することは難しい。
 貧困だからネグレクトをしたとか、貧困ビジネスに巻き込まれたというのは、非正規労働者(3人に1人)だから万引きをしたとか、結婚できないといっているようなもので、もはやそれだけでは因果関係の直接的な説明にならないのだ。
 実際に読者や視聴者はそのことを直感的に感じ取り、メディアに対して不信感を募らせている。たとえば、新聞に関する意識調査で、「新聞は社会的弱者に目を向けているか」というアンケートを行ったところ、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と答えた人の割合は合計してもわずか22・2パーセントしかなかった。
 つまり5人に4人近くの人は、新聞が社会的弱者に向き合っていないと考えているのである。しかし現に新聞を読めば、「社会的弱者」の記事はたくさんある。にもかかわらずそう思われてしまうのは、問題の根本をつかんでいないからこそ、そういう印象が生まれてしまうのではないか。報じる側と報じられる側の間に大きな溝があるのだろう。
 こうした意識の乖離を少しでも埋めるためには、メディアがまず貧困や孤立というキーワードで社会の事象を切り取ることを極力やめるべきだと考える。
 それはあくまで前提であって因果関係を説明するものではない。だからこそ、いったんそれらをとっぱらった上でしっかりと因果関係を考えるべきなのだ。
 たとえば、「貧困ビジネス」を、メディアが貧困と孤立というキーワードで切り取ろうとすれば、日本に蔓延する貧困が一般庶民をホームレスへと転落させ、社会から隔たった空間で暴力団員たちが彼らを利用して違法な取引を行っているとなるだろう。
 だが、読者や視聴者は、そうした情報を求めているだろうか。そうではない。彼らがこの事件を知ってまず思うのは、ホームレスはなぜ暴力団員に利用されるまで生活保護を申請しないのか、とか、暴力団の手によって生活保護を受給できるようになったのならば逃げ出して1人で暮らせばいいではないか、ということだ。
 貧困ビジネスの現場で知ったのはホームレスたちが精神障害や認知症をわずらっており、それゆえ自分では生活保護の申請をする能力がなかったり、受給後に逃げ出すという発想にならなかったりするという現実だった。
 また、別の元ホームレスは、暴力団に騙されているのは知っていたけど、知り合いと酒を飲んでいる時間が楽しいので、暴力団やホームレスたちと一緒に仲良く過ごすほうがいいと考えたから留まっていたと言う。
 おそらくこうした情報を伝えれば、読者や視聴者も貧困ビジネスについて理解を深められるだろう。だが、先に述べたようにひと飛びに一般庶民がホームレスになって、私たちの知らないところで暴力団に利用されたというだけでは、核心の部分が抜け落ちてしまう。
 同じようなことは、アパートでの餓死事件においても当てはまる。貧困や孤立というキーワードで報じようとすれば、家族が貧しさゆえにアパートで孤独に苦しんだ末に餓死したということになる。
 だが、もしそうだったらアパートで生活保護を受けて暮らす人全員が餓死することになるだろう。
 読者や視聴者がこの事件を知った時に真っ先に思うのは、どうして餓死する前に行政などに助けを求めなかったのか、とか、3人同時に餓死するわけがないから、なぜ誰か1人が死んだときに残りの者が通報しなかったのか、ということだ。
 類似の餓死事件では、餓死した貧困者がコミュニケーション能力のない障害者だった。つまり、人に対して助けを求める能力のない人間が孤立したからこそ、こうした事態に陥ったのだ。
 一家3人の餓死事件とこの事件とはまったく同一ではないにせよ、たとえばこうした情報を報じれば、読者や視聴者は餓死の理由を納得することができるだろう。
 念を押して言いたいのは、貧困について考えるなと言っているのではない。そうではなく、貧困がここまで広がった以上、もはや貧困という切り口だけで社会で起きていることを説明することは難しいということだ。
 ならば、いったん「貧困」という大雑把な枠組みを取っ払ってみてはどうだろうか。その上で出来事の因果関係を考え、情報として報じなければ、少なくとも貧困を実感している読者や視聴者の心には響かないし、溝がどんどん広がっていってしまうだけだ。
 ジャーナリズムとは、物事の本質を伝える作業をいう。ならばこの枠組みを取っ払うということが、そのための第一歩ではあるまいか。
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2015年03月08日

貧困問題で「アフリカよりマシ」論法を使うやつら―貧困の累進性

先日友人(エリートサラリーマン一家生まれの大手インフラ企業勤務)に、現代日本の抱える貧困について愚痴を漏らしたところ
 「でもアフリカの飢餓よりマシだろ。それに比べたら日本は豊かじゃん」
 と真顔で、何の屈託もない顔で言われた。経済上の理由で高校を中退した子供の話をしていたときにである。
 もう、いい加減にしてほしい。この「アフリカよりマシ」という論法、何でこんなに論法になるのか。それが反論になると本気で思っているのだろうか。確かにアフリカの一部の最貧国では、飢餓や疫病で多くの人間の生命が危険に晒されている。それはわかる。悲劇だ。でも、そのアフリカの現状に、こういう反論をする馬鹿は果たしているだろうか。
 「でも旧石器時代よりマシだろ。それに比べたら21世紀の人類は豊かじゃん」
 なるほど。旧石器時代の平均寿命は20代中盤だ。それに比べてアフリカの最貧国は平均年齢40代以上、ゆうに2倍である。運が良ければ国際支援団体が食べ物や薬を持ってきてくれる。旧石器時代ではそんなことありえない。なるほど、アフリカの最貧国は恵まれているんだ。こんな馬鹿な反論が成り立つだろうか。
 ちなみに旧石器時代時代の困難な生活だって、比較対象を変えれば正当化することができる。
 「でも猿よりマシだろ。それに比べたら旧石器時代の人類は豊かじゃん」
 火や道具を持たない猿と旧石器時代の人類なら、その身に降り注ぐ困難と死亡率は圧倒的に人類のほうがマシである。ならばアフリカで発生したホモサピエンスは全世界にその版図を広げられたわけだ。
 「なるほど。旧石器時代の人類って恵まれているんだ!猿よりマシだもんね」
 でも猿だって生きる困難さのトップに立つことはできない。
 「でも原生生物よりマシだろ。幼体が成体に成長できる確率は何千倍もあるじゃん。原生生物に比べたら猿は豊かだよね」
 いい加減にしろ。貧困問題というのは、そういうもんじゃないんだ。何かと比較してそれよりマシとかそれより酷いとか、そういうものではない。貧困問題というのは、今目の前にある、同じ血肉を持った人間の苦しみを、果たして「よし」とすべきかどうか、そういうところにあるのである。経済上の理由で高校に行けず、何の希望もなくフリーターとして働いている10代の子供の苦しみを、お前は「よし」とするのか。問われているのはそこなのだ。そこではアフリカの人間は何の関係もない。
 今この瞬間から、日本の貧困問題で「アフリカ」というワードは未来永劫禁止である。破った奴は旧石器時代の人類に打製石器でぶん殴ってもらうから、覚えておけよ。
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2015年03月07日

「貧困」や「孤立」というキーワードだけに委ねない

 日本における相対貧困率は16・1%となり(13年)、6人に1人という状態になっている。予備軍も含めればその数はさらに膨らみ、大多数の日本人にとって貧困は身近な日常となっているものだといえるだろう。
 現代日本において、貧困はもはや特別なものではない。社会の前提として横たわっているものだ。
 だからこそ、もはや物事の因果関係をすべて貧困だとか孤立といったキーワードで説明することは難しい。
 貧困だからネグレクトをしたとか貧困ビジネスに巻き込まれたというのは、非正規労働者(3人に1人)だから万引きをしたとか結婚できないといっているようなもので、もはやそれだけでは因果関係の直接的な説明にならないのだ。
 実際に読者や視聴者はそのことを直感的に感じ取り、メディアに対して不信感を募らせていると思う。たとえば、新聞に関する意識調査で、「新聞は社会的弱者に目を向けているか」というアンケート(図3)を行ったところ、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と答えた人の割合は合計してもわずか22・2パーセントしかなかった。
 つまり5人に4人近くの人は、新聞が社会的弱者に向き合っていないと考えているのである。しかし現に新聞を読めば、「社会的弱者」の記事はたくさんある。にもかかわらずそう思われてしまうのは、問題の根本をつかんでいないからこそ、そういう印象が生まれてしまうのではないか。報じる側と報じられる側の間に大きな溝があるのだろう。
 こうした意識の乖離を少しでも埋めるためには、メディアがまず貧困や孤立というキーワードで社会の事象を切り取ることを極力やめるべきだと考える。
 それはあくまで前提であって因果関係を説明するものではない。だからこそ、いったんそれらをとっぱらった上でしっかりと因果関係を考えるべきなのだ。
 たとえば、先に紹介した「貧困ビジネス」を思い出してもらいたい。メディアがこの問題を貧困と孤立というキーワードで切り取ろうとすれば、先述のように日本に蔓延する貧困が一般庶民をホームレスへと転落させ、社会から隔たった空間で暴力団員たちが彼らを利用して違法な取引を行っているとなるだろう。
 だが、読者や視聴者は、そうした情報を求めているだろうか。そうではない。彼らがこの事件を知ってまず思うのは、ホームレスはなぜ暴力団員に利用されるまで生活保護を申請しないのか、とか、暴力団の手によって生活保護を受給できるようになったのならば逃げ出して一人で暮らせばいいではないか、ということだ。
 私自身この手の貧困ビジネスを取材したことがあるが、そこで知ったのはホームレスたちが精神障害や認知症をわずらっており、それゆえ自分では生活保護の申請をする能力がなかったり、受給後に逃げ出すという発想にならなかったりするという現実だった。
 また、別の元ホームレスは、暴力団にだまされているのは知っていたけど、知り合いと酒を飲んでいる時間が楽しいので、暴力団やホームレスたちと一緒に仲良く過ごす方がいいと考えたから留まっていたと語っていた。
 おそらくこうした情報を伝えれば、読者や視聴者も貧困ビジネスについて理解を深められるだろう。だが、先に述べたようにひと飛びに一般庶民がホームレスになって、私たちの知らないところで暴力団に利用されたというだけでは、核心の部分が抜け落ちてしまう。
 同じようなことは、アパートでの餓死事件においても当てはまる。貧困や孤立というキーワードで報じようとすれば、家族が貧しさゆえにアパートで孤独に苦しんだ末に餓死したということになる。
 だが、もしそうだったらアパートで生活保護を受けて暮らす人全員が餓死することになるだろう。
 読者や視聴者がこの事件を知った時に真っ先に思うのは、どうして餓死する前に行政などに助けを求めなかったのか、とか、3人同時に餓死するわけがないから、なぜ誰か一人が死んだ時に残りの者が通報しなかったのか、ということだ。
 私は類似の餓死事件を取材したことがあるが、この時は餓死した貧困者がコミュニケーション能力のない障害者だった。つまり、人に対して助けを求める能力のない人間が孤立したからこそ、こうした事態に陥ったのだ。
 一家3人の餓死事件と私の取材した事件とはまったく同一ではないにせよ、たとえばこうした情報を報じれば、読者や視聴者は餓死の理由を納得することができるだろう。
 念を押して言いたいのは、私は貧困について考えるなと言っているのではない。そうではなく、貧困がここまで広がった以上、もはや貧困という切り口だけで社会で起きていることを説明することは難しいということだ。
 ならば、いったん「貧困」という大雑把な枠組みを取っ払ってみてはどうだろうか。その上で出来事の因果関係を考え、情報として報じなければ、少なくとも貧困を実感している読者や視聴者の心には響かないし、溝がどんどん広がっていってしまうだけだ。
 ジャーナリズムとは、物事の本質を伝える作業をいう。ならばこの枠組みを取っ払うということが、そのための第一歩ではあるまいか。
 少なくとも私はこれまで国内外の貧困を書いてきた一人の物書きとしてそう考えているし、自分自身にそのことを絶えず戒めて現代と向き合っていこうとしている。
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2015年03月06日

知的障害などの他の問題が隠れてしまう!

 関西のある貧困家庭で起きた事件は、生活保護を受けて暮らすシングルマザーのアパートで起きた出来事だった。20代の母親は生活保護のお金に頼り、生まれたばかりの赤ん坊を1人で育てていた。ギリギリの生活だっただろう。ある日、母親は泣いている赤ん坊の口を塞いで窒息死させてしまった。
 事件が明るみに出ると、メディアは母親が貧しさの中で1人懸命に子育てをしたものの、誰からも支援を得られず、ノイローゼになって赤子を殺害してしまったというような視点で報じた。つまり、孤立した「あっちの世界」での出来事として片付けてしまったのである。
 だが、この家に一時期出入りしていた福祉関係の女性は、「あの母親は、たしかに貧しかったし、1人で子育てをして大変な思いをしていたと思います。けど、彼女の問題はそこにあるわけじゃないんです。彼女はもともと知的な問題があって、赤ちゃんを殺したのも『口を塞げば静かになると思った』と言っていたそうです。つまり、彼女は殺す気でやったんじゃなく、わからないでやったら死んでしまったんです。
 でも、これって貧困家庭で起こりうることなんですよ。知的や精神的に問題のある女性が一人で子供を育てなければならなくなった時、それがうまくできずに子供に重大な怪我をさせてしまったり、最悪死に至らしめてしまったりすることがあるんです。
 私が求めるのは、貧しい家で変な女性がこんな事件を起こしてしまったよって報じることじゃないんです。そんなふうに報じられてしまったら、誰も事件の本当のことをわからないし、どうしていいかわかりません。
 だけど、事件の女性がどんな人で、どんなふうにして赤ちゃんを殺してしまったかをちゃんと報じれば、みんな問題の本質を理解しますよね。そして、身近にそれに該当する人がいれば、同じことが起きないように目を光らせて観察するようになったり、怪しいなと思うことがあれば警察などに通報するようになったりします。つまり、貧困家庭で起きたことというのではなく、みんなが同じ土俵に立って事件の原因を理解して再発を防ぐことが大切だと思うんです」
 メディアはこの事件を「生活保護を受けていた母子家庭で起きたこと」としてつたえてしまう。しかし、当たり前だが生活保護を受けている母子家庭すべてでそんなことが起こるわけがない。
 母親が子供を窒息死させてしまったのは、生活保護を受けている母子家庭だからではなく、知的な問題があったからだ。にもかかわらず、貧困という枠組みでそれを報じるから本当の因果関係が見えなくなってしまう。
 なぜそういうことが起きてしまうのか。それは貧困と孤立というキーワードによって「こっちの世界」と「あっちの世界」と社会を二つに分けて、あっちの世界はこっちの世界には理解できないことが起こりうるという突き放す姿勢があるからではないか。件の女性が取材の際に語ったように「みんなが同じ土俵に立って事件の原因を理解」しようとすれば、そんな報道にはならないはずなのだ。
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2015年03月05日

メディアは貧困をいかに報じているのか?

 メディアは日本の貧困をどのように報じているのだろうか。
 ゼロ年代の初頭から半ばにかけて日本における貧困が注目された際、メディアは相対貧困率の高さやホームレスの多さを数字で表して貧困を裏づけしようとした。
 実際バブル崩壊から約10年を経て、日本の雇用形態や給与形態が大きく変わり、それによって目に見える形で格差が表れだしたのがこの時期だった。
 メディアが報じた相対貧困率やホームレスや生活保護受給者の数などによって人々が知ったのは、「一億総中流」が幻であり、すさまじい格差が広がっているという実態だった。多くの日本人はその現実を目の当たりにし、貧困を身近なこととして捉えるようになった。
 だが、それから徐々に時が経過して、日本において貧困が蔓延している事実が認識されるようになると、次にメディアはそこから派生する様々な社会問題を貧困問題として取り上げるようになった。
 「ワーキングプア」「ネットカフェ難民」「無縁社会」「ハウジングプア」といった新しい言葉で現代社会を再定義しようとしたのは、そのことを示している。貧困によって新たな社会潮流が生まれていると報じたのだ。
 その中で、メディアは社会で起きているさまざまな事件にも目を留め、たびたび貧困との関わりについて言及してきた。現代において起きている社会問題の根底には貧困が大きく影響しているのだ、と。
 その象徴的なニュースが、「貧困者の餓死事件」であったり、「母子家庭で起きたネグレクト」であったり、「暴力団による貧困ビジネス」だ。
 順を追って説明しよう。
 まず「貧困者の餓死事件」は、たとえば2012年に埼玉県で起きた、60代の夫婦とその息子の餓死事件が挙げられるだろう。電気とガスが止められたアパートで、3人の餓死した遺体が見つかったのである。
 家には1円玉数枚と飴玉しかなく、冷蔵庫は空っぽだったという。この出来事は貧困の果てに一家3人が助けを求める人もないまま餓死した事件として報じられた。
 「母子家庭で起きたネグレクト」に関しては毎年何件も起きている。
 貧しい母親が、夜の水商売などに励み、幼い子供の世話を放棄することで餓死に至らしめてしまうような事件である。また餓死までいかなくても、栄養失調の状態で発見されるケースであればニュースにすらならないほど頻発している。これらは貧しい母子家庭で起きた悲劇として報じられることが多い事件だろう。
 「暴力団による貧困ビジネス」は、まさに貧困者を狙った事件だ。
 暴力団の組員が、ホームレスを集めて生活保護費を受給させた上で、安価な簡易住宅での集団生活を強いるのである。
 組員はホームレスが受給する生活保護費を奪って余った分を資金とするだけでなく、息のかかった病院で診察をさせる。生活保護受給者の医療費はすべて国の負担となるため、病院側は不正に診察費や治療費を請求し、その何割かを暴力団に流していたのである。また、無料で処方された薬を転売していたこともあった。
 ここからわかるのは、メディアの貧困報道は、日本の貧困を数字で示すという段階を経て次の段階、つまり貧困がいかなる問題を引き起こしているのかということを伝える段階に進んでいるということだ。
 その際、メディアが貧困を描く際のキーワードとして使うのが「孤立化」といえるのではないだろうか。すでに述べたように、日本の貧困のあり方は人々を孤立させる側面があり、それが問題を大きくさせる要因となっていることが少なくない。だからこそ、メディアは貧困者の孤立化という視点で貧困問題を描こうとする。
 「貧困者の餓死事件」であれば、貧困者が社会から隔絶されたことによって餓死に追い詰められたとするし、「母子家庭で起きたネグレクト」であれば母親が貧困に攪乱されるようにして育児放棄をしたとする。あるいは「暴力団による貧困ビジネス」であれば、ホームレスという社会から切り捨てられた人々が孤立した結果として暴力団に利用されたという視点で描くだろう。
 つまり、広い社会の中で貧困者が孤立し、それが事件となって私たちの前に現れているという捉え方なのである。こっちとあっちの世界 勝手に線引きしていないか
 しかしながら、こうした貧困問題の切り取り方は、貧困と孤立というキーワードによって社会を二分していることに他ならない。
 「こっちの世界(一般世界)」と「あっちの世界(貧困世界)」にわけて、一般社会の位置から貧困社会を分析し、報じているのである。だからこそ、孤立した「あっちの世界」で起きた出来事として報じられているのである。
 論より証拠。たとえば次の記事を読んでもらいたい。

■娘絞殺:生活に困り 容疑で母逮捕 (毎日新聞14年9月24日)
 24日午前11時10分ごろ、千葉県銚子市豊里台3の県営住宅の一室で、中学2年の松谷可か純すみさん(13)が布団の上で倒れているのを、部屋の明け渡しを行うために訪れた裁判所の執行官が発見し、110番通報した。銚子署員が死亡を確認し、部屋にいた母の美花容疑者(43)を殺人容疑で逮捕した。容疑を認めているという。
 逮捕容疑は同日午前9時ごろ、可純さんの首を絞めて殺害したとしている。県警によると、美花容疑者は可純さんと2人暮らし。約2年間家賃を滞納しており、同日までの立ち退きを迫られていた。「このままでは生きていけないと思った」と将来を悲観する内容の供述をしているという。 可純さんが通う中学によると、可純さんは23日も部活動の練習試合に参加するなど元気そうだったという。教頭は「家賃の滞納などは知らなかったので驚いている」と話した。

■中2の娘殺害容疑で母逮捕 生活保護を相談(産経新聞14年9月24日)
 千葉県銚子市豊里台の県営住宅で24日、住人の市立中2年、松谷可純さん(13)が布団の上で倒れて死亡していた事件で、銚子署は殺人容疑で同居の母親、美花容疑者(43)を逮捕した。逮捕容疑は24日午前9時ごろ、自宅で可純さんの首を鉢巻きで絞めて殺害した疑い。
 銚子署によると、美花容疑者は可純さんと2人暮らし。平成24年7月以降、家賃を滞納しており「このままでは生きていけず、一緒に死のうと思った」と容疑を認めている。経済的に困窮して無理心中を図ろうとしたとみて調べている。
 銚子市などによると、美花容疑者は昨年4月、市の生活保護の相談窓口で制度の説明を受けたが、申請はせずに帰っていたという。
 可純さんが通う中学によると、可純さんはバレーボール部のレギュラー選手で、23日の練習試合にも参加していたが、変わった様子はなかったという。

 おそらく新聞の社会面を読みなれている読者にとっては、既視感すらあるような事件ではないだろうか。
 この記事からいえるのは、まず記事自体が「こっちの世界」と「あっちの世界」をわけているということだ。最後の教頭の談話にもあるように「知らなかった」「驚いている」というのがまさにそれを示している。一般社会から見えないところに貧困があり、そこで起きた事件としているのだ。
 こういう目線で事件を報じた時、私は事件の因果関係が曖昧になってしまうのではないかと懸念する。
 記事をよく読んでいただきたい。なるほど記事は、学校が把握していないところで母親が貧困に苦しんでおり、結果として生活が行き詰まって娘を殺したと書いていることは確かだ。「経済的に困窮して無理心中を図ろうとした」とあるが、それを示している。
 だが、立ち止まってよくよく考えてみれば、同じような家庭は山ほどあるわけで、なぜこの家に限って母親が娘を殺害してしまったのかという答えにはなっていないのだ。
 つまり、「こっちの世界では知らなかったことが、あっちの世界では起きていますよ」と伝えているだけで、事件の本質ともいうべき殺人にいたる経緯がまるで抜け落ちてしまっているのである。
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2015年03月04日

日本における相対貧困は見えない形で広く存在

 日本における相対貧困とはどのような特色を持つものなのだろうか。
 現在、日本における相対貧困層の基準は年収でいうと約122万円以下で、その割合は6人に1人になるといわれている。数にすれば、約2000万人に及ぶ。膨大な数であることは誰にでもわかるはずだ。
 だが、日本には途上国のような貧困者だけが集まって暮らすスラムというものがない。少なくとも、スラムという言葉が本来示す「不法占拠による住宅が密集した貧困街」というものはない。
 では、日本において貧困者はどこに暮らしているのか。一言で表せば、都市に点在しているのだ。
 東京を例にとって考えてみたい。東京23区の中で荒川区、北区、足立区といった地域は平均所得が低いといわれているが、何も貧困者はメガスラムのようにそこだけに集まって暮らしているわけではない。
 高級マンションが集まり、比較的所得が高いといわれる千代田区や港区や中央区といった地域においても、家賃4、5万円台のアパートというのは存在し、そこにも相対貧困層と区分される人々が暮らしている。
 なぜこうしたことが起こるのかといえば、日本では貧困者とはいえども最低賃金が定められていたり、福祉制度が適用されたりすることで、最低限度の生活が保障されているからだ。
 たとえば日本では失業して収入がゼロになっても、生活保護のような福祉制度によって住宅費用が支給される。地域によって異なるが、6畳1間の風呂・トイレ付きのアパートに住むぐらいのお金は出る。
 こうなると、彼らは空き地に勝手にバラックを建てて住み着く必要はなく、町にある安いアパートに入居することになる。これが日本でスラムのような空間ができない主な要因だ。ただし、この安いアパートは1つの地域だけに集まっているわけではなく、所得の低い地域であっても高い地域であっても存在する。この結果、貧困者が町のあらゆるところに点在し、姿が見えなくなってしまう。
 スラムのように一カ所に集まっていれば可視化されて、良くも悪くも社会の中で明確な存在になるが、日本では都市の中にまぎれこんでしまうことによって、不可視の存在になるのだ。これは貧困者の「孤立化」という事態を生み出す。
 たとえば、町の格安アパートに生活保護を受給している貧困者が住んでいたとしよう。四方を壁に仕切られた部屋で、仕事をせずに暮らしていれば、なかなか隣人と関わったり、よそに暮らす人々と接したりする機会はない。そうなると、アパートの部屋で貧困者は孤立してしまう。高級住宅地のほうがこうした孤立化の傾向は強い。ある程度の値段のするマンションに囲まれるようにしてポツンと安価なアパートがあったりすれば、貧困者はなかなか周囲のマンションの住人と関わりを持つことができない。
 また、貧困家庭の子供が学校へ行ったところで、クラスメートと所得格差がありすぎるために同じ遊びをすることができず、1人ぼっちになってしまうこともある。全員が全員ではないが、特に子供や老人といった社会的弱者が何かしらの形で孤立する可能性が高い。
 貧困支援の現場において、孤立化はとても大きな問題だ。
 貧困問題を扱うNPOなどが積極的に行うことの1つが、この孤立化の防止あるいは解放である。子供や老人が貧困世界の中で孤立しないように防ぎ、外の社会とつながりを持たせて困ったことがあれば相談できる環境をつくろうとする。たとえばホームレスたちに対する夜回りや炊き出し、あるいは散髪ボランティアなどはその1つといえるだろう。
 また、NPOスタッフが独居老人の自宅を巡回して健康状態を確認したり、いつでも電話で相談できる窓口を設置したりして連絡先を確保する活動も同様だ。
 人とのつながりが遮断されるからこそ、ホームレスの凍死や餓死が起きたり、独居老人の孤独死という事態が起きたりする。だからこそ、NPOなど支援団体は孤立化を防ぐことで、問題を最小限に抑えようとしているのだ。
posted by GHQ/HOGO at 07:35| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月03日

日本の貧困を考えるにあたっての発展途上国の貧困

 今から10年ほど前、日本の貧困問題がマスメディアをにぎわせてからさまざまな視点で報じられてきた。毎週のように貧困が絡んだニュースが流されているといっても過言ではないだろう。
 だが、貧困に関する報道が多様になればなるほど、問題の核心から離れていってしまっているように思う。起きたことを伝えるという意味では間違っていない。ただその報じる視点が、現実とかけ離れたものになりつつあるように感じられるのである。
 一体なぜそうしたことが起きているのか。貧困報道に関する違和感について述べたい。
 まず日本の貧困を考える上で、世界において日本の貧困がどのような形を持っているかを認識しておく必要があるだろう。
 発展途上国の貧困は「絶対貧困」として定義されることが多く、日本のような先進国のそれは「相対貧困」として定義されるのが通例だ。
 いうまでもなく、絶対貧困は1日1.25ドル以下で暮らす人々を示し、相対貧困は世帯所得を世帯人数で調整して出した中央値の半分に満たない所得で暮らす人々を示す。前者は世界で6人に1人、後者も日本で6人に1人がそれに当てはまるとされている。
 ただし、貧困のあり方は大きく異なる。発展途上国では、社会の中に貧困が共同体としてまとまった形で存在していることが多い。
 この典型的な例がスラムだろう。都市の中にスラムと呼ばれる貧民街が存在し、そこに絶対貧困層が数万人から数十万人という規模で集まって暮らしているのだ。貧しい人々の街ができあがってしまっているのである。
 なぜこうしたことが起こるのかといえば、貧困者たちの絶対数が多い上に、福祉制度などが整っていないために、全員が不法に土地を占拠して住み着くしかないからだ。
 人の住んでいない郊外の荒れた土地、川や線路の周辺、丘の斜面などに廃材をつかってバラックと呼ばれる簡易住宅を建てて暮らすのだ。
 世界的にも有名なスラムはいくつもあり、たとえばケニアのキベラ、フィリピンのトンド、ナイジェリアのマココなどがそれだ。メガスラムと呼ばれるところになれば、50万人、もしくは100万人近い人口を擁することもあり、都市人口の7、8割を占めてしまうことも少なくない。
 町によっては中心部だけが高級住宅地であり、ダウンタウン(下町)から先はすべてスラムという、「貧困版ドーナツ化現象」なのだ。
 こうした途上国における貧困の形の特徴をいえば、貧困が可視化されていることが挙げられるだろう。
 町のある地区にはバラックが密集するスラムが広がっており、そこで人々がどのような暮らしをしているか見ることができる。1つのバラックに何人ぐらいの家族が住んでいて、何をどのように料理し、いかにして眠っているのか。都市空間の中で、貧困が誰の目にも明らかな形で存在しているのだ。
 貧困が可視化されているというのは、どのようなメリットとデメリットがあるものなのか。
 代表的なデメリットから先に言えば、差別である。貧困が可視化されるということは、すなわち社会問題が形になって見えることであり、そのぶん偏見の眼差しにさらされて攻撃を受ける対象となりやすい。
 かつての日本でも被差別部落や朝鮮人部落がまるごと差別の対象となったことがあったが、同じように途上国でもスラムそのものが差別の対象となり、中傷や暴力の矛先となる場合がある。
 たとえば、インドネシアでは一般庶民や警察官などによるスラムの焼き討ち事件が度々起きている。社会事件が起きたときに、一般庶民や警察官が犯人はスラムの住人にちがいないと勝手に思い込んで無作為に火をつけたり、暴力をふるったりしたことがあるのだ。
 また、南アフリカ共和国のスラムでは、隣国ジンバブエから移り住んできた人々の居住区が焼き払われるという事件が起きた。彼らが低賃金で働くために、南アフリカの人々が仕事を失ったと逆恨みされ、暴動が起きたのである。
 無論、これらは極端な例ではある。だが、一般庶民にとっては見える形で貧困者の共同体が存在するからこそ、普段からそこに偏見の眼差しを向け、何かあった時にスケープゴートにするのだ。
 反対に、貧困が可視化されることのメリットを1つ挙げるとすれば、共同体の中で行われる助け合いだろう。
 途上国の貧困者は、福祉制度などの恩恵を受けて最低限の生活を保障されているわけではなく、どんなことをしてでも自力で苦境を打開していかなければならない。
 だが、弱い貧困者がすべてを1人で切り開いていくのは不可能に等しい。その日暮らしをしていれば、病気になったり怪我をしたりしただけで食べていくことができなくなるし、洪水や台風が起こることで最低限の仕事さえできなくなることもある。
 そんなとき、生活が可視化されていれば、隣人が追い詰められている状況を見抜いて、手を差し伸べてくれる。風邪をひいている時にご飯を分けてくれたり、洪水で家が流れてしまえば泊めてくれたりするのだ。
 実際に私が暮らしたことのあるフィリピンの首都マニラのスラムでもそういう様子を度々見かけた。
 ある家族が仕事を失って食べられなくなったときに、別の家族がすぐに察知して仕事を探してきてくれたり、兄や姉が働けるように幼い子供を預かってくれたりするのだ。
 また、ナイトクラブで働く女性が、スラムの失業者たちに店の残り物を与えたり、客引きの仕事を紹介したりすることもあった。隣人が陥っている状況が目に見えるぶん、公然と支え合いが行われている、いや、行われなければならない状況があるのだ。
 これはどこか1つの家族に何かが起きても、別の家族たちによって支えられる相互扶助システムだといえる。
 逆に言えば、国から何の保障も受けられない途上国の人々は、こうした助け合いによって危機を乗り越えているのだ。言い換えれば、彼らにとって共同体としての貧困はなくてはならない命綱ということになるのである。
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2015年03月02日

給付付き税額控除/就労の意欲促す発想を

 働いて所得が増えると、その分給付額が減る生活保護で、働く意欲を保つことはたやすくない。ワーキングプア層や生活保護受給者の働く意欲を後押しする重要な考え方が、所得税額の控除と手当給付を組み合わせた「給付付き税額控除」だ。
 例えば、10万円の給付付き税額控除の場合、税額が15万円の人は10万円を控除され、5万円を納める。一方、税額が5万円の人には、5万円の手当が給付される。課税所得がない低所得者もメリットを得られる。
 この方法だと、働けば働くほど、一定の所得までは給付が増えていく。働く人の賃金、働けない人の福祉というこれまでの二分法を超えて、中間ゾーンを作る仕組みだ。
 現状では、所得が限られていれば、「これでは生活できないから、生活保護を受ける」と思ってしまってもおかしくない。給付付き税額控除なら、働く意欲を持ちやすい。
 米国では1970年代から、先取りし導入している。一定の所得になるまで4割程度の給付を積み上げる形で、10万円の所得があれば給付される手当と合わせ、14万円になる。導入されたときは、「労働ボーナス」とも言われた。
 ここ十数年の間に英国、韓国に広がっている。
 一方で、共通番号制などで所得を確実に把握する必要があり、日本に導入するには技術的な問題が残されている。
posted by GHQ/HOGO at 07:26| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする