2009年11月15日
雇用の期限なしを原則とし、賃金を生活保護基準以上とせよ!
さらに、賃金水準が生活保護基準に届いていないケースが多いというのはいかにもまずい。生活保護基準の生活ができる程度の最低賃金を保障するというのはどこの国でも普通はやっていること。日本ではなぜできないのか分からない。フルタイムで働いても食えない状態が放置されていることに対し、経営者団体にも社会的責任という観点から考なければならない問題だ。
そして、最低賃金の上に、通常の一人前の賃金が来る。たとえばその人たちが病気になったり失業した場合、社会保険で給付がなされるわけだが、その給付水準がもらっていた賃金の7割、6割になってもなお生活保護基準を上回わる必要がある。そのためには、生活保護基準の6分の10倍くらいの賃金がないとおかしい。そういうふうにシステマチックに考えてみると、賃金が低いと何をやってもぐしゃぐしゃになってしまう。生活保護基準を最低賃金が上回る、さらにその数倍が通常賃金として確保される―こういう全体的な枠組みにいかに近づけていくかを考えないと、社会保障、社会保険、生活保護はうまく機能しない。
いま、その順序が逆転している。働いている人たちの賃金が低すぎる。それが生活保護、年金が手厚すぎるという攻撃に転化しやすいわけだが、およそまともなことではない。それを何とかするためには賃金を低すぎる現状を何とかしないといけない。そうすると中小企業が大変だという反論が出てくるが、最低賃金が出せない企業は市場から撤退してもらったほうがいい。社会的責任を果たせない企業が一定数いると、全体の足を引っ張ってしまう。
2009年11月14日
社会サービスへの公的支出が少なすぎる
その国内総生産(GDP)比率を各国比較してみよう。とくに勤労世帯に関係あるものは、家族関連支出とか積極的労働市場政策(職業訓練)、失業補償、住宅保障、生活保護だが、これをひとまとめにして、その対GDP比率を並べてみると、日本はなんと最下位から2番目である。平均が5%か4%のところ日本は1.7%しか支出していない。
日本の場合、勤労世帯の生活が安定することに、政府が貢献する割合が非常に低いということを示すデータだ。日本の経済力を考えると異様な状態を示している。
この公的社会支出の中には教育費は入っていない。小学校から大学院までの各教育ランクの教育機関の費用で国や自治体が出している公的費用の対GDP比率を見てみよう。30ヵ国のOECD加盟国の中では日本が最下位の3.4%である。平均は5%前後というところだ。それから見ると、平均の60%程度しか日本は出していない。
勤労世帯向けの公的社会支出と併せて考えると、日本の場合「自己責任」に任されている生活領域が非常に大きいということになる。もっとも、こうした費用を公的に保障するとなると、社会保険料や租税でたくさんの財源負担を企業や国民が受け入れるかどうかという問題が出てくるのだが。
2009年11月13日
1日1ドル以下は最貧困層?
確かに、国際貨幣経済の枠組みに組み込まれている日本で生活するには1日1ドル以下の収入は、貧困極まりない。しかし、国際貨幣経済の枠組みに入っていない地域に住む人々にとっては、1日1ドル以下の収入でも幸せに暮らすことができることも少なくない。貧困はお金がないから貧困なのではなくて、「お金を必要とする地域で」「お金がない」から貧困なのだ。国際貨幣経済の枠組みに入っていない地域に産業を組み入れることは、貧困を救済するというよりも、むしろ「新たな貧困」を生み出す恐れが大きいといえる。
もっとも、新自由主義者である多くの資本家は、それを分かってやっているだけに始末が悪い。新資本主義経済を普及させて、新しい新資本主義下で植民地を作り、食料を握り、資源を根こそぎ奪い、搾取する―そんな悪い奴らが溢れかえっている。「最貧困層を助けなければいけない」―それに善意で加担する奴らは、ある意味でもっと始末が悪いといえる。人は「カネ」で尊厳を保てるものではない。文化が異なることに、もっと敬意を払うべきだ。国境を越えることには、もっと慎重であるべきだ。
2009年11月12日
新自由主義的政策に異議申立てを!
労働市場における規制緩和政策により、ワーキングプアなど格差と貧困の問題が拡大し深刻化している状況があるにもかかわらず、例えば経済財政諮問会議は06年10月に、いわゆる「労働ビッグバン」を打ち上げ、労働時間の裁量化として、一定年収以上のホワイトカラーに残業代を支給しないいわゆるホワイトカラーエグゼンプション制度の導入や、派遣労働の期間制限撤廃などの規制緩和策を提言た。
ホワイトカラーエグゼンプションは、長時間・過密労働とサービス残業を強いられている労働者に対して、自己管理型労働と称して労働時間規制を適用除外することにより、不払い残業を合法化し、さらなる人件費圧縮につなげようとするものである。日本経団連は、違法なサービス残業を解消するために政府が発出した「サービス残業解消通達」をやり玉にあげ、「企業の労使自治や企業の国際競争力の強化を阻害しかねないような動きが顕著」などと非難しており、サービス残業を合法化し、人件費カットを意図していることがみてとれる。
ホワイトカラーエグゼンプション導入は、労働者、労働組合、広範な市民の反対により政府は法案上程を断念するという展開をみたが、依然として財界はこの導入を強く求めており、現厚生労働大臣が制度の導入に意欲を示す発言をするなど、労働時間規制に関するさらなる規制緩和を求める動きは継続するものと考えられる。
派遣労働に関しても、派遣会社側の違法行為、賃金ピンハネ、誇大広告による労働条件の偽装が社会問題化するなか、登録型遣の禁止、現在は原則自由の労働者派遣を再規制(労働者派遣は原則禁止、一定の類型だけをとくに許すという99年以前の規内容に戻す)を求める声と取り組みが非常に大きくなっている。反面、日本経団連の規制改革要望では、雇用労働分野の34項目中、派遣期間制限の撤廃、雇用申込義務の廃止、禁止業務の解除など派遣関係で11項目を掲げ、完全な自由化を求めるもになっている。
労働市場における規制緩和は雇用格差と貧困をもたらし、これらをもたらす新自由主義改革政策が続けば状況はさらに酷くなる。新自由主義的政策に異議申立てを行うことが今極めて重要なのである。
2009年11月11日
少し取り上げるのが遅くなったが
反貧困世直し大集会2009 集会宣言
2009年10月5日、長妻厚生労働大臣は、政府として貧困率の測定をするよう指示を出しました。これまで、日本政府は一貫して「測定は困難」「意味がない」などとして、貧困率の測定を拒んできました。しかし、その壁は、ようやく、打ち砕かれました。
私たちは昨年10月19日、明治公園に集まり、次のように宣言しました。「日本社会に広がる貧困を直視し、貧困の削減目標を立て、それに向けて政策を総動員する政治こまた「政治は、政策の貧困という自己責任こそ、自覚すべきだ。道路を作るだけでは、人々の暮らしは豊かにはならない」とも言いました。そして、去る9月16日、マニフェストで次のように宣言した民主党が中心の新政権が誕生しました。「コンクリートではなく、人間を大事にする政治にしたい」「すべての人が、互いに役に立ち、居場所を見出すことのできる社会をつくりたい」「すべての人が生きがいと働きがいを持てる国を、あなたと民主党でつくり上げようではありませんか」と。
私たちは、ここに示された理念こそが、最大の政権公約だと考えます。この理念が失われれば、マニフェストに書かれた個々の政策が実現しようとも、そこに“魂”はない。もし、マニフェスト実現のためにその理念が犠牲にされるようなことがあったら、私たちはそれを最大の公約違反とみなし、「すべての人が、互いに役に立ち、居場所を見出すことのできる社会」を作るために、新たな選択を行うでしょう。何のためにマニフェストを実行するのか、その目的と理念こそが重要です。
私たちは、その目的を達成するために、貧困率の測定と貧困削減目標の定立を求めてきました。なぜなら、経済的な困窮と、人間的な孤立と、精神的な逼迫によって貧困状態に追いつめられた人々は、社会の中に「居場所を見出すこと」ができないからです。どれだけまじめに働いても貧困から抜けられず、モノのように捨てられる人たちは「生きがいと働きがい」が持てないからです。穴だらけのセーフティネットからすべり落ち、制度の谷間に放置される人々は「人間を大事にする政治」を実感できないからです。「反貧困」という言葉は、その意味で、新政権の理念を体現しています。貧困問題は、新政権の中心的課題に据えるべきです。貧困問題に正面から立ち向かうこと、それが新政権の最大の政権公約です。
「反貧困」が問われるのは、国内施策のみならず、外交や国際協力の分野でも同じです。日本の「援助」は、ともすれば、大型インフラ建設等による国内産業への資金還元や途上国への経済進出の道具として使われ、一部では貧困を加速すらしてきました。「援助」政策においても、新政権が「反貧困」に立脚できるかどうか、南の世界の人々が真に貧困から脱却できるような「援助」に変えていけるのかどうかが世界から問われています。
ちゃんとやるよね!?新政権。この言葉には私たちの、「頼むからこれ以上、政治に失望させないでくれ」という悲痛な願いが込められています。深い失望が深刻な社会の荒廃をもたらす歴史を、私たちは知っています。5年後、10年後に振り返って、「あそこで、私たちは本当の意味で誤ったのだ」と、そう悔やむことはしたくない。私たちは今、たしかに“何か”を賭けています。楽観とシニシズム、不安とあきらめの間に、細い糸を通そうとしている。糸が通る穴があるのか。それはおそらく「ある」のではない。私たちが「開ける」のです。
生活保護の母子・老齢加算復活、児童扶養手当改正に“魂”が入るのか、抜けるのか。
労働者派遣法の抜本的改正に“魂”が入るのか、抜けるのか。
障害者自立支援法の廃止に“魂”が入るのか、抜けるのか。
後期高齢者医療制度を廃止し、総合的な新法制定に“魂”が入るのか、抜けるのか。
そして、「政権交代」に“魂”が入るのか、あるいは抜けるのか。 貧困率削減目標に“魂”が入るのか、抜けるのか。
世界の貧困の解消、「人間の安全保障」の実現に“魂”が入るのか、抜けるのか。
――ひとつひとつの課題に“魂”を込めてきた私たちは、それゆえにこそ、その行方を注視せずにはいられない。傍観者ではいられない。 約半世紀に及ぶ無関心から抜け出して、私たちは今、日本と世界における貧困問題のスタートラインに立とうとしています。そこからの私たちの歩みが、社会の、国の、世界の「形」を決めていく。誰もが人間らしく暮らせる「形」をつくろう。 主権は、われわれに在る。私たちの希望はいつもここにあり、そしてここにしかない 以上、宣言する。
2009年10月17日
「反貧困世直し大集会2009」集会参加者一同
声明
2009年10月16日
反貧困ネットワーク
代表 宇都宮健児
10月14日、反貧困ネットワークの湯浅誠事務局長が、政府の国家戦略室の政策参与として起用されることが内定した。 湯浅事務局長の起用は、同氏のこれまでのNPO法人自立生活サポートセンター・もやいや反貧困ネットワーク、年越し派遣村村長などの活動が評価されたものであり、同氏には、年末年始の緊急対策での政策提言が期待されているものと考える。
わが国の現状は、雇用情勢が悪化する中でホームレスが急増し、年末年始の「派遣村」再現すら憂慮される事態となっている。新政権には、「派遣村」を必要としない緊急対策が求められている。私たちは、新政権が、湯浅事務局長の経験と力量を十分に活かし、万全な年末対策を具体化することを、大いに期待する。
一方で、私たちは、今後の政府の施策を注視するとともに、引き続き政府に対し、貧困率の測定とそれに基づく貧困率削減目標の定立を求める。さらに、3党合意に基づく労働者派遣法の早期抜本改正、最低賃金の大幅引き上げと全国最賃制確立、有期労働契約の濫用規制、「障害者自立支援法」の廃止と、「制度の谷間」がなく利用者の応能負担を基本とする総合的な制度の制定、児童扶養手当の抜本改正、母子加算・老齢加算の復活等、総合的な貧困対策を求める。 私たちは、引き続き、貧困に苦しむさまざまな人の声を聞きながら、それらの人とともに力をあわせ、貧困のない社会を目指し、活動を継続していく決意であることを表明する。 以上
2009年11月10日
格差と貧困を生み出しているものは?
資本主義社会においては、形式上、自由と平等が建前とされているが、実質上は、持てる者の自由と持たざる者の不自由が生み出されているのだ。
第二次大戦後のいわゆる先進諸国はいわゆる自由主義(リベラリズム)に基づく政策が主流で、個人の自由で独立した選択を実質的に保障し、極度の貧富の差による弊害を防ぐためには政府や地域社会による積極的な介入も必要であるという考えに基づき(市場の自由を重視する自由放任主義=古典的な自由主義に内在する欠陥が世界恐慌などの弊害をもたらした)、年金、医療等の社会保障の拡充、公共事業による景気の調整、主要産業の国有化など国家が積極的に介入し個人の実質的自由を保障すべきとの政策をとり、福祉国家と呼ばれる路線と政策を行ってきた。
これに対して、80年代以降に英国や、米国などに登場した新自由主義(英語ではネオリベラリズム)は、国家による福祉、公共サービスを縮小させ、大幅な規制緩和、市場原理主義の重視をいうもので、福祉国家を敵対視する。
日本においては、とりわけ90年代後半以降、小泉政権の構造改革に代表される新自由主義的施策が極度に進み、企業の国際競争力強化のためなどとして市場原理万能の規制緩和を行い、弱肉強食型の結果を惹起し、弱者を見捨てる政策が断行されてきた。
この新自由主義改革に基づく政策、施策は、構造改革、規制緩和と称して行われてきており、あたかも国民、消費者の利益になり、国民生活を向上させるかのように語られているが、実はこれらの自由主義改革が格差と貧困という矛盾を生み出す根源となっている。新自由主義改革と呼ばれる政策と施策がどのように格差と貧困を生み出しているのか、さしあたり格差と貧困がまず現れる雇用と所得について次回は概観してみる。
2009年11月05日
生活保護基準をしっかり決める必要がある
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
これが根拠となって、生活保護費が支給されているわけだ。では健康で文化的な最低限度の生活とは一体なんなのか。
とくに日本では生活保護は家庭単位で審査され、支払われる。例えば、4人家族で子供2人の場合、子供1人が1年間就職活動を行っても就職できなくても、親や家庭で他に稼いでいる人がいれば、その金額が保護基準以上となれば、生活保護は支給されない。極端な例を言えば、私の家庭で1人でもある程度の金額を稼いでいれば生活保護費は支給されないことが多くなる。
こういった家庭は健康で文化的な最低限度の生活を営んでいるか。働けるのに働き口がない30代の人が親や兄弟に面倒を見てもらっている場合、この30代の人は健康で文化的な最低限度の生活を行っているのか。他にもいろいろな場合が考えられるが、明らかなことは日本国における健康で文化的な最低限度の生活というものは何か、それがまったく語られてきていないことにある。
もし健康で文化的な最低限度の生活の基準が決められていたとしよう。大人1人当たり月に15万円の生活費が基準であり、子供・配偶者それぞれ月に3万円上乗せされるという基準があったとしよう。これで問題視されている家庭は月に24万円の健康で文化的な最低限度の生活を満たしていることになる。こちらの家庭には問題がなくなるのだ。
本当の問題は一般的に働いている人で月に15万円を下回る給料の人がいるということである。例えば月に12万円しか収入がない人がいるとする。もしこの人がフルタイムであれば、企業側の給与水準に問題があるとして是正指導が必要だし、労働時間が月に80時間であれば、160時間働いて稼ぐように促す必要があるだろう。企業の給与負担を減らすために国・自治体から足りない部分の給付があってもいい。
結局、この健康で文化的な最低限度の生活が決められていないために、不幸自慢が始まってしまう。「俺なんて睡眠時間毎日4時間14万円で働いているのに…」などなどだ。あたかも生活保護受給者がもらいすぎのように言われるが、もらいすぎである根拠がない。逆に言えば月に14万という数字が少ないと言う根拠もない。あるのは相対的な比較だけだ。
せっかく民主党政権は貧困問題に取り組むことになったわけだから、生活保護基準もしっかり決める必要があるだろう。
何を食べさせればいいのか?
ペットショップで購入した際、お店であげているというごはんをいっしょに購入してくる方が多いと思う。でも、必ずしもそのごはんは、ペットが好きなごはんではないのだ。ペットショップでは、同じ種類の子には同じフードを与えていることが多い。
だが、ペットショップには何匹ものペットがいるので、ほとんどの子が好んで食べるフードであっても、必ずしもあなたが購入した子が好んで食べていたフードとは限らない。ペットショップで購入する際には、無条件にお店で与えているフードを購入するのではなく、購入する子がよく食べていたかどうかを聞いてフード選びをするようにしよう。
ペットにとって好みではないフードの場合、食べる量が少ないのはよくあることである。ペットの食べる量が少ない場合、食べないことを悩むだけではなく、自分のペットに合ったフードかどうかも考えてみて欲しい。
2009年11月04日
所得の再分配?
この数値を受けた私の提案は、相対的貧困率を全国平均・子供・高齢者は10%未満、ひとり親家庭はOECD平均の30%未満にする数値目標を置くことである。
日本の貧困率が高い理由は、所得の再配分機能が他のOECD諸国に比べて弱いためである。市場所得ベースで比べると、相対的貧困率は他のOECD諸国と大きく変わりません。しかし、失業給付や生活保護など貧困層に対する政府からの社会保障が少ないため、税金・手当配分後の可処分所得ベースでは、差が開いてしまう。
また、もう一つの要因として、パート賃金がフルタイムに比べて安いことが挙げられる。ひとり親家庭が貧困になりやすいのは、パート賃金労働者が多ある。
相対的貧困率が日本で拡大してきた背景としては高齢化も指摘されているす。年功序列賃金が主流の日本では高齢者が高賃金になりやすい一方、若年層は失業率が高く、職があっても賃金が安いため、高齢者が増えるほど格差が数値上広がっていくのだ。
そして、私が問いかけたいのは、相対的貧困率を下げるために、私たちが増税まで負担する準備があるのかということである。あるいは、正規雇用の賃金を引き下げ、非正規の賃金を引き上げる準備があるのか、仕事を分け合うワークシェアリングの準備があるのかということである。
相対的貧困率の引き下げ目標は、総論として、ほとんどの人が賛成すると思う。しかし、相対的貧困率を本当に大きく引き下げるためには、むだな公共投資を減らすなどの財源確保だけでは足りないため、相対的貧困になっていない世帯から貧困世帯へ所得移転が必要になる可能性が高い。それだけではなく、貧困対策に押されて他の歳出の余裕が相対的に減ることになるかもしない。
しかし、政府と国民がスクラムを組み、貧困でない家庭が積極的に貧困対策に協力しない限り、この問題は解決しないと考えるす。そして、国民の側もそこまでの覚悟を持って、貧困対策の支援に取り組むことを提案したい。そうすれば、政府も所得の再配分がやりやすくなるはずだ。
2009年11月03日
日本は貧困国?
長妻昭厚労相は「子供手当などの政策を実行し、数値を改善していきたい」と述べ、同手当を導入した場合に貧困率がどう変化するかの試算も今後公表することを明らかにした。 相対的貧困率は、全人口の可処分所得の中央値(07年は1人当たり年間228万円)の半分未満しか所得がない人の割合。全体の貧困率は98年が14・6%、01年が15・3%、04年が14・9%。07年は15・7%と急上昇しており、非正規労働の広がりなどが背景にあるとみられる。
子供の貧困率は、98年は13・4%、01年に14・5%でピークに。04年13・7%、07年14・2%だった。子供よりも全体の貧困率の数値が高いのは、年金だけで暮らす低所得の高齢者が含まれることが主な理由とみられる。 政府は60年代前半まで、消費水準が生活保護世帯の平均額を下回る層の増減などを調べていたが、その後は貧困に関する調査はしていない。政権交代で就任した長妻氏が今月上旬、経済協力開発機構(OECD)が採用している計算方式での算出を指示。厚労省は国民生活基礎調査の既存データを使い算出した。
08年のOECD報告では、00年代半ばの日本は14・9%で、加盟30ヵ国平均の10・6%を上回り、メキシコ、米国などに次ぎ4番目に高かった。日本の貧困率は、1997年14.6%、2000年15.3%、2003年14.9%、2006年15.7%である。OECDのデータで国際比較できる直近は2003年の貧困率で、OECD加盟30カ国平均の貧困率が10.6%で、高いほうからメキシコ18.4%、トルコ17.5%、アメリカ17.1%で、日本の14.9%は4番目に高く、主要先進国という枠ではアメリカに次ぐ2番目の「貧困大国」である。ちなみに貧困率が最も低い国は、デンマークの5.2%、次いでスウェーデンの5.3%、チェコの5.8%である。
反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠氏が、「日本政府はこれまで貧困に向き合ってきませんでした。私は、貧困問題を解決していく“スタートラインに立っていない”と言っていますが、具体的に今、どれだけの子供が貧困状態にあるのか、国全体としてどれだけの人が貧困状態にあるのか不明です。まずスタートラインに立つために、きちんと日本政府として貧困率を測定する必要があります。貧困率の測定がないまま、子供手当という政策を実施しても、これによって子供の貧困がどれだけ減ったという話ができません。ぜひ、新しい政府は、そういうところでも転換してもらいたい。そして、今これだけの貧困があるけれど、さまざまな政策を打ってこれだけ貧困を減らしてきたというふうに取り組みを進めてもらいたい」と語っているように、日本政府は貧困問題を解決していく「スタートラインにようやく立った」のである。
ここのところ竹中平蔵パソナ会長が、いろんなメディアに登場しては、小泉構造改革は貧困と格差を拡大していないなどと吹聴して回っていたが、これでやっと表立ってのウソはつけなくなる。小泉構造改革は2001年から2006年まで行われたわけだが、今回政府が公表した貧困率は、2003年の14.9%から、小泉構造改革の最終年である2006年に15.7%へ「急上昇」しているのだ。
振り返ってみると、閣僚になる前の竹中平蔵氏は、1999年11月7日付『読売新聞』紙上で、「所得格差の拡大が、社会の不安定さを強める心配はないか」と記者に問われ、「よく、所得格差が広がり、米国のように金持ちと貧困者が増えると、社会の平穏が乱されるという意見を聞く。しかし、日本は、人種的同一性や勤労意識が高いなどと社会的同質性がある。社会が、さまざまな人たちで構成される米国とは違う面を持つ。日本の社会が、急激に不安定な状態に陥ると考えるのは早計だ」と答えている。小泉純一郎元首相が、国会で「格差が出るのは別に悪いことではない」と公然と主張したように、もともと竹中氏も「格差拡大」は何の問題もないと言わんばかりだったのだ。 そして、2006年6月16日付『朝日新聞』紙上で、当時まだ総務大臣だった竹中氏は、小泉構造改革の5年を振り返って格差が拡大したのではないかと問われ、「格差ではなく貧困の議論をすべきです。貧困が一定程度広がったら政策で対応しないといけませんが、社会的に解決しないといけない大問題としての貧困はこの国にはないと思います」と答えている。2006年の時点で日本の貧困率は15.7%と先進国で際立つ高水準に実際はあったにもかかわらず、竹中氏は「貧困はこの国にはない」と平然と言ってのけていたのである。
湯浅誠氏は、この竹中氏の発言に対して、「当時、小泉・竹中構造改革によってネットカフェ難民や路上生活の若者が増え、もやいへの若者からの相談が増え続けていました。にもかかわらず、竹中さんは『貧困はこの国にはない』と言い切り、私たちの目の前にいる貧困に苦しむ人たちの存在を全否定しました。実はこの竹中さんの発言に怒りを持ったことがきっかけとなって、まずは『日本政府による貧困率の測定』をせまる必要があることや、「貧困」をキーワードに横断的な組織をつくろうと思い立ち、2007年の反貧困ネットワーク結成へとつながっていったのです」と振り返っている。小泉・竹中構造改革は、自分自身の“墓掘り人”“おくりびと”を自らの手で生み出していたということになる。
毎日新聞は、「これまで、政府による貧困率の測定が行われなかった背景には、日本に貧困層はないという思い込みと、貧困率が明らかになった場合、その割合を削減しなければならないという政治的な責任が発生することがあったとみられる。政治家は自己責任論などを背景に“格差は仕方ない”とは言えても、“貧困はそのままでいい”とは言えない。世界では、貧困は解決すべき政治的な課題と見なされるからだ。政府が一歩踏み込んで貧困率を測定したことは、貧困の現実に目を向けるという意味で評価できる。同時に、政府は貧困率をいかにして削減するかの責任を負ったことになる」「15.7%という数字は重い。貧困率をいかに削減するか、雇用のみならず、教育、住居など各分野で広がる貧困に、総合的に計画的に取り組むことが求められている」と指摘している。

